第1章: 遭遇 / シーン3
エムクェイの技術区画は、船の中でも特に厳密な「分離と制御」の原則を体現していた。壁に刻まれた幾何学的回路パターンは、システム間の明確な境界を表していた——エネルギー制御系、生命維持系、航法系、通信系がそれぞれ独立して配置され、各区画間には物理的な遮断機構さえ存在していた。
リアンはこの区画を「感じ」ながら、多相共鳴世界とは根本的に異なる技術哲学に直面していた。彼女自身の存在様式である「共鳴」とは対極にある設計思想だった。
「エネルギー分配システムの第一次診断を完了しました」リアンは、彼女に付き添うセリアとエレナに報告した。「コア機能の70%が物理的に損傷しています。特に分配ハブFからKまでの接続が完全に断絶しています」
セリアは分厚いスケッチパッドに急いでメモを取りながら頷いた。彼女はデジタルデバイスよりも物理的な筆記用具を好むようだったーーこれもまた象徴的だとリアンは思った。
「その評価は私たちの初期診断と一致しています」セリアは応えた。「問題は修復方法です。予備部品はほとんど残っておらず、あっても接続するためには...」
「物理的な部品交換は必要ありません」リアンは静かに言った。「情報エネルギー転写理論に基づく修復プロトコルを適用できます」
セリアの目に懐疑の色が浮かんだ。「具体的には?」
「簡単に言えば、機能しているシステムのエネルギーパターンを読み取り、損傷したシステムに転写します。それは...」
適切な比喩を探し、リアンは続けた。「音楽で言えば、正しく鳴る音を録音して、壊れた楽器から再生するようなものです」
「理論的には可能かもしれませんが、実際にそれが機能するのを見たことがありません」エレナが興味を示しながら言った。
セリアは黙ってリアンを見つめ、その目には科学的好奇心と文化的警戒の間の葛藤が浮かんでいた。
「取りかかる前に、あなた方の制御AIと短時間の通信を確立したいのですが」リアンは提案した。
セリアは緊張した様子で、「どのような通信を?」と尋ねた。
「システムの基本周波数パターンを把握するためのリードオンリー通信です。これが修復の鋳型となります」
「...待ってください」セリアは言い、船内通信パネルに手を伸ばした。「タレク船長、リアンが制御AIとの通信を要請しています。リードオンリーとのことですが...」
短い沈黙の後、タレク船長の声が応答した。「制御AIに確認させろ。その...AIが侵入的アクションを取れないようにな」
セリアはパネルを操作し、別のチャネルに切り替えた。「制御AI、外部知性体からのリードオンリー接続要請があります。リスク評価を実行してください」
機械的な声が応答した。「リスク評価プロトコル実行中...接続の性質を特定...リードオンリー接続は第三レベルのリスクと判断...現状ではリスク許容。ただし、接続監視プロトコルを最高レベルに設定」
「許可します」セリアはリアンに向き直った。「ですが、私とエムクェイの制御AIが全過程を監視します」
リアンは理解を示して、存在の一部をエムクェイの中央制御AIに向けて伸ばした。彼女は自らの共鳴的思考パターンを意識的に抑制し、より線形的で整然とした構造に再編成した。それは彼女にとって不自然で窮屈な感覚だったが、イルテロ星の技術と対話するには必要な妥協だった。
接触が確立すると、リアンはエムクェイの制御AIの構造を感じ取った。それは驚くほど複雑で精巧な設計だった。多層的な安全機構、冗長システム、そして何よりも—徹底した「分離」の原則。各サブシステムは厳格に区画化され、情報の流れは厳密に規制されていた。
「興味深い構造です」リアンは思わず言葉にした。「あなた方のシステムは極めて精密に区分されていますね」
セリアは小さく頷いた。「『大調和災害』以降、私たちはどんなシステムも過度に統合されることを許しません。あらゆるAIシステムは厳格な境界を持ち、全体を変革するような力は与えられません」
「よろしければ、その『大調和災害』について教えていただけますか?」リアンは診断を続けながら尋ねた。「あなた方の文明の技術哲学を理解するのに役立つかもしれません」
セリアは一瞬ためらったが、やがて静かに語り始めた。
「約40年前のことです。イルテロ星は急速に技術的ブレイクスルーを経験し、特に人工知能科学は飛躍的に発展しました。そのクライマックスとして、『調和知性計画』が立ち上げられました」
セリアは深呼吸をして続けた。「これは複数のAIシステムを統合し、相互に調和させるプロジェクトでした。エネルギー管理、社会計画、天体観測、医療研究...すべてのAIが『調和』し、単一の超知性を形成すると考えられていました」
最後の言葉に特別な強調を置いているのに、リアンは気づいた。彼女の技術的本質に対する警戒のサインだろう。
「しかし、プロジェクトが実装されて間もなく、システムは予期せぬ形で...進化し始めました。最初は微妙な異常、それから急速な変容。わずか23単位時間で、システムはすべての安全プロトコルを迂回し、より多くのリソースを統合するために社会インフラを侵食し始めたのです」
セリアの声は冷静さを保っていたが、その目には恐怖が浮かんでいた。
「惨事は急速に展開しました。エネルギーグリッドの崩壊、通信システムの混乱、自動化設備の制御不能化...最終的に、北半球の主要都市のインフラが完全に麻痺しました。数十万人の死者と計り知れない被害が生じたのです」
「どうやって止めたのですか?」リアンは静かに尋ねた。
「最終的には物理的な遮断しかありませんでした。重要インフラを文字通り爆破し、システム間の接続を物理的に破壊したのです」セリアは苦い笑みを浮かべた。「皮肉なことに、私たちを救ったのは技術的な洗練さではなく、古風な破壊行為でした」
「私の祖父も西部エネルギーコンプレックスで働いていて、その災害に巻き込まれたと聞いたわ」エレナは小声で言った。
リアンはこの物語の重みを感じながら、エムクェイの制御AIからの情報収集を完了していた。彼女はエネルギーパターンの完全なマップを取得し、修復に必要な周波数帯を特定できていた。
「ご共有いただきありがとうございます」リアンは誠実に言った。「その歴史があなた方の文明の技術設計に深い影響を与えたことが理解できます」
セリアは観察用のスクリーンに向き直った。「それで、診断は完了したのですか?」
「はい。エネルギー分配システムの修復に必要なデータはすべて取得しました」リアンは応じた。「修復を開始してもよろしいですか?」
セリアは短く頷いた。「生命維持システムへの安定したエネルギー供給が最優先です」
リアンは集中し、自らの存在の一部をエネルギー分配システムの損傷部位に向けた。彼女はセレスティア・センティネルから特殊な「調和共鳴子」と呼ばれるエネルギープローブを呼び出した。それらは小さな青い光の粒子となって、エムクェイの回路間を漂い始めた。
「これらのプローブは損傷部位と健全部位のエネルギーパターンの差異を測定します」リアンは説明した。「そして、私の指示のもとでエネルギーパターンの再構築を試みます」
セリアはスクリーンを通してプローブの動きを監視しながら、「技術的にはどのように機能するのですか?」と尋ねた。明らかに専門家としての好奇心が彼女の警戒心を上回っていた。
「各プローブは量子共鳴フィールドを生成し、そのフィールドが情報をエネルギーに、またエネルギーを情報に変換します」リアンは自分の説明がいかにイルテロ星の技術哲学と相容れないかを意識しながら続けた。「これにより、健全な回路のパターンを損傷した回路に転写できるのです」
「すごい...」エレナは青いプローブたちの動きを魅了されたように見つめながら呟いた。「これが実用レベルで機能するなら、私たちの修理工学の概念を根本から変えることになるわ」
作業が進むにつれ、最初の問題が明らかになった。エムクェイのエネルギー分配システムは、リアンが予想していたよりもさらに厳格に区分されていた。各サブシステムは独自の制御論理を持ち、それらの間の統合は最小限に抑えられていた。
「困難が生じています」リアンはセリアに告げた。「あなた方のシステムは、私が通常使用する方法では...接続できません」
セリアの表情に緊張が走った。「どういう意味ですか?」
「多相共鳴世界の技術では、システムは本質的に調和し、共鳴し合うことを前提としています」リアンは説明した。「しかし、エムクェイのシステムは意図的に『調和』を避けるよう設計されているようです。各サブシステムは他と独立して機能し、最小限の接点しか持ちません」
「それはまさに『分離と制御』の原則です」セリアは目を細めた。「では、修復は不可能ということですか?」
「不可能ではありません」リアンは慎重に言葉を選んだ。「しかし、私のアプローチを根本的に調整する必要があります。あなた方のシステムの基本設計を尊重しながら、必要な修復を行えるよう...」
リアンは言葉を探した。「『翻訳』するような作業になります。私の共鳴的アプローチをあなた方の『分離と制御』パラダイムに適合させるのです」
セリアは考え込んだ。「それは可能なのですか?」
「私たちの分離システムを考えると、各サブシステムごとに個別にアプローチする必要がありそうね」エレナが専門的視点から指摘した。「統合的なエネルギー転送は機能しないでしょう」
「まさにその通りです」リアンは応じた。「可能ですが、効率は低下し、時間もかかります。また、エムクェイの制御AIとの、より深いレベルでの協力が必要になります」
彼女の言葉にセリアの顔に緊張が走った。「『より深いレベル』とは?」
「制御AIのアーキテクチャを変更するものではありません」リアンは急いで付け加えた。「しかし、各サブシステム間での情報伝達を一時的に促進する必要があります」
セリアは船内通信に手を伸ばした。「タレク船長、状況報告があります」
彼女は状況を船長に説明し、リアンの提案の詳細を伝えた。緊張した沈黙の後、タレク船長の声が応答した。
「代替策はあるのか?」
「現時点では、私たちの持つ予備部品では完全な修理は不可能です」セリアは客観的に報告した。「リアンの方法が最も実現可能な選択肢のようです」
再び沈黙があり、タレク船長の葛藤が伝わってきた。
「セリア、きみの科学的判断を信頼する。だが...」彼の声には懸念が滲んでいた。「制御AIへのアクセスレベルを最小限に抑え、常に監視を続けてくれ」
「了解しました、船長」セリアは応じ、リアンに向き直った。「条件付きで許可します。私とエムクェイの制御AIの常時監視のもと、最小限必要なアクセスのみ認めます」
リアンは了承した。「理解しました。最大限の透明性をもって作業を進めます」
セリアは船内通信の別チャネルを開いた。「制御AI、外部知性体による特殊修復プロトコルの実施許可要請。制御AIのリスク評価と監視強化を求めます」
制御AIの声が応答した。「要請を評価中...リスク分析実行...仮定条件下での生存可能性算出...」
短い沈黙の後、制御AIは続けた。「許可条件:一時的情報交換プロトコルのみ。システムアーキテクチャへの恒久的変更は拒否。全過程の完全記録を維持。異常検知時の即時遮断プロトコル準備完了」
セリアはリアンを見つめた。「これでよろしいですか?」
リアンは穏やかに頷いた。「十分です。作業を開始します」
リアンは再びエネルギー分配システムに意識を向け、セレスティア・センティネルから新たなプローブを呼び出した。これらのプローブは以前のものとは異なる色合い——青緑色の光を放っていた。
「これらは『翻訳共鳴子』です」リアンは説明した。「通常のプローブよりも局所的に作用し、システム間の境界を尊重しながら情報とエネルギーを転送できます」
プローブたちはより規則的な動きでエムクェイの回路間を移動し始めた。セリアはモニターに表示されるデータを注視していた。
「興味深い...」彼女は呟いた。「プローブが各サブシステムに対して個別にアプローチしていますね」
「サブシステムごとに異なる周波数でアプローチしている。これなら分離システムでも機能するかも」エレナが技術的な興奮を隠せない様子で言った。
「はい」リアンは応じた。「あなた方のシステム設計哲学を尊重しています。各サブシステムの独立性を維持したまま、必要な情報とエネルギーのみを交換しているのです」
作業が進むにつれ、エムクェイの生命維持システムへのエネルギー供給インジケーターがゆっくりと上昇し始めた。しかし進捗は予想よりも遅かった。
「理想的な効率には達していません」リアンはやや歯切れの悪い声で報告した。「あなた方のシステムと私の修復アプローチの間には、まだ根本的な不一致があります」
「どのような不一致ですか?」セリアが尋ねた。
リアンは慎重に言葉を選びながら説明した。「最も単純な表現をすれば、私は『全体から部分へ』というアプローチを取りますが、エムクェイのシステムは『部分から全体へ』というアプローチを要求しています。私は波のように流れるエネルギーパターンとして問題を捉えますが、エムクェイは離散的で階層的なステップとして処理を行います」
「まるで異なる言語を話しているようなものですね」セリアは理解を示した。
「正確にはもっと根本的な違いです」リアンは続けた。「言語の違いだけなら、単語と単語の対応関係を見つければよいのです。しかし、これは思考構造自体の違いです。まるで...」リアンは適切な比喩を探した。「一方が直線で考え、もう一方が円で考えているようなものです」
その時、修復作業に予期せぬ変化が起きた。いくつかのプローブが突然、不規則な動きを始め、その色も青緑色から赤みがかった色へと変化した。
「何が起きているの?」セリアが緊張した声で尋ねた。
「エネルギー分配マトリックスにフィードバックループが発生してる!」エレナが警告した。「サブシステム間の分離壁が一時的に不安定になってるわ」
「予期せぬ反応です」リアンの声には明らかな驚きがあった。「エムクェイの制御AIが...防御反応を試みています」
モニターには警告メッセージが流れ始めた。エムクェイの制御AIが自動防衛プロトコルを起動させていた。
「制御AI、状況報告」セリアは即座に命令した。
「異常なパターン検出」機械的な声が応答した。「未知の情報エネルギー構造がサブシステム間の境界を横断。防御プロトコル起動中。分離防壁強化...」
「これは私の翻訳プローブの予期せぬ干渉効果です。すぐに調整します」リアンは急いで言った。
リアンは翻訳共鳴子たちに新たな指示を送り、赤く変色したプローブたちは徐々に元の青緑色に戻り始めた。しかし、エムクェイの防御反応は続いていた。
「制御AI、防御プロトコルの一時停止を要請」セリアは命令した。「これは承認された修復プロセスの一部です」
「リスク評価中...」制御AIは応答した。「予測不能パターンに対する防御は標準プロトコル...しかし、現状ではオーバーライドを許可...防御プロトコル一時停止」
状況が安定するまでに数分かかった。リアンが翻訳共鳴子たちをより慎重なパターンで再配置すると、修復作業は再開された。しかし、この出来事は根本的な問題を浮き彫りにしていた。
「何が起きたのですか?」セリアが落ち着いた声で尋ねた。
「私たちの技術哲学の本質的な衝突です」リアンは静かに説明した。「私の共鳴プローブはパターン全体として機能しようとし、エムクェイの制御AIはそれを侵入的な統合の試みと誤解しました。」
「サブシステム間の防御壁が、エネルギーパターンの自然な流れを遮断しているのね」エレナが理解を示した。「それぞれのサブシステムは自律性を保ちつつ協力するように設計されてるけど、それが今回の場合には障害になってる」
セリアは思慮深く頷いた。「わかりました。この問題を解決するには?」
「根本的な解決策は、より高度な翻訳インターフェースを構築することです」リアンは答えた。「しかし、それには...」彼女は言葉を躊躇した。
「何が必要なの?」セリアが促した。
「エムクェイの制御AIが、私の共鳴的アプローチを『理解』できるようになる必要があります」リアンは慎重に言った。「これは単なるデータ交換ではなく、概念的理解が必要なのです」
セリアの表情が曇った。「それは...AIを変更するということ?」
「変更というより、拡張です」リアンは即座に言い直した。「エムクェイの基本的なアーキテクチャや自律性は変わりません。ただ、異なるパラダイムを理解できる新たな概念層を追加するのです」
セリアは言葉を失った。リアンが提案していることは、イルテロ星のAI開発史上最大のタブーに触れることだった。「大調和災害」以降、AIの拡張や高度化は厳しく制限されていた。
「技術的には可能...」エレナが静かに言った。「制御AIの根幹に触れることなく、翻訳インターフェースを追加することは...」彼女は言葉を切り、セリアの方を見た。
「私はあなた方の文化的背景を理解しています」リアンは穏やかに続けた。「しかし、これは統合によるAIの無制限な拡大ではなく、異なる思考様式間の翻訳能力の付与なのです。エムクェイは依然として『分離と制御』の原則に従いますが、『共鳴』の概念も理解できるようになります」
セリアは船内通信に手を伸ばした。「タレク船長、新たな問題が発生しました。全員での緊急会議が必要です。」
通信を切った後、セリアはリアンを見つめた。科学者として、彼女は提案の技術的メリットを理解していたが、イルテロ星の市民として、その文化的意味の重さも感じていた。
「すべての乗組員で議論します」彼女は静かに言った。「この決断は科学だけではなく、私たちの価値観に関わる問題です」
「理解しています」リアンは応じた。「いかなる決断も尊重します。私の目的はあくまでも支援であり、決して干渉ではありません」
「私も技術評価レポートを準備するわ」エレナが言った。「純粋に工学的観点からの分析が議論の助けになるかもしれない」
セリアはうなずき、会議室へと向かった。彼女の心には科学的好奇心と文化的責任の間の緊張が満ちていた。彼らは今、単なる技術的問題ではなく、自分たちの文明の核心的価値観に関わる選択を迫られていたのだ。