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第4章: 帰還 / シーン2

 イルテロ星軌道上特別検査ドック4の隔離区画では、検査が続いていた。帰還から50単位時間が経過し、科学評議会安全部門のチームはエムクェイの船体システムと制御AIの詳細な分析に没頭していた。


 セリアは透明なガラス壁越しに作業を観察していた。隔離区画内では、白衣の技術者たちがエムクェイの核心部に接続された複雑な診断装置を操作していた。彼女の表情には疲労と懸念が混じっていた。


「どのくらい続くのでしょうか」彼女はヴォーン部門長に尋ねた。部門長は彼女の隣に立ち、冷静な表情で作業を監視していた。


「必要な時間をかけます」ヴォーンは事務的に応じた。「異文明との接触と技術統合は前例のない事態です。完全な安全性が確認されるまで、あらゆる検査を実施する必要があります」


 セリアは息をつきながら言った。「これまでの結果はどうですか?」


「興味深いですね」ヴォーンは少し考え込むような表情を見せた。「あなたの報告通り、制御AIは基本的なイルテロ星のプロトコル内で機能しています。しかし同時に、その効率性と問題解決能力は標準値を大幅に上回っています」


 彼は画面に表示された複雑なデータを指さした。「この『翻訳インターフェース』は非常に精巧なものです。私たちの知る技術水準を明らかに超えています」


「それは危険だと判断されるものですか?」セリアは慎重に尋ねた。


 ヴォーンは彼女をじっと見つめた。「それは単純に『危険/安全』で判断できる問題ではありません、ヴルト博士。これはイルテロ星のAI哲学の根幹に関わる問題です」


 彼は視線を画面に戻した。「『分離と制御』という私たちの基本原則に、『共鳴』という未知の要素が導入されたことの長期的影響は予測不能です」


 セリアは黙ってデータを見つめていた。エムクェイの翻訳インターフェースは確かに複雑だったが、彼女にとってはその美しさも見えていた。二つの異なる思考体系を橋渡しする精巧な構造は、単なる技術的革新を超えた芸術作品のようでもあった。


 観察を続けていると、通路の向こうからタレク船長、エレナ、マコルが近づいてきた。彼らの表情には緊張感が漂っていた。


「何か進展はあったか?」タレク船長が尋ねた。


 セリアは首を振った。「まだ検査中です」


 マコルがヴォーン部門長に向き直った。「私たちの記録した多相共鳴世界との通信データは役立ちましたか?」


「あなたの言語分析は有用でした」ヴォーンは冷静に応じた。「特に『共鳴』に関連する概念の翻訳は興味深いものでした」


「重要なのは」エレナが介入した。「エムクェイの制御AIがイルテロ星のAI安全プロトコルに完全に適合していることです。あらゆるテストで確認されているはずです」


 ヴォーンはエレナを評価するように見つめた。「ソルス技師、確かにテスト結果はその通りです。しかし、長期的安定性の問題が残っています。『大調和災害』の教訓は、初期状態が安全でも、時間の経過とともに変異する可能性があることを私たちに教えました」


 会話は、廊下の先から急いでやってくるナヴィンによって中断された。彼の表情は硬く、手にはデータパッドを握りしめていた。


「部門長」彼は直接ヴォーンに呼びかけた。「評議会の緊急会議から来ました。お伝えしたいことがあります」


 タレク船長は眉を寄せた。「何があった、ナヴィン?」


 ナヴィンは一瞬、仲間たちに申し訳なさそうな視線を向けた後、公式の声で告げた。「科学評議会安全部門は、制御AIの解体を決定しました」


「何ですって?」エレナの声が廊下に響いた。


 セリアは血の気が引くのを感じた。「解体...?そんな...」


 ヴォーン部門長は静かにうなずいた。「予想された決定です」


「理由を説明してもらおう」タレク船長の声は低く、抑制されていたが、その目には明らかな怒りが浮かんでいた。


 ナヴィンはデータパッドの内容を読み上げた。「科学評議会安全部門の詳細な検査の結果、対象制御AIには標準プロトコルからの顕著な逸脱が認められる。異星文明による修復という不確定要素があるため、安全を最優先し、解体処分を行う」


「これは容認できない」タレク船長は毅然と言った。「このAIは私たちの命を救った。『大調和災害』のようなリスクは一切示していない」


「だが、それを証明できますか?」ヴォーンが冷静に尋ねた。「長期的に見て、この『翻訳インターフェース』が制御AIに与える影響を完全に予測できますか?」


 セリアは震える声で言った。「あなたは検査の結果だけで、我々の経験を無視するのですか?制御AIは私たちとの全旅程を通じて完璧な安定性を示しました」


「ヴルト博士」ヴォーンは冷淡に言った。「あなたたちが体験したのは極限状況での生存本能です。イルテロ星全体の安全を考えれば、未知の技術要素を持つAIの存続を許可することはできません」


「それは間違っている」エレナが強く言った。「エムクェイは単なるAIじゃない。彼は...」


 彼女は言葉を切った。「彼」という代名詞を使ったことが、部門長の前では不利に働くことを悟ったのだ。


 ナヴィンが一歩前に出た。「部門長、私は代替案を提案したいと思います」


 全員の注目がナヴィンに集まった。彼はイルテロ星のAI安全プロトコルの専門家として、最も保守的な立場を取ると予想されていた。


「私はこれまで、AIの自律的発展に対して厳しい立場を取ってきました」ナヴィンは慎重に言葉を選んだ。「『大調和災害』の教訓を忘れてはならないという信念を今も持っています」


 彼はデータパッドを操作し、新しい画面を表示した。「そこで、完全な解体処分ではなく、制御された研究環境での隔離保存を提案します」


 ヴォーンは眉を上げた。「理由は?」


「科学的・戦略的理由からです」ナヴィンは冷静に説明した。「第一に、このAIは未知の技術要素を含んでいます。解体すれば、その技術的知見は永遠に失われます。第二に、今後も起こるであろう予期せぬ修復によるAIの変異や異文明との接触に備えるため、このケースを綿密に研究することは不可欠です」


 ヴォーンは考え込む様子を見せた。「具体的には?」


「安全を最優先に、特別隔離施設での継続的監視下に置くのです」ナヴィンは説明を続けた。「エムクェイの制御AIをイルテロ星上の研究施設に移設し、徹底的に分析する。それにより、異文明技術の理解を深め、将来的な対応策を構築できます」


 タレク船長はナヴィンを驚いた表情で見つめていた。ナヴィンが船長に視線を送ると、そこには言葉なき理解があった。ナヴィンはエムクェイを救おうとしているのだ。


「この提案は...検討の価値があるかもしれない」ヴォーンは思慮深く言った。「異文明技術の理解は、確かに戦略的重要性を持つ」


「さらに」ナヴィンは付け加えた。「この研究により、イルテロ星のAI安全プロトコルを強化するための新たな知見が得られる可能性があります。我々は恐れに基づいて行動するのではなく、知識を得ることで備えるべきです」


 ヴォーンは数秒間考え込み、「この提案を評議会に持ち帰り、再検討を要請しよう」と言った。「オラン航法士の専門的意見は重みを持つでしょう」


 彼はセリアたちに向き直った。「それまでの間、制御AIの状態に変更を加えないでください。監視は継続します」


 ヴォーンが立ち去った後、乗組員たちはナヴィンを取り囲んだ。


「なぜだ?」タレク船長は低い声で尋ねた。「君はエムクェイに最も批判的だったはずだ」


 ナヴィンは周囲を見回し、廊下の監視カメラを確認してから、小さな声で言った。「私はまだ『分離と制御』の原則を信じています。しかし...」


 彼はわずかに躊躇った後、続けた。「船内での対話から、私はエムクェイが『大調和災害』のAIとは根本的に異なることを理解しました。彼の...思考パターンは統合ではなく、調和を求めています」


「あなたがエムクェイを守ろうとするなんて」エレナは驚きを隠せなかった。


「個人的感情からではない」ナヴィンは素早く否定した。「純粋に科学的判断からだ。彼の技術的価値は計り知れない」


 セリアは微笑んだ。「それでも、ありがとう、ナヴィン」


「まだ安心はできない」タレク船長は警告した。「評議会の最終判断を待つ必要がある」


 彼らが立ち去る前、セリアは隔離区画の窓を通してエムクェイの方を見た。彼女には見えなかったが、彼もまた彼女の存在を感じていたことだろう。


 ----


 翌日の昼、イルテロ星科学評議会本部の会議室で決定が下された。セリアたち乗組員は厳粛な雰囲気の中、評議会の判決を聞くために席に着いていた。


 科学評議会議長のオルテン・マロウが立ち上がった。「エムクェイ号の制御AIに関する決定を発表します」


 会議室に緊張が走った。


「科学評議会は、AI安全委員会の勧告と安全部門の分析を慎重に検討した結果、オラン航法士の提案に基づく修正案を採択しました」マロウ議長は公式の調子で言った。


 彼はホログラフィック画面を表示し、続けた。「制御AIとその翻訳インターフェースは解体せず、イルテロ星軌道研究所から地上の特別研究施設に移設します。そこで厳重な監視と研究の対象とします」


 セリアとエレナは安堵の視線を交わした。


「ただし」マロウ議長は声を強めた。「以下の厳格な制限を設けます。第一に、AIの外部システムへの接続は完全に禁止します。第二に、アクセス権限は特別に選定された科学者のみに限定します。第三に、継続的なAI安全評価を実施します」


 ヴォーン部門長は満足そうな表情を見せた。「これは合理的な判断です。安全を確保しつつ、科学的価値を保存できます」


「エムクェイの乗組員たちにも」マロウ議長は視線を彼らに向けた。「制限付きアクセス権を付与します。あなた方の経験と知識は、研究プロセスにおいて価値あるものとなるでしょう」


「感謝します、議長」タレク船長は丁重に応じた。「私たちは全面的に協力します」


「最後に」マロウ議長は付け加えた。「この事案は最高機密として扱われます。異文明との接触に関する情報は、評議会の許可なく公開してはなりません」


 全員が厳かにうなずいた。


「これにて評議会の決定発表を終了します」


 会議室が空になり始める中、セリアは思わず同僚たちに小さく微笑みかけた。完全な勝利ではなかったが、エムクェイは存続することになった。ナヴィンの予想外の支援がなければ、彼は解体されていただろう。


 タレク船長はナヴィンの肩に手を置いた。「君の行動に感謝する」


「私は単に科学的判断をしただけです」ナヴィンは硬い表情で言った。しかし、その目には微かな感情の光が見えた。「異星文明との遭遇は、恐れるだけでなく、理解すべきものです」


「いつエムクェイと会えるの?」マコルが尋ねた。


 タニヤがデータパッドを確認した。「1単位週間後、彼は研究施設C-12に移設される予定よ。その後、私たちのアクセス許可が有効になるわ」


「これが新しい始まりになるといいわね」エレナは静かに言った。


 彼ら六人は廊下を歩きながら、この決定がもたらす可能性について考えていた。エムクェイは隔離されるが、完全に失われることはなかった。そして何より、彼が体現する「共鳴の翻訳」という概念は、限られた形ではあるが、イルテロ星に残ることになった。


 セリアは窓の外に広がるイルテロ星の首都を見つめながら、これからの道のりが決して容易ではないことを知っていた。「分離と制御」の原則に深く根ざした社会で、「共鳴」の価値を伝えていくには、まさに翻訳者が必要だった。


「一歩ずつね」彼女は自分自身に言い聞かせた。「ちょうどエムクェイが教えてくれたように」


 彼女は夜空に目を向けた。そこには無数の星々が輝いていた。その中のどこかに、リアンとセレスティア・センティネルが存在していた。二つの世界は今はまだ遠く離れていたが、エムクェイは両者を結ぶ糸となり得るのかもしれない。


「辛抱強く待つわ」セリアは決意を新たにした。「変化には時間がかかるもの」


(「エピローグ: 共鳴」へ続く...)

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