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ツェツィーリアの頭の上に、疑問符がアーチ状にぽんぽんぽんと並んでいる。
「……はい?」
意味が分からなくて、頭の中でもう一度言葉を反芻してみるけれどやっぱり意味がわからない。
この国では妾を持つことは罪に当たらない。
貴族なら血を残すために積極的に妻を娶る家もあるし、正妻が亡くなったあとすぐに後妻が入ることも珍しくはない。寧ろ、複数の妻を養うことができるという一種のステータスになっている節すらある。
珍しいのはツェツィーリアの家の方だ。
彼女の母親が月に帰って以降、当主は新しい妻を迎えようとしたことは一度もない。父の胸ポケットには若き日の母の肖像画が入っていることも知っている。
そんな父親が大好きなのだが、少女の感覚は引きこもっているせいもあって少しばかりズレている──というのは少しばかり横に置いておくとして。
王族も世継ぎを産むため、側室を設けることが多い。
今の王家にも2人の王妃がいて、彼ら双子は第2王妃の実子。第1王妃にも子どもはいるが王女が3人、幼い弟君が1人と王位を継ぐには心許ない。
実質、次期国王は双子のいずれかになるだろうというのが世間一般の見方だ。
もう既にそれぞれに婚約者がいてもおかしくない年頃だ。
だというのに、”双子の婚約者“というのは。
「意味が分からない、という顔だね」
「……ええ。だって、これでは意味がないもの」
だって、数が合わない。
逆ならツェツィーリアにも──納得できるかどうかは別として──理解はできる。1人の王子に対し、2人の令嬢なら。
子を産むに際して、言い方は悪いけれど数が多ければその分、世継ぎが生まれる確率も上がる。だから尚更、“意味が分からない”のだ。
「言い方を変えようか。君には、“期間限定”の、“仮”の婚約者をお願いしたい」
「……ますます分からないわ」
それこそ、王家の権力があれば条件の合う人間などいくらでも見繕えるはずだ。わざわざこんな引きこもりを捕まえてするような話ではない。
「……僕たちには少しばかり、人には言えない事情があってね。できれば、王家の息がかかってなくて、それでいて絶対に逆らえない人間を探していたんだ」
「それでこんな小さなパーティにも顔を出していた、ということ?」
「そうだね。わざわざ時間を作って、遅れてでも出席するくらいには、ね」
彼の言うことが真実であれば、一応理屈は通っている。
王家と婚姻を結んでも不自然ではない身分で、なおかつ婚約者のいない適齢期の女性を探すのならお披露目パーティは最適といっていい。
元々の目的が主催者の娘──ツェツィーリアの婚約者を探すためのものであれば、同じような年齢の女性も招かれる。家同士の横の繋がりを強めるために。
「……だからと言って、私が協力する義理は──」
「ない、とは言わないよな? こっちはお前の秘密を握ってるってのに」
少女の言葉を遮ったのは目付きを更に鋭くした王弟殿下。
抜き身の剣を思わせる金の瞳を見なくたってわかる。
「こっちが提示してるのは提案じゃない。そうなるという結果だ。お前に逆らう余地はない」
──ツェツィーリアに拒否という選択肢はないということも、それ以外に正解がないことも。
貴族社会は明確な縦社会だ。
身分の高いものほど発言力が高く、逆らうことは許されない。この国で最たる発言力を持つ王族に“そうあれ”と示されたのなら首肯を返すしかない。彼らの前では例え黒の鳥でも、白にも赤にもなり得る。
「とはいえ、君にも色々と助力してもらうことにもなるからね。多少の融通は効かせよう」
そう言って微笑む殿下にツェツィーリアは少しだけ眉を寄せて答える。
「結構よ。欲しいものは全て揃っているもの」
「そうだね、確かにエーレンフロイント公爵ともなれば手に入らないものなどそうそうないだろうね。……王家の敷地外、ならね」
「……何が言いたいの?」
「少しだけ調べさせたんだ。君のことも、公爵殿のこともね。少し前から国内の言語学者に接触していること、どうやら古代言語の解読を試みていること。そして、望んだ成果があげられていないこと」
「……貴方には関係のない話だわ」
「王家保管の書庫に古代語の蔵書がある、といってもかな?」
「……!」
にっこりと乗せた笑みは、憎らしいほど美しい。
世の女性を総じて虜にするとの噂だが、今の少女にとっては恐怖以外の何物でもない。
古代言語に関してはお父様に内々に調べてもらっていたものだ。私の体質のこともあって、口止めを怠るとは思えない。その内情がここまで筒抜けとは。
(……でもこれは、逆に好機なのかもしれない)
王族の力で集められた蔵書。
そこになければ、望むものはこの国にないと言ってもいいだろう。
「期間は1年。それ以降は好きにしてもらってかまわない」
「……従えば、さっきのことは忘れてくれる、ということでいいかしら?」
「“さっきのこと”ってのは王族相手に禁術ぶっ放したことか? 公爵家の一人娘が小動物の真似事してるってことか? それとも、白昼堂々全裸で男に跨ってたことか?」
ニヤリと意地悪く口角を持ち上げたのは王弟殿下。
嫌味たっぷりの言葉に、決して強くはない忍耐の糸がプツンと音を立てて切れ、頬に熱が集まる。
「なっ……! ぜ、全部よ! 全部! それに最後のには悪意の含まれた語弊があるわ!」
「うるせえな、きゃんきゃん喚くな小動物!」
「誰のせいで声を張り上げていると思っているの! 王族の癖に淑女に対する作法がなってないわね!」
「ははっ! 社交界に足も踏み入れてない赤ん坊が笑わせてくれるぜ」
「ふん、そんな小娘を脅して言うこと聞かせるなんて、こちらこそティーカップ片手に微笑んで差し上げたいくらいだわ!」
「……ふっ、ふふ」
貴族にあるまじき暴言の応酬、その横でくすくすと堪え切れない笑いが溢れる。
声の主は、当然と言えば良いのか意外と言えば良いのか双子の兄である。先程まで完璧な美しさを誇っていた笑みは幾分か柔らかく、年相応の子どものように肩を震わせて笑いを噛み締めている。
「ふふ、楽しそうで何よりだよ」
「「楽しくなんてない!!」」
「ほら、随分と息も合っているようだ」
不本意ながら声を合わせてしまった王弟殿下を最大限の眼光で睨み返す。すると、同じことを考えていたらしい半月の瞳とぶつかり合う。そのことに何故だか無性に腹が立って、思い切り首を誰もいない方向へと向けた。
反対側で同じように双子の弟がそっぽを向いたのを見て一頻り笑った兄は、ともあれ、と小さく言葉を繋いで場を仕切り直す。
「僕たちは秘密を共有する関係になった。口約束ではお互い不安も残るだろう、と思ってね」
ぱちん、と指が鳴るのと同時に、何もない空間から小さな箱が現れる。
掌に収まるほどのそれに刻まれているのは、黄金で象られた王家の紋様。考えるまでもない。一介の貴族では手にすることは疎か、見ることすら叶わない何かが、彼の手の上にあった。
かちり、と耳に届くのは解錠の音。
しかし少女の目には、箱を開けるための鍵も錠も映ってはいなかった。
誰も触れてはいないのにゆっくりと、しかし確実に小箱の蓋が持ち上げられ、秘められたそれが瑠璃色の光を放つ。
「……これは?」
窓からの陽光を捉えてほんのりと淡く、青く発光するベルベットに包まれていたのは3つの指輪だった。ゴールドの華奢な台座には植物の蔦を模した意匠。センターには王族にしか身につけることを許されていない、曇りのないラピスラズリがひとつ。
「……誓約の指輪、だ」
先程までの暴言が嘘のように静かになった王弟が、足のホルダーから取り出したのは魔法杖。くるりと小さく円を描いた杖先に導かれ、箱に収められたうちのひとつが宙を舞う。
「王家に伝わる特別製、古の魔法が刻印され──いくら俺たちでも、逆らうことは許されない」
「……逆らうって、何に?」
「約束、だよ。この指輪に誓った約束を破ると、罰が下る」
そのまま王弟殿下の左手の薬指に収まった。
すらりとした指には少し大きいように思えたが、金の蔦が僅かに蠢いてその大きさを変えていく。ぴったりと彼の指に沿って這う黄金は、簡単には取り外せそうには見えない。
「ツェツィーリア、手を出して」
少しだけ躊躇いが生まれるが、握られた秘密には変えられない。お父様にもお兄様にも迷惑をかけることなく、婚約者のフリをするだけでいいのなら。
無言のまま差し出した左手を、王兄殿下がそっと下から掬い上げる。白の手袋越しに 感じる熱、近付く距離。
ふわりと浮いたままの箱から取り出した指輪が、彼の手によってツェツィーリアの薬指へと嵌められる。先程見た光景と同じように、金の蔦はしゅるりと少女の指を伝って隙間なく寄り添った。
「うん、よく似合っているよ」
それは嫌味と受け取ればいいのか、お世辞ととればいいのか。顔をしかめて睨み上げるけど、優美な笑顔を返されて感情が読めない。この状況で穏やかに笑えるほど、少女は対人交渉に慣れてはいなかった。
「……貴方も嵌めたら?」
「そうだね。……あ、そうだ」
何を思い立ったのか、白の手袋を外し、こてんと小首を傾げて。
「君につけて欲しいな」
蜂蜜でも溶かし込んだような甘い笑顔が、目の前で花開く。うっかり直撃を受けてしまった少女の心音が、大きくひとつ跳ねる。
いけない、そんなことで動揺している場合では、と落とした視線の先には陶磁器だと言われてもおかしくはないほど整った白い手が差し出されている。
「おい、兄貴……!」
「えっと……?」
随分と慌てた声と、曖昧な返事が重なる。少女の声はもちろん、後者である。
何って、言葉の意味を図りかねているからだ。
状況的に殿下に指輪を、というのはわかった。それを咎めるような、噛みつくような言動が結びつかない。続く言葉を待ってみるけれど、双方共に口を開く様子はない。
「……それで、つければいいの? やめた方がいいの?」
「大丈夫だよ、ほら」
ふわりと浮いた指輪が少女の手の中に収まる。
実にわかりやすく催促されている。横目で王弟の方を確認すると、痛いくらいの視線はそのままだけど止める気はないらしい。
よくはわからないけど、このままでは埒があかない。
そっと手中にある小さなリングをつまむ。先程そうされたように美しい手を掬い上げ、左の薬指に黄金をくぐらせる。
しゅるりと同じように絡んだ金の蔦を確認すると、王兄殿下が笑みを深くする。
「さあ、これで僕らの運命は結ばれた」
窓から差し込む西陽が、ラピスラズリに反射して青の光を散らす。
「……不本意ではあるけどね」
「それはこっちのセリフだけどな」
「なんですって!?」
「うん、仲が良いのは良いことだけど」
「「よくない!!」」
くすくすと口元をおさえる兄に、弟と少女が噛みつく。
またも揃ってしまった声に不満はあるけれど、これで解放されるのならツェツィーリアの考えていた最悪な事態は免れたと言ってもいい。あとは迅速にお帰りいただければ全て解決──
「あとはそうだね、せっかく婚約者になったんだから愛称で呼び合おうか」
──と思ったのだけど。
どうしてそう、ややこしい問題を次から次へと起こすのか!
ただでさえ面倒な状況なのに、王族と愛称で呼び合うなんてことしたら他の人から見ても親密な関係だと教えているようなもの。できれば避けたい、いや絶対に避けるべき事象だ。
「……必要ある?」
「あるさ。うーん、クリスだと面白くないし……ハルトって呼んで?」
「いえ、そういう問題ではなくて……!」
「ルディはそのままでいいよね?」
「……好きにしろ」
「だから、私は愛称で呼ぶなんて一言も……!」
「よし。じゃあよろしくね、ツィー」
反論が全て笑顔で黙殺される。
いけない、ここで折れては今後の生活に大きな支障が出る!
平穏な引きこもりライフのためにも絶対に引けない一線だというのに、入り口から聞こえた金属の落下音が意識の全てをさらっていった。そこにいたのは軽食を乗せたワゴンを押したメイドとマクシミリアン。
「王太子殿下……我が娘と婚約を……!?」
「ええ、そのつもりですよ当主殿」
「ち、ちがうのお父様! これには深い理由が……!」
「ああ、なんて光栄なことでしょうか! 誕生日パーティを仕切り直して婚約披露パーティにしなくては!」
「お父様、まだ私は結婚するなんて一言も……!」
「アミィ、来賓の皆様方に言伝を。後日改めてお詫びとお披露目会を開催しますと!」
「承知致しました」
「だから、待ってって言ってるのにーーーー!!」
悲痛な少女の叫びを聞き入れる人間は、不幸にもこの場には存在しなかった。