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「……昨日はひどい目にあった……」
日付の変わる頃合いまでキッチリ座学を詰め込まれた頭はパンパンだし寝覚めもよくない。すっかりお日様はてっぺんに登っていた。
「ですがお嬢様、今日は御当主様がご帰宅されますから身支度はしっかり致しませんと」
「そうだった! 今日はお父様とランチ!」
「さあさあ、時間がありませんからね」
ベルタが合図をすると、何人もの侍女が部屋の中に衣服やら装飾品やらを運び込む。
「今日は何色のドレスにされますか?」
「うーん、ベルタのお任せで!」
「でしたら、昨晩お出しできなかったキャロットパイの色に合わせましょう」
「もう! 思い出させないでよ……!」
くすくすと笑いながら箱から取り出したのはキャラメル色のドレス。白のレースと金のリボンがあしらわれていて可愛らしくまとめられている。
それらを左右から着付けられながら、頭の中では今日のお父様の追及をどうやって躱そうかと策を練る。
ツェツィーリアの父親、マクシミリアン・エーレンフロイントは王宮で財務官をしている。
その職務は多忙で、この邸宅に顔を出すのは多くて月に数回。決算期には戻らないことすらある。
(だから、今回やり過ごせば……!)
来週に迫った彼女の誕生日まで戻ることはないだろうと踏んでいた。
息の詰まるコルセットを締め、デルタが髪をセットする。半分ほど掬ったアイシクルピンクを、両耳の上あたりでお団子にまとめる。
残った方の髪も丁寧に梳きほぐされ、胸元で軽やかに波打つピンク色はつやつやだ。
優秀な侍女のおかげであっという間に支度が終わり、少し遅めの昼食──ツェツィーリアにとっては朝食も兼ねているのだが──の席についた。
「おはようございます、お嬢様。今日のお目覚めは些かゆっくりですね」
「……誰のせいだと思って」
「何か仰いましたか?」
「いいえ、何も!」
完璧に整えられたテーブルの横に控えているイザークから、ふんっ! と顔をそらして自分の席に向かう。
その後ろについて椅子を引くのはイザークなのだが、一切目を合わせずにベルタに声をかけた。
「お父様はまだなの?」
「もうそろそろかと思いますが……」
そう言って向けた廊下の先から、パタパタと早足で近寄ってくる足音。ほどなくして扉を開けたのは赤の髪を後ろへ流した壮年の男性。この家の主人であるマクシミリアンだった。
「ツィー!」
「おかえりなさい、お父様!」
ツェツィーリアを愛称で呼ぶのは、肉親である父親と5つ上の兄だけ。
そのどちらも仕事が忙しく、滅多にここへ帰ることはない。懐かしい響きに、思わず頬が緩んでしまう。駆け寄ってきた父親の抱擁に、めいっぱい抱きしめ返した。
「変わりはないかい?」
「ええお父様、ツェツィーリアは今日も元気です!」
「……少々元気がすぎるかと」
「もう! イザのバカ!」
ぼそっと呟いたつもりかもしれないが、少女の聴力をなめないで欲しい。
うさぎの耳ほどではないが、人並み以上に周囲の音を拾うことができる。キッとイザを睨みつけるが、笑顔で弾かれてしまった。
「そうだね、昨日のことは私も報告を受けている。……ツィー、どうしてもお披露は嫌かい?」
「……やっぱり、夜は怖いです」
「……そうか」
どの父親も娘には甘いと思うが、マクシミリアンも例に漏れずツェツィーリアに甘かった。
早くに母を亡くしたこともあって、娘のわがままを断ったことは数えるほどしかない。ここまで嫌がっているのに強行しようとしているのも珍しいくらいだった。
そういう負い目があることをわかっているから、少し怯えた風に弱音を吐けばこの優しい父親が折れてくれることを、少女は十二分に理解していた。
「……わかった。王宮でのお披露目は止めることにしよう」
「本当ですか!」
「ああ。こんなに可愛い娘を適当な男にやるのも寂しいからね」
「お父様、大好き!」
逞しい父の胸に飛び込む傍ら、脳内では勝利の拳を振り上げていた。言質を取ればこっちのもの、これでイザも強くは出られない!
「その代わり、来週の誕生日はとびきり豪華にしよう」
「お父様とお兄様も来てくださるのでしょう?」
「もちろん。オスヴァルトにも伝えてあるよ」
「やった! 約束ですよ!」
ここまでくればツェツィーリアの心配事はなくなったと言っていい。晴れて自由の身。
引きこもり放題だし、キャロットパイも食べ放題だし──この体質のせいで他の誰かに迷惑をかけることもない。
彼女の母親は、ツェツィーリアを産むのと同時に月に帰った。
少女の体質は母親譲りで、女系の直系血族に引き継がれるのだという。
能力の使い方は一子相伝。母親の顔も知らないツェツィーリアは、うさぎにならない方法も知らないまま、これまで生きてきた。
彼女にとっては日常の出来事でも、普通の人から見れば姿が変わる人間は異端だ。そのせいで父親や兄、公爵家の評判を貶めるようなことは、絶対にしたくなかった。
(……お母様の日記帳も、早く読めるようにならないと)
サイドテーブルにいつも置いてある古ぼけた日記帳は、亡き母の形見。
内容は失われた古代語で書かれていて、国中の言語学者を尋ねたけれど一人として解読できなかった。
そこまでして隠さなければいけない事柄なんて、ひとつしかない。お母様の、ひいてはツェツィーリアの体質に関連することに違いないと少女は確信していた。
(……お父様、お兄様。もう少し待っていてください。私、ちゃんとした人間としてふるまえるようになりますから)
だから、もう少しだけ。
わずかな時間を稼ぐだけに過ぎなくても。大好きな父の腕の中、祈る気持ちで紅玉の瞳を閉じる。
「お嬢様、朝食をお持ちしましたよ」
「やったあ! 今日のメニューは?」
カラカラとワゴンに乗って運ばれてきたのはガレット。
正方形に形作られた生地の中心にはハムと卵がこんがりと焼かれ、お腹をくすぐる匂いがしてくる。
昨日パイを食べ損ねたのもあって、ぱたぱたと駆け寄ったのがいけなかった。卵黄は綺麗にまんまるを描き、少女が満月を思い出すのに十分過ぎるほどだった。
あ、と声を上げる前に立ち昇る白煙。
華奢な金属音と衣擦れの音が床に落ち、アイシクルピンクのうさぎがちょこんと。
かわいいかわいいとうさぎを愛でる当主の後ろで、イザークが深い溜息を吐くのも、いつものことだった。