血の滲む芸術(家)
六月一日 晴
絵に集中するために故郷から離れて新居に引っ越すことにした。
もう二十年近く住んだ故郷には私の芸術家魂を刺激するものはもうなくなってしまったようだ。
見慣れた建築物、見慣れた鳥、見慣れた人々と風景。
まるで白黒の濃淡で描かれた冬の園のような場所だったが、これから住むところは違う。
空気が色づき、太陽の色が故郷より鮮やかになっている。
なにより川にかかった灰色の橋が鮮やかな水色に帯びているのが決め手だ。
この田園では何もかも。白も黒も色彩を帯びる。
色そのものが生きる場所だ。私はここで本物の画家になるぞ。
六月二日 晴
新しい家。といっても新築ではないが、私は気に入っている。
前の住人の生活のおかげで家自体が歴史の色を帯びている。
新品は長持ちするし、見栄えもいいが、歴史に裏打ちされたものというのは中々作れないものだ。
まぁ寝室は私なりに改造させてもらうが。
近くの森にもたくさんの花が咲いているのを見た。あれを染料にして描くのもよさそうだ。
最初のモチーフはやっぱりあの橋だな。
今日は荷解きで忙しかったから小さな花の絵を描くくらいしかできなかったが、明日からは本気でやるぞ。
六月三日 曇
目の奥に血が溜まっているようだ。
ずーっとあの橋を描いていた、今日一日。
なのに描けない。
いや描けているが、キャンバスに乗っている私の色がどうしても鮮やかじゃないんだ。
ここでは曇空まで波打つ青色をしているのに、キャンバスの中の絵は草花でさえモルタルのような死んだ色をしている。
私の描いているものは躍動する生命。ヴァニタスじゃない!
きっとこれは画材のせいだ。
昨日考えついたみたいに塗料から自分で作り出してみよう。やはり、故郷の画商で買った色だから灰色っぽいのだ。
六月四日 曇
今日は見知らぬ画家と居酒屋で出会った。
ここは居酒屋ですら鮮明で、壁が緑色で床が赤色、ビリヤード台が黄色をしている。
調和のとれた三色をしていたが赤と緑の組み合わせは心の底の何かを掻きむしってくる危険な組み合わせだと感じた。
そいつは今はやりの印象派な絵を描いているという。
写真機より精密な景色の描き手はいないからと、今度は人の内面を描く新時代の絵画師。
まぁ、白黒だけの写真機には私たちが見ている色鮮やかな世界を描き切ることはできないからこれからも写実派が取って代わられることはないだろう。
しかし、ソイツの絵はよくできていた。
私の絵にはない何かがある。
色だろうか。
そこまで造形は上手くないと思った。輪郭もパースも狂ってる。
でも、不思議と完成されている。
満たされるのだ。
私の絵にはそんな満たしが足りないのか。
赤と緑に誘われてその日は酔いつぶれるまで飲んだ。頭が酷く痛む。
六月十日 曇
あれからあの画家とは仲良くなった。ここではブルーと呼ぶことにする。
顔色が静脈血みたいな色をしているからだ。
持病のせいだというが、絵を描くのに病気も貧乏も関係ない。必要なのは描きむしるような情熱だけだ。
おおむねブルーとはそこで一致し、絵画で戦う同志となった。
彼の色は実に素晴らしい。
私にはない色を出している。ここでは見たことのない画材を使っているようだ。きっとあの画材たちが彼にいい絵を描かせているのだと思う。
私も負けていない。最近は近くにある畑で稲を刈る人をモチーフに絵を描いた。
完成した作品を彼に見せると彼は様になっている、と言ってくれた。
特に落日を背景にした稲を刈る人の影がリアルだ、と。
私もこの地で成長しているのだ。
六月十五日 晴
ブルーが一枚描くうちに私は三枚絵を描けるようになった。
どうやら私の中に眠る芸術性がとうとう花開いたようだ。
没頭し、眼が乾燥するのが偶に傷だが、それもいい痛みだ。瞼の裏でインスピレーションの火花になる。
痛み。
そういえば、今日パレットに付いた絵の具をこそぐためのナイフで手をケガしてしまった。
流れた血は見たこともないほど色づいた赤。
トマトや落陽の空のように。私の体そのものが芸術になり始める。
健全な肉体に、健全な魂と誰かが言っていたが、きっと私の体が鮮やかな色を内側に秘めているのは私の魂が芸術に昇華されているからだ。
ブルーも私を恨めし気な目で見ている。批評もしてくるがそれが私の会心作に対する嫉妬だと思うと逆に自信につながる。
相変わらず彼の色は素敵だが、彼の描く森はどこか方向性が曖昧に伸びている気がする。
さすがに木は真っすぐ上に伸びるものだろうに。
六月二十日 雨
ここのところブルーとの意見が合わないことが増えた。
彼の芸術と私の芸術では指向性が違う。だから、彼はもっと私の芸術に対する理解を示し、より学ぶべきだ。こうして交流を続けているのもお互いに切磋琢磨するためだというのに!
私は私なりに努力している彼もそうするべきだ。私に相応しい芸術家になってほしい。
それから、私が自傷することに対して彼は事あるごとに苦言を呈してくるのだ。
私がナイフで手首を切るのは自傷行為ではないのに、だ!
これは私の中にある血の色で絵に彩を加えているのだ。
画材なのだよ。
ブルーの絵が素晴らしく見えるのは彼の画材のおかげだ。それなのに彼は画材をどこで買っているかを答えようとはしない。唯一私に勝っているのがそこだけしかないから、自分のアイデンティティを守りたいつもりなのだろう。そんないずれ剥ぎ取られるものをアイデンティティにしているとは情けない男だ。私の仇名した冷酷という名の方が彼の本名よりも彼らしさを表している。
画材だ。
私の肉体は私の魂に引っ張られて高尚な芸術家の肉体になりつつある。
なら、私の肉体から出る血はもっとも芸術性の高い色だろう。
血は生命の色。
死の濃淡から逃れられる色。
私の血はルビーをすり潰した顔料よりもずっと生命的躍動を秘めている。
きっとマルコ・ポーロの賢者の石の色をしているのだ。
どうだ。
私の描いた花はどこまでも狂気的に情熱的な色の組み合わせをしているではないか。
六月二十三日
外の光がまぶしい。
目が眩むから今日は一日家にいた。
昼間に筆を取って部屋の中をスケッチしてみた。
やはりもうここは誰かの板家ではなく、私の家に染まりつつある。
自室のスケッチはよくできていたと思う。
今日は夜の星を描くつもりだ。
星が見える天気であればいいが……
どうしてだろう。
窓の外を見るのが嫌に億劫だ。
六月二十五日
星の絵は上手くいった。
夜空の色は私の故郷のそれと変わらない。
どこまでも底が見えない井戸のような黒に、明滅する星が目のようだった。
数百万の星の大群を見つめ、また彼らに見つめられながら描いた絵は素晴らしかった。
私の魂の色が見える。
六月二十六日
私の父は教会に努める神父だった。
私もいずれああなると子供の頃は漠然と思っていた。
死者に祈りを、主に信仰を。ステンドグラスくらいしか色がない質素な世界に私は狂気を感じていた。
死者は物だ。血が流れてない。彼らの血は固まっていて冷たい。
父が崇める主も十字架の上に引っ付いているヒトガタのことだ。
神。
救い。
目の前の色も認識できないほどの蒙昧無知な市民たち。
私は芸術家だ……あんな無機質な神を超えるのだ……
頭の奥が痛い。
瞳の裏側が剥がれ落ちる。
六月二十七日
眩しい。
外の景色が、この土地の光が。
私の眼を焼き尽くし色が襲い掛かってくる。
ブルーにこのことを説明せねば、今は彼の静脈色の色あせた肌が一番目に優しい気がしてならない。
彼の肌に直接絵を描いたらきっと素敵だろう。
この町の絵を描きたい。
もっとも偉大な画材を使って。
六月三十日
ブルーの血。
青ざめた血。
彼の血液は月の色をしていた。
夜空に鱗粉のように舞うかのまどろみの光を描くのにちょうどいい優しい色。
彼の右腕から泉のように湧き上がって止まらない、
これなら描ける。
私が扱うにふさわしい偉大なる友。それを画材としてこの鮮烈なる街をキャンバスにそのまま染め上げる。
赤く。
青く。
黒く。
空と夜風に明滅する無数の眼が私を見ている。
全て全て描き切る。
ブルーの死んだ色と私の生きた色を混ぜ合わせて。
七月一日
タブロー・タイトル『我が町』
お読みいただきありがとうございました。
今回の短編の主人公のモデルはオランダの芸術家ファン・ゴッホです。彼も南フランスにいた時代に黄色い家を設立して、そこに画家仲間のゴーギャンを呼び込み一緒に暮らすのですが、一緒に暮らすには馬が合わず最終的にゴーギャンにナイフを突きつけて脅してしまうのです。その後、ゴーギャンはゴッホのもとを去り、ゴッホはあの有名な耳切り事件を起こすというわけです。
画や芸術への執着心がもたらす狂気に呑まれていく姿に恐怖を覚える中で、少し憧れるようなところもあります。では、次の短編でお会いしましょう。ありがとうございました。
江戸銀。




