荒試しとは関係ないけれど人物紹介・斎藤弥九郎
更新がずいぶん遅れて申し訳ありませんでした。
な、何だってーーーーっ!!??
静岡県三島市の三嶋大社にある直胤の刀が『伝・斎藤弥九郎所持』ですってーーーっ?!
天保2(1831)年に直胤が三嶋大社に奉納した刀が昔からあったのは知ってたのだが、令和元(2019)年、新たに直胤作の『斎藤弥九郎の所持刀』が奉納されていたなんて…!!しかも同じく天保2年の秋の作!!
斎藤弥九郎といえば、『幕末の3大剣術道場』の1つ、『神道無念流・練兵館』の『力の斎藤』ではないですか!!(息子である二代目・斎藤弥九郎こと新太郎が『力の斎藤』と呼ばれた説もある)
千葉周作の『北辰一刀流・玄武館』、桃井春蔵の『鏡新明智流・士学館』に並び、幕末に大流行した剣術道場の創設者ですよ!!
桂小五郎ら長州藩の藩士が多数入門した練兵館の神道無念流は力技が多いそうなので、脆い刀なんて使えなかっただろうと思うのよ。
その神道無念流の『力の斎藤』が所持していたなら、やっぱり直胤の刀は別に脆いなんてことなかったんじゃないのかな?
兜割りの実演で直胤の刀の強さを見せた直心影流の師範・男谷精一郎信友も『剣聖』または『幕末の三剣士』と呼ばれた凄腕の剣術家だし、プロが愛用できるくらい直胤の刀は素晴らしかったってことじゃない?
ちなみにこの弥九郎が所持していた(らしい)三嶋大社の直胤の刀は『天保2年』のものだから、『荒試しより前』の作品。なので、荒試し以降に対策を施した物というわけでもないのよね。
居ても立っても居られないほど興奮したくせに三嶋大社まで行くのは面倒くさいのでネットで調べて済ませようとしたら、『刀剣画報vol.28』の『水心子正秀・大慶直胤・源清麿 江戸三作と一門の刀』特集に、この三嶋大社の直胤の刀2振り+文化14(1817)年に造られた1振りの写真と解説が載っていることを知り、一番近い本屋に行って買ってきました。
この本、すごい!!『荒試し』が信憑性に欠けていることも、直胤が実は『江川英龍様と西洋式砲術家・高島秋帆の縁を繋いだ』ことも書かれていました!!
江川英龍様と直胤と高島秋帆のことはいずれもう少し詳しく書きたいと思っています。
さて、話を『斎藤弥九郎』に戻しましょう。
斎藤弥九郎は江川太郎左衛門英龍様の『神道無念流の兄弟子』であり『親友』であり『顧問待遇の家臣』であります。このあたりは最近連載を始めた『夜明け前に死んでしまった英雄と その息子と右腕(江川様と息子が主人公)』にて詳しく描いていくつもりですので、そっちも見てみてください。と、しれっと宣伝しておく。
弥九郎はとにかく江川英龍様と仲が良い。加えて武士階級の面倒くさい規律に当てはまらずフットワークが軽いので遠方まで調査に向かう隠密のような仕事も任せられる、さらに腕も立つので渡辺崋山や高島秋帆の護衛もしていたらしい。
直胤も全国津々浦々(ぜんこくつつうらうら)作刀や研究を兼ねた旅行をしながら江川様に報告をしているので、やっぱり隠密してる。
この時代の剣術家や刀鍛冶は、日本を守るために大変重要な働きをしていたことを強く訴えたい!!
まず、斎藤弥九郎や江川様、渡辺崋山らの『神道無念流』と男谷精一郎信友や勝海舟の父・勝小吉、遠山の金さん、川路聖謨(江川様の朋友)らの『直心影流』は大変仲良し。よく他流派試合をして交流があったらしい。
この『神道無念流』と『直心影流』は当時の政治にとても深く関わっている。神道無念流と直心影流を軸にして歴史を見てみると、
・天保8(1837)年、モリソン号事件が起こり、渡辺崋山(神道無念流)や高野長英らが危機感を募らせる
・天保9(1838)年、直心影流の師範・井上伝兵衛が『何者か』に殺害される(伝兵衛は鳥居耀蔵に出稽古をしている間柄)
・天保10(1839)年、江戸湾周辺に大砲を備える場所を測量する任務に江川様(神道無念流)と鳥居耀蔵(直心影流)が抜擢される
・渡辺崋山らが逮捕される『蛮社の獄』が始まる(鳥居耀蔵が主導)
・水面下で鳥居耀蔵(直心影流)VS遠山の金さん(直心影流)
・天保11(1840)年、アヘン戦争勃発
・天保12(1841)年、江川様(神道無念流)、高島秋帆に入門し、徳丸ヶ原にて西洋式砲術の実演をする(斎藤弥九郎も高島秋帆に入門し、護衛をしながら実演もした。直胤も高島秋帆に面会している)
・天保13(1842)年、高島秋帆逮捕される(鳥居耀蔵の差し金)
・天保14(1843)年の、天保の改革が失敗し水野忠邦が失脚。以後、西洋式の軍事改革は進まなくなる
・弘化3(1846)年、井上伝兵衛を殺害した犯人であり鳥居耀蔵の配下だった本庄茂平次(直心影流)が護持院原にて井上伝八郎の甥・伝十郎と伝兵衛の弟子・小松典膳(ともに直心影流)に敵討ちされる。
政治的な理由で重い刑に出来ない本庄茂平次を『敵討ち』により実質『死刑』にするため、伝十郎と小松典膳に情報を流したのは遠山の金さん(直心影流)。
・嘉永6(1853)年、ペリー来航
・江川様、お台場造りやら反射炉(大砲を量産する装置)やら『海防掛(海軍創設を提案できる立場)』やらを兼任する。高島秋帆も赦免され、江川様の家臣になる。(江川様は秋帆を先生として丁重に扱う)
・江川様、『農兵(陸軍の前身の1つ)』を作ることを提案する(もう何度目かわからないほど提案してる)
・ロシア帝国使節プチャーチンが長崎に来航、川路聖謨(直心影流)らが応対。川路が自身の愛刀・『次郎太郎直勝(直胤の娘婿)の刀』をプチャーチンに贈る
・江川様、ジョン万次郎を家臣にする
・安政元(1854)年江川様、ジョン万次郎と直心影流の師範・団野源之進の娘・鉄の縁談を取り持つ
・男谷信友(直心影流)が『講武所』という幕府直轄で陸軍の前身となる弓術・砲術・槍術・剣術・柔術部門の習練場を作ることを幕府に提案して採用される
・安政2(1855)年、江川様過労死(泣)
・『長崎海軍伝習所(海軍の前身)』が開かれ、勝海舟(直心影流)や江川家家臣団(神道無念流)らがオランダから学ぶ
・安政3(1856)年、江川英龍が開いていた『韮山塾』を江戸にて半分江川家の私塾、半分幕府公認のような形で『芝新銭座大小砲習練場(しばしんせんざだいしょうほうしゅうれんじょう)』として復活させる
・男谷信友が提案した『講武所』が始動、江川家家臣(神道無念流)や弟子達が講武所と『芝新銭座大小砲習練場』の指導を兼任する
※『芝新銭座大小砲習練場』と『講武所』は2つ合わせて『幕府陸軍の前身』となる
ざっくりとした説明ですがおわかりいただけただろうか?『神道無念流』と『直心影流』、がっつり歴史に絡んでます。
たまたま優秀な武士(官僚)がこの2つの流派を学んでいただけではないのよね。
彼らは剣術だけでなく学問所などでも交流を結び、互いに信頼関係を築き議論を重ね、人脈を広げて西洋式軍事改革へのムーブメントを起こしていく。
『直心影流』を学んだ遠山の金さんと川路聖謨、殺害された井上伝兵衛、勝小吉と海舟親子は『神道無念流』の江川様や斎藤弥九郎と近しい関係だが、同じ『直心影流』の鳥居耀蔵とは対立したし、『神道無念流』の江川様は同じ『神道無念流』の水戸藩の重鎮・藤田東湖とは気が合わなかった。
というわけで、単純にこの2つの流派だけがすごいと言いたいわけではないのです。
この2つの流派の中で考え方が共通している人達が協力して時代を動かしているのです。
特に『ジョン万次郎の結婚』は、江川家の家臣達(神道無念流)と団野源之進の弟子(直心影流)が協力して、『アメリカのスパイだと疑われ常に命を狙われている万次郎を守る』という意思表示なのよね。エモい。
まあ、万次郎自身も数え切れないほどの命の危機を乗り越えてきた『猛者』だけどね。
さらに江川様の『韮山塾』の進化版、『芝新銭座大小砲習練場』と男谷信友のアイデアから発足した『講武所』は互いの中から指導者を出し合っていて、やがて『幕府陸軍』に繋がっていく。
『幕府海軍』の前身である『長崎海軍伝習所』でも勝海舟と江川家家臣の肥田浜五郎などは共に『咸臨丸』の乗組員になるし、明治になっても交流があった。
※江川様家臣の肥田浜五郎は、日本海軍機関科士官第1号!!すごいでしょ。『日本造船の父』とも呼ばれているよ。
この流れを見ると、武士同士の交流に剣術がすごく関わってるなと思う。まあ当たり前っちゃ当たり前だけど。
特に斎藤弥九郎は、もとは百姓の息子だけど江戸に出て学者を目指すほど『頭脳』も優秀だったから、江川様や遠山の金さん、川路聖謨などとも交流して蘭学も好意的に理解して支援していて、ただの剣術家では決してなかった。
さらに斎藤弥九郎の晩年のことを書いちゃうと『夜明け前に死んでしまった英雄と その息子と右腕』のネタバレになっちゃうけど、
・『幕府に殉ずる』か『薩長の官軍に恭順する』かの選択を江川家が迫られた時、弥九郎は弟子である『桂小五郎』に江川家を助けるように手紙を書いてくれた。
・娘の『象』を江川家の家臣に嫁がせ、最期まで江川家を案じてくれた。
・桂小五郎は師である弥九郎の遺志を継ぎ、江川様の末娘の『英子』を自分の養女にして長州出身の子爵・河瀬真孝に嫁がせたり、江川様の5男・英武を『岩倉使節団』の留学生に推薦してくれた。
武士が政治を行うという時代の剣術師範というのは、政治的な影響力も大きかったんですね。
さらにこの時代の刀鍛冶は『鉄の第一人者』として大砲造りやら銃造りやらに駆り出されてく。
弥九郎の晩年はこんな感じ。
・慶応4(1868)年、彰義隊(旧幕府側)から首領になってくれと望まれたが拒絶。
・明治政府に出仕し会計官権判事となって大坂に赴任。
・明治2(1869)年、造幣寮の権允となる。造幣寮が火事になった折りに猛火の中に飛び込み、大火傷を負いながらも重要書類を運び出した。
※権允は官位の1つで『ごんのじょう』って読むのかな?左衛門尉的な。権は臨時採用のような意味だと思う。正七位下くらいの地位?
・明治4(1871)年死去。享年74。
ということで、弥九郎は幕府側から『リーダーになって戦ってくれ』という要請を断って、江川家と同じく明治政府側についたということね。どちら側からもとても重要な人物だと、欲しいと望まれる人望があったのね。
明治政府に出仕したのは弟子の桂小五郎に懇願されたから。薩長が、旧幕府側の優秀な人間を退け過ぎてひどい人材不足に陥ったからね、自業自得。
70歳くらいの引退した剣術師範がわざわざ住み慣れた土地を離れて大坂に行き、『会計官』や『造幣寮』職員として『文官』の仕事を勤めるのは大変だったろうな。
それでも弥九郎は『日本のため』に、己の出来ることがまだあると信じて働いてくれたんだろうな。
火事の中に飛び込んで重要な物を運び出す様子が映画やドラマで再現されたら、「やくろーーーっっ!!」って号泣しながら叫んじゃう。
その時の火傷が治らずに亡くなってしまいました。
幕末って幕府側にしろ薩長側にしろ『武士』が花形になりがちだけど、弥九郎は間違いなく英雄の1人だと思う。
みなもと太郎先生の『風雲児たち』でも弥九郎や息子の新太郎はキリッとした顔で描かれていてカッコいいです。
おまけ
直心影流に属する遠山の金さんこと遠山景元の愛刀は『石堂雲寿是一』。
ep.3の『松代藩の荒試しとは』にて
水心子正秀→鈴木治國→長運齋綱俊→石堂運寿是一(6代目石堂運寿是一の養子になり7代目を継ぐ)
と紹介しました。やっぱり水心子系!!
次回はたぶん、今回『直心影流』の1人として名が出た『川路聖謨』のお話になると思います。
彼の日記の中に直胤とのやり取りが残されています。直胤に対しすごく好意的でなんか嬉しくなっちゃう。