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登場人物紹介⑥~真田幸教・山浦真雄~

大変ご無沙汰して申し訳ありません。

前回で『松代藩の荒試しは政権交代によるとばっちり』と結論を出しましたが、最近この話を読んでくださる方が増えてくれて嬉しいかったのでもう少し書こうと思います。


今後は幕末の有能な勘定奉行だった『川路聖謨(かわじとしあきら)』の日記に書かれた直胤の人となりや、韮山代官『江川太郎左衛門英龍』との師弟の絆や共に目指した『日本を護る力』について紹介します。


もう少しだけお付き合いいただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします。


真田幸教(さなだゆきのり)

天保6年(1836)~明治2年(1869)。

真田幸良の長男として生まれる。松平定信は曽祖父(そうそふ)にあたる。父幸良は早くに死去していたため、庶子ではあったが(母は側室で真田の血統ではない)祖父・幸貫の嗣子となる。


嘉永5年(1852年)5月6日、祖父・幸貫の隠居により家督を継ぐ。翌年、ペリーが浦賀に来航すると、横浜の応接場の警備を務めた。


若年のうえ病気がちで、藩内で佐幕(幕府を支持)派の恩田派と尊王派の真田派が争うのを制すことができず、結果として幸貫が登用した佐久間象山などの優秀な人材を使いこなすことが出来なかった。象山が尊王派の刺客によって暗殺されるに及んで、松代藩では真田志摩率いる真田派が実権を掌握(しょうあく)する。


伊予宇和島(いようわじま)藩主伊達宗城の長男・幸民を養子に迎える。


慶応2年(1866年)3月9日、幸民に家督を譲って隠居する。隠居後、側室との間に4人の子を儲け、このうち幸世は成人の後、別家を立て、男爵となっている。




難しいけれどざっくり言えば『病弱で薄幸で部下に恵まれないかわいそうな美(?)青年藩主』。



真田志摩が『仮養子事件』(疑惑)を起こしたけれど、養子に迎えたのは宇和島藩主・伊達宗城の子だから、やはり養子を迎えるには『家格』が大事だよね。



伊達宗城(だてむねなり)は『幕末の四賢侯(しけんこう)(福井藩主・松平春嶽、薩摩藩主・島津斉彬、土佐藩主・山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城の4人)』の一人。天才蘭学者・高野長英や大村益次郎の価値をよく分かってた人。




山浦真雄


やっと『荒試し』の主役、山浦真雄(やまうらまさお(さねお))のターン!!



山浦一門の資料は花岡忠男史の著、『城坂町鉄の展示館~山浦真雄・兼虎(かねとら)作品集』が詳しいのだけど…。



何というか…。すり鉢を丼代わりに使った、大食い自慢を(うな)らせるラーメンのように『盛り過ぎ』な感じが(ぬぐ)えないのよね~…。



まず真雄は文化元(1804)年8月28日、信州小県郡赤岩村の名主、山浦治右衛門昌友の長男として生まれる。ここはふんふん、と理解する。あとで出てくるけれど、『小諸藩』の治める地ですね。



文化12(1815)年12歳の頃、小諸藩の諏訪武右衛門清廉(一刀流)に入門。刀剣収集を始め、試し切りをする。その数なんと200本!



ここら辺から『!?』と思う箇所(かしょ)随所(ずいしょ)に現れる。



まず12歳で刀を集める?14歳で水心子正秀に会う頃までには200本の刀を集めたと書かれているけれど、一本1両(10万円くらい)と低く見積もっても200本で2000万円!?


仮に人から借りたのだとしても、12歳の子に試し斬りまでさせてくれるかな?



さらにこの頃から『父に代わり名主をつとめる』ともある。手伝いじゃなく『名主』になったのかな?



文化14(1817)年、14歳の頃に江戸に出府し水心子正秀に刀を注文するが、『出来上がり具合が気に入らず造り直しを要求』する。



刀造り未経験で身分が特別高いわけでもない14歳の少年が、刀剣界の大御所・水心子正秀67歳に向かって『このままでは気に入らない、自分が言う通りに造り直せば良い刀が出来る』なんて言ったのが事実なら、江戸時代の儒教の『年上を(うやま)うべし』って風潮からあまりにもかけ離れていてちょっと心配になるレベル。



花岡先生は『最高峰(さいこうほう)の刀工である水心子が『一理ある』と思うほどの見識を持っていた真雄はすごい!!』と手放しで褒めているけれど、私は『傲慢無礼(ごうまんぶれい)な振る舞いをした少年を許し、一緒に刀を造ってくれた水心子先生がとてつもなく優しい人』だと思った。人によって受け取り方って違うんだな…。



でもってその後の結婚やら剣術入門やらの歴史はすっとばして…。



文政11(1828)年25歳のとき、水心子正秀の孫娘婿・氷心子秀世に入門、正則と名乗る。技法を弟の清麿(16歳)に伝える。



この時には水心子正秀はお亡くなりになっていたので、あとを継いでいた氷心子秀世に作刀を学ぶ。



なので真雄の刀の原点はあくまで『水心子系』。しかも直系と言ってもよいのではなかろうか。



文政12(1829)年、26歳のとき、上田藩の刀工・河村寿隆(かわむらとしたか)にも弟子入りするが、寿隆の技術に物足りず再び氷心子のもとに行く。



そりゃそうよね、なんたって水心子系の技術は当時の最高峰。対して河村寿隆は山浦兄弟の話題がなければほとんど知られていない人。



でもってここからが疑問点①、



天保8(1837)年、34歳のとき、地元の小諸藩牧野家のお抱え藩工となる。



とあるけれど、松代藩が大慶直胤に刀100本を依頼したがその刀が(もろ)くてすぐ折れると山寺常山が騒いだのが前年の天保7年。



天保7年当時、真雄は刀工として信州に居たけれど、まだどこのお抱え刀工にもなっていなかった。それでもこの時は『松代藩からお声が掛かっていない』。




一説には『弟の清麿を推薦する声はあったが若年ゆえに外された』と伝わっているが、9歳年上の真雄は若年ではない(30代前半)のに候補に上がらなかった??となる。



あくまで私の感想だけれど、山浦兄弟は兄と弟どちらにも熱狂的なファンがいて話を大きくし過ぎて統合性があやしくなっている気がする…。



歴史の資料を読むのが難しいと思う理由が当時の人には『フェイク記事を書いたらいけない』という価値観がまだ重要視されてなくて自分達に都合が良いように書いてたりするんだが、後世の人から見ると『貴重な資料』に見えるから。フェイク記事を見抜く知識がないと信じちゃうよね。



私は『松代藩の荒試し』ネタを知る前に直胤のことを知ったから、荒試しを『ホントかよ』と疑ったけれど、もし先に荒試しの話を知ったとしたら真実だと思っただろうな。



そして弘化4(1847)年、44歳の時に所有地で水論争いが起こり、名主を返上する。翌年、『上田藩』から藩主の刀と藩の軍備用の長巻(ながまき)100本の注文を受け上田に移住する。



疑問点その②、『小諸藩』お抱え刀工でも士分ではなかった??脱藩的なトラブルとかなく円満に『上田藩』に行けたのかな?江戸時代ってもっと移住に厳しいのかと思ってたから意外に感じた。



嘉永5(1852)年、49歳の時に『常陸守』の受領名(ずりょうめい)を贈られたが無視し、終生受領名を刻まなかった。



受領名を刻まなかったのは真雄の信念だけど、受領名をもらった人を下に見るのはいかがなものか?中には『自分のためではなく刀工全体の価値をつり上げるため』に受領名を拝領した人もいて、それはそれで立派だと思う。



そしてここですよ皆様!



嘉永6(1853)年2月、50歳の時に松代藩に『二度』呼ばれる。



一度めは『荒試しをやるから刀を造るように』と言われ、二度めは『荒試し当日に立ち合う』ってことでしょうか。前もって荒試しをやることを教えてもらってるから対策も練れるよね。



対して直胤の刀は20年近く前の量産品。直胤はご存命だったから『同じ条件で荒試し対策をした刀』で荒試しをしていたらどうなっていたんだろう??



直胤に同じ条件を出してないんだから、最初から真雄を勝たせるためのデキレースなんだよね~。



でもって真雄がお抱え刀工として松代藩に採用されたあとに作って納めた軍備用の長巻を荒試しした結果『刃こぼれしても折れなかった』と書かれている。



直胤も刃こぼれしても折れずに残っていますが…。直胤の刃こぼれは悪い刃こぼれだけど、真雄の刃こぼれは良い刃こぼれみたいな??



このあたりでそもそも先に真雄を雇っていた上田藩から『うちが注文した長巻がまだ半分も出来てないのに他藩に行くなんて!!』とクレームが入り、松代藩の強引な引き抜きがあらわになる。



しかも結局『息子を上田藩に残し、真雄は松代藩に』ということで決着するけど、なんかジャイアンがスネオのラジコン奪うアレに見える。



真雄は『小諸藩』→『上田藩』→『松代藩』と仕える藩を替えてるんだよね。こんなに替えるのは珍しいような気がする。しかもご近所で。



仕える藩主が替わるたびに藩主に刀を献上しているのだけれど、花岡氏はそれを『これだけの大名への納入実績は他に類を見ず随一である。記録に基づけば清麿より真雄の方が格が高かった』と言っているけれど…。




お抱え刀工が藩主に刀を献上するのは当然だろうし、縁のない他藩の大名から注文があったわけではないのよね。



さらに花岡氏は真雄のことを『1300年近い長い日本刀工史上、3万人にも迫る刀鍛冶の中、人格者として真雄は真っ先に名を挙げられる人物である』と書いているけれど、『刀鍛冶の人格者ランキング』って見たことないな~。人格って誰がどうやって比べたんだろう?



これまでの真雄のエピソードからは人格者と言うより、どちらかというと『破天荒』『ビッグマウス』のイメージが強いのだが…。それはそれで魅力があるのではなかろうか。












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