登場人物紹介⑤~恩田頼母・真田志摩~
恩田頼母の資料はググってもほとんど出てこない。夏休みに長野に行って調べたかったんだけど、不安障害の娘がコロナ禍で遠出するのを怖がるんだよね…。
恩田頼母の詳しいことが分からなくても直胤の荒試しの話には直接関わらないから、まぁいっか。
むし倉日記という善光寺地震を記録した日記には
恩田頼母(貫実)
寛政10年(1798)~文久2年(1862)とある。
むし倉日記は、1847年(弘化4年)の善光寺地震の震災被害を記録した、松代藩家老河原綱徳の手記。全4巻。善光寺地震について具体的で信頼性の高い震災記録とされている。この地震の復興にに頼母は責任者としてあたっていた。
でも財政難や天災の復興、初めて経験する外交問題など、誰が担当しても難しい局面の政策を失策とされて失脚してしまうのは現代も変わらないなぁ…、政治を担う人は大変だなと凡人はしみじみ思う。
恩田頼母より、ひい祖父さんの『恩田木工民親』の方が偉人として有名だったりする。
恩田木工
享保2年(1717)~宝暦12年(1762)。
信濃国(長野県)松代藩の宝暦財政改革の担当家老。知行一千石。木工は襲名で実名は民親。
藩主、真田幸弘に登用され藩財政の立て直しにあたった。民親の事績をたたえる『日暮硯』によると、家族一門が率先して倹約の気風を広め、年貢先納や御用金賦課を廃して年貢上納を容易にする月割上納制を敷き、山野開墾や殖産興業を推進、家中と領民の精神面も刷新するなど、改革を成就したとする。
しかし『日暮硯』には虚飾が少なくない。廃止したはずの家中半知借上は続き、財政難からも脱していない。勤倹などの精神的唱導はともかく、実現した具体策は月割上納制、学問講釈所など若干にとどまっている。
(コトバンク日本大百科全書『恩田木工』より)
『偉人』と言われたり、『虚飾(内容が伴わないのに外見だけを飾る、うわべの体裁。みえ。)』と言われたり、昔の人の評判を調べるのは本当に難しい…。ここでも写真加工アプリのごとき『盛り過ぎ』が垣間見える。
この『偉人の功績盛り過ぎ案件』を知っていただきたくて、あえて恩田木工も取り上げてみた。
そしていよいよ『松代藩の荒試し』における親玉・ラスボスこと真田志摩について!
私は別に真田志摩を『佐久間象山らと対立したから悪い人』とは思っていない。真田幸貫や佐久間象山を正義とも思っていない。志摩だって武士として己の矜持に従って相次ぐ外敵と天災に苦しみながら必死に未来を見据えて政治の舵取りをしようとしていたであろうから。(知らんけど。知らん人を悪く言うのはよろしくないので性善説で考える。)
幕末という苛烈な時代に必死に生きたであろう人を、エアコンの効いたリビングでイケメンのミュージックビデオ観ながらスマホぽちぽちやってる私が人格全否定する権利はない。
でも松代藩が直胤や胤長を不当に貶めた『荒試し』に関してだけは、やはり真田志摩が親玉・ラスボスだと思う。
真田志摩
文政3年(1820)~明治34(1901)。
幕末の信濃国松代藩筆頭家老。
真田幸貫の代の嘉永4年(1851年)5月に家老として登用されたが、嘉永6年(1853年)、次代の藩主真田幸教の時に
『志摩が、自身の子を次期藩主に据えようとしている』
との流言が広がりこれに怒った幸教により家老を罷免された。しかし、のちに勤皇派である志摩の失脚を狙う公武合体派の画策であるとして、文久3年(1863年)、公武合体派の家老・恩田頼母が没すると、志摩は家老職に復帰する。(別の資料では『恩田頼母が尊皇攘夷』で『真田志摩が公武合体』と書かれていたけど、どちらが正しいのか?)
佐久間象山が暗殺されたのち、幸教に従い京都御所南門警護にあたり、その功で200石加増され700石となる。明治2年(1869年)に藩大参事となる。大正13年(1924年)に正五位を遺贈された。
血統では、真田家中興の祖・真田頼昌の五男である鎌原幸定の男系子孫にあたる。(Wikipediaより)
真田幸貫~真田幸教は『真田の血を受け継いでいない』のに対し、真田志摩は『真田の血を受け継いでいる』。
それでも真田幸貫は『松平定信の子』という肩書きがあったけれど、その孫である若干16歳(数え年で17歳?)で藩主になった幸教は、
『松代藩の中で自分より真田の先祖に近い、祖父が最も警戒していた家臣』
にでかい顔をされて、さぞかし肩身が狭かっただろうなと同情しちゃう。
研究論文誌『松代 第27号』「第九藩主 真田幸教の「家」戦略(佐藤宏之)」※①には、真田志摩が『自身の子を次期藩主に据えようとしている』という噂が出た事件を『仮養子事件』と呼び、『政庭微茎』では、この一件を松代藩にとって
『三大凶件』
のひとつと位置づけている、と記載されている。
研究論文誌『松代 第6号』「松代藩の御一新(仁科叔子)」※②に載っている詳細には、
幸教18歳(数え年)にして尚世情に暗かった為に両党の軋轢は一層甚だしくなった折柄、たまたま幸教年少にして嗣子なき故を以て、真田志摩は自分の子の某を仮養子(嗣子なくして死する時は其の家名を断つという幕府の制があった。故に嗣子なき者は秘かに仮養子を定めおき万一の変に備えた)となし、十万石の領地を横領せんとの意図を有して画策し居るやの風説を流布する者があり、幸教これを聞いて大いに激昂する処があった。
と説明されている。ざっくりいうと
幸教はまだ若くて世継ぎがいないから今の内に我が(真田志摩の)子を仮養子にしてお家乗っ取っちゃおう
という、真実か嘘かはともかく噂が流れたのを幸教が聞いて怒った、ということだ。実際この事件のあと、幸教のもとには早世してしまうとはいえ立て続けに男児が3人産まれている。そりゃ怒るわ。後継者争いが起こっちゃうもん。
養子というのは基本は同じくらい格式の家からもらうものだろうから、必要ならよその10万石くらいの大名家からもらうはず。家臣である家老の家から養子をもらったら、他の家臣が納得しないだろうな。
※①ではさらに「幸教公書付」では、
幸教は「近ごろ『奸曲(心に悪だくみがあること) 邪賊のもの』が多くなり、政治にとって害が多く不安であり、これら私利私欲に走って妻子を顧みず、国家を傾かせ、政治を乱す者を国家の興隆のために藩政から排除したい」
と、藩士の実名26名を挙げている。として、真田志摩を藩政から排除したい藩士の筆頭に挙げている。
※②には、幸教が『矢澤家老(監物のあとを継いだ将監)に宛てた書状』で
真田志摩・鎌原伊野右衛門・長谷川深美の三人には、当人自裁は勿論の事(自分で命を裁て・自殺せよ)と決めつけている。
と書かれている。
ただ、幸教は真田志摩だけでなく恩田頼母のことも、実母のことまで怒っている。そりゃ怒りたくもなるだろうな。外患内憂の多難な時代に、日本国のためどころか地元で足の引っ張り合いばかり。大変な時こそ与党・野党協力して乗り越えなきゃいけないのに、支配地もずっと経営難のまま。
ただし注意したいのは、恩田木工の説明で『盛り過ぎ』に触れたけれど、真田志摩の場合は佐久間象山や真田幸貫をリスペクトする人から反発を浴びて不当な『下げ』をされている可能性も無きにしもあらず。
奇しくも山浦真雄を上げて直胤を下げる荒試しのように。
大阪市立博物館学芸員の佐久間道子さんという方が1994年に発表された『対外的危機と討幕派の形成の関連について~信州松代藩を対象に~』という論文は『嘉永年間におこった一連の失脚事件の具体的開明を目指して』書かれたそうで読んでみたかったが、残念ながら論文の全文は読めなかった。概要には
(1)嘉永5~6年にかけて失脚した人々の中には、軍事関係の職についていた者が相当数含まれている。しかし、必ずしも要職にあった者ばかりではなく、むしろ階級はまちまちで、現在の段階では共通性、規則性を見いだしえない。
(2)嘉永5~6年からしばらくの間、刷新、一新御改革などという単語が触れなどに用いられるが、特に何かを改めるという風潮は見られない。まして、これまでの政策を批判したりするような文書は見当たらない。
(3)しかし、家老であり、藩主の一族でありながら、前藩主治世中にはほとんど公文書に名を表さなかった真田志摩という人物が、嘉永5~6年からしばらくの間、政務を担当している。この人物は幕末に藩論を討幕に統一した人物である。さらに、この側近と思われる集団が相談して政務にあたったことが、推測される一連の書簡群が現存している。
とある。
(1)の、『失脚した人々の中には軍事関係の職についていた者が相当数含まれている』というところと、(2)の、『特に何かを改めるという風潮は見られない』というところから私が勝手に推測したのは
政権交代してみたものの、恩田頼母らの前政権の政策が『失策』というほどではなかったので『刷新』が出来なかった。でも新政権として何かしらの『改革』をして実績を作らなければならない。そこで槍玉に上がったのが『軍事関連』。
『軍備品』としての刀の『荒試し』は、
真田志摩率いる新政権による『改革』を目に見える形で知らしめるために、『恩田派のひいきである直胤を貶めて、自分(真田派)が見いだした山浦真雄を持ち上げるための派手な演出をあらかじめ筋立てて』行われたのではなかろうか。
つまり直胤さんの刀がボロボロにされて評判を貶められたのは、松代藩の政権交代による『とばっちり』。
おまけ。荒試し当時の実年齢は以下のとおり。
恩田頼母 55歳
真田志摩 33歳
真田幸教 17歳
山寺常山 46歳
佐久間象山 42歳
金児忠兵衛 35歳
意外と志摩さん若いのね。若いからこそ『改革の実績』が欲しかったかもしれない。
結論が出ちゃった…。でもまだ直胤さんの人物評とか書きたいことがあるので
『最終回じゃないぞよ、もうちっとだけ続くんじゃ』