登場人物紹介④~真田幸貫・江川太郎左衛門 英龍~
前回紹介しきれなかった真田幸貫から。彼は荒試しの時はもうお亡くなりになっているけれど、『真田(志摩)党』と『恩田(頼母)党』の政権争いにおいてとても重要な人だから長くなるけど紹介&私見を述べます。
真田幸貫
寛政3年(1791)~嘉永5年(1852)。
寛政の改革を主導した松平定信の長男として白河藩の江戸藩邸で生まれる。ただし、側室の子であったこともあり、公的には次男とされた。
文化12年(1815年)、松代藩7代藩主・真田幸専の養嗣子となる。
文政6年(1823年)家督を継ぎ、藩政を担当する。天保の改革が始まると水野忠邦によって老中に抜擢された。藩政においても佐久間象山をはじめとする有能な人材を多く登用して洋学の研究に当たらせ、幕末における人材の育成を行った。また殖産興業、産業開発、文武奨励などにも努め、藩校としては文武学校開設の基礎を築いている。また文人としても優れ、画や和歌に秀逸は作品を数多く残した。しかし晩年には、藩政改革の路線を巡る対立から重臣達による内紛を招き、これが幕末まで尾を引いた。
弘化4年(1847年)3月24日には善光寺地震が発生し、松代藩領内でも大きな被害が生じた。
幸貫は正室・雅姫との間に4男5女を儲けたが、いずれも夭折・早世した。そこで真田家の血筋を求め、幸専の妹が肥前島原藩主・松平忠馮に嫁いで生んだ十男・幸忠を養嗣子に迎えたが、これも数え15歳で早世する。幸貫には実子として幸良がいたが、真田家に養子入りする前年に生まれたため、幕府には実父・定信の末子と届け出ていた。結局この実子を養嗣子として迎え入れたが、数え30歳で先立たれたため、その長男・幸教が嫡子となった。、幸貫は隠居して孫の幸教に家督を譲ると、6月8日に62歳で死去した(Wikipediaより)
とあるが、う~ん、モヤモヤする…。
真田幸貫が『名君』ともてはやされるのは『佐久間象山ありき』ではなかろうか。有能なら下級藩士でも重用したというのは美談に思われがちだけれど、幸貫が推した象山はあまりにもクセが強すぎて反対派を怒らせてばかりで、幸貫はそれをうまく抑えられなかった人だよね。
佐久間象山が蘭学を学び始めたのが天保13年、蘭学者の弾圧『蛮社の獄』は3年前の天保10年。世の中は象山が蘭学を志すよりずっと前に蘭学の価値を解っていて、だからこそ危険視された。
佐久間象山が江戸に遊学する費用年額18両×3年分(?)。象山が求めて藩の金で買った蘭学書は約100両。それでいて象山が翻訳した書というのが残されていないため、『象山がどれほど蘭学ができたのか分からない』。これでは費用対効果は…??
象山個人として偉人であったかどうかはこの際関係ない。藩の政治として限りある財政の遣り繰り的に、象山にこれほど金をかけて大丈夫だったのか?
真田宝物館発行の論文集『松代』創刊号の「悲運の藩主 真田幸教と佐久間象山(前沢英雄)」には、
弘化の地震や先代幸貫の積極政策等によって、藩の財政は極度に窮迫していて、幸教の引き継いだ時には藩の負債も十万両に達していたという。
と書かれている。20歳にも満たない、真田の血を引いていない9代藩主、真田幸教が多額の負債・家臣団の政権争い・傲慢不遜な佐久間象山を背負わなきゃならなかったこと(佐久間象山の処罰を藩の中で決めようとしたら幕府の横槍が入った)は、お祖父さんの幸貫の残念なところだと思う。
幸貫は前話の矢澤監物のところにも書いたように、『矢澤監物~恩田頼母の政党』を与党として用いていた。真田志摩の『真田党』は野党のような立場に追いやられていた。
ところが幸貫が隠居する1年前の嘉永4年、恩田党は度重なる失政の責任をとらされて下野することになり、真田志摩が実権を握ることになる。
もし真田幸貫が当時から名君と名高い藩主で家臣や領地の民からの人気が絶大であったなら、真田志摩をもうちょっと何とか出来なかったのか。真田志摩は何をしでかした人物かということは次回『真田志摩』『恩田頼母』『真田幸教』の紹介で語ります。
その前に私の最推し『韮山代官・36代目江川太郎左衛門 英龍』様の紹介をほんの少しだけ。気をつけないと江川様の紹介で長編小説1冊書けちゃう。
江川英龍
享和元年(1801)~安政2年(1855)
江戸末期の代官、砲術家。号は坦庵。通称の太郎左衛門は襲名。詩、書、画をよくし、剣は神道無念流の岡田十松に学び免許皆伝。
享和元年5月13日、伊豆韮山の代官屋敷に英毅の次男として生まれる。
殖産興業、賄賂の厳禁などの徹底した諸施策により、領内は富裕であった。
支配下の海岸は、江戸湾防御の重要地で、多くの海防建議書を上呈した。1839年海岸巡見に際し、渡辺崋山の援助を受けたことから洋学嫌いの目付鳥居耀蔵と対立、蛮社の獄となる。1841年、高島秋帆の兵制改革案を支持し、自らその門人となって砲術を学び、彼の徳丸原演練に尽力したため、ふたたび鳥居らと対立、秋帆の捕縛に及んだ。
1843年鉄炮方となるも、老中水野忠邦の失脚により罷免。以後、農兵論を主張し、海防策の転換を説くが、幕閣からは無視された。この時期、韮山塾において諸藩士に砲術教育を施す。ようやく1853年(嘉永6)ペリー来航直後に登用され、海防、外交の中心として働いたが、まもなく安政2年正月16日、江戸・本所の屋敷で没した。
業績としては、伊豆韮山反射炉(国指定史跡)、品川台場の築造、戸田の造船、種痘の支配下への実施、鋭音号令(気ヲ付ケ、前ヘナラエ、捧ゲ銃)の考案、パンの製作などがある。門人には、佐久間象山、川路聖謨、阿部正弘などがいる。
コトバンク『日本大百科全書「江川英龍」の解説』より
江川様と大慶直胤の関係は『師弟』である。江川様が10歳の時に、刀の鍛錬で使う炭の研究をしていた直胤が伊豆の天城炭を試す許可を江川様のお父様に求めた。
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文政7年、直胤が氷心子秀世、細川正義を連れてきて採寸。後日江川家に刀を納めている。
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江川様は刀好きばかりでなく、全国を渡り歩くことのできる彼らがもたらす情報にも興味を示す。
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文政10年、江川様が直胤に入門。
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直胤は情報を送るだけでなく、高島秋帆との縁を繋ぐ1人となる。
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直胤は70半ばを過ぎて、なお英龍のため反射炉の鉄質と溶解を見る顧問を勤めた。
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江川様の臨終に直胤は立ち会っている。
江川様にとって直胤は刀の師という関係だけでなく『西洋軍事化』『洋式軍備の国産化』を共に目指した理解者であった。