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登場人物紹介③山寺常山、矢澤監物、佐久間象山

次に紹介するのは、荒試しの話の中で直胤を罵倒したとされる山寺常山。


山寺常山(やまでらじょうざん)

文化4年(1807)~明治11年(1878)。山寺久敬(知行160石)の子として生まれる。文政11年に江戸詰めとなり、兵学を平山行蔵、経学を古賀侗庵に学ぶ。天保12年に藩主真田幸貫が老中に就任し、海防を所掌すると、常山は藩士に兵学を講義し、督励した。嘉永5年に真田幸教が藩主となると、側役頭取となり、同6年の黒船来航に際しては、幕閣で藤田東湖や長岡是容らと対応策を画策した。明治3年の松代騒動に際しては藩知事の真田幸民から政務を委任され、民衆の鎮撫に努めた。明治4年に長野県学校が設置されると、教授に迎えられ、皇漢学を講義した。(Wikipediaより)



よく『松代藩の荒試し』をググると出てくる文献には、山寺常山は『相馬大作と並んで平山行蔵の高弟』と表現されている。相馬大作は荒試しに関係ないので割愛。



平山行蔵?どっかで見たことあるなと思って『実伝 江川太郎左衛門』を読み返すと、


まずは『変人』である。


と書かれている(笑)。


Wikipediaからざっくり引用すると、


平山行蔵ひらやまこうぞう)

宝暦9年(1759)~文政11年(1829)。伊賀組同心の30俵2人扶持。いわゆる『武芸百般』に通じていた。 事理一体観に基盤を置いた近世稀に見る兵法家であり、総数2980巻、1085部の莫大な和漢の兵書名、362種の戦地兵器類を収集していた。享年70。



ようするに平山行蔵は伊賀忍者だってばよ!!



だがちょっと待ってほしい。平山行蔵の亡くなったのが文政11年、山寺常山が江戸に出て平山行蔵の弟子になったのも文政11年。わずか1年未満の修業で『高弟』になれるのだろうか?



Wikipediaには『行蔵の門人』も挙げられていて、


別格の高弟は相馬大作、ほか吉里信武、妻木弁之進、小田武右衛門、松村伊三郎を「平山門の四天王」という。 勝海舟の父、勝小吉も行蔵に学んでおり『平子龍先生遺事』という著作がある。



とある。山寺常山は??



ちなみにプロローグで『直胤の刀で兜割り』をした男谷精一郎信友も平山行蔵の弟子である。彼は勝小吉の従兄弟。



ついでに男谷信友おたにのぶともの説明をざっくりと載せちゃう。


男谷精一郎信友

寛政10年(1798)~元治元年(1864)。

8歳のときに直心影流剣術12世の団野源之進に入門し、13歳頃に平山行蔵の弟子になる。直心影流男谷派を名乗った。その実力の高さと温厚な人格から、「幕末の剣聖」と呼ばれる。門下から島田虎之助(山浦真雄の息子・兼虎の師匠)、榊原鍵吉などの名剣士を輩出する。

安政3年(1856年)、幕臣の武芸訓練機関である講武所の頭取並に就任し、門下からも榊原鍵吉などが剣術の師範役に就いた。(Wikipediaより)





なお勝小吉(海舟の父)の『夢酔独言』の文政12年に、氷心子秀世、細川正義、大慶直胤などに『刀剣講』を設けたことが書かれていて、刀の販売目的で『兜割り』の実演をしたのかな?(刀剣講とは、皆で少しずつお金を積み立てて、くじに当たった人から順番に刀を買えるというものらしい。)


これは直心影流師範である男谷が自分の名を掛けて直胤を試しているので八百長じゃないと思う。



話が逸れてしまったが、私が言いたかったのは


『山寺常山を平山行蔵の高弟と言うのは話を盛っちゃってないか?』


ということである。山寺常山が平山行蔵の弟子であることは疑っていないけれど、男谷信友やら四天王やらを差し置いて、入門してから1年未満しか経っていない山寺常山を『別格の高弟、相馬大作』と並べて高弟というのはプリクラで撮った写真のように「あ~、これ盛ってるね」という感じがする。



松代藩の荒試しの話って、ところどころこのような『盛ってるね』感がするのよね。



でもって、山寺常山は佐久間象山と同じく『恩田党』に属し、荒試しを行った『真田志摩』の反対派みたい。



次に直胤のパトロン、矢澤監物について。



矢澤監物(やざわけんもつ)

寛政7(1795)~天保12(1841)。

江戸後期の松代藩重臣。矢沢氏は藩主真田氏の一族で,その祖先真田頼幸が信州小県郡矢沢の城主であったことから矢沢を称している。代々真田家臣団のなかの最高身分として遇された。初め知行1200石。文政9(1826)年家老職を命ぜられ,同12年に御側役勝手掛となり藩財政の統轄の任に当たった。藩主真田幸貫の信任を得て,兵制改革,教育振興,殖産奨励,荒地開墾などの諸政策をおし進め,また幸貫の幕府老中就任問題でもその実現に貢献した。天保11(1840)年には天保飢饉に際して救恤の功ありとして200石加増。翌12年に江戸で病死した。<参考文献>太平喜間多編『松代町史』(笠谷和比古)


(コトバンク「朝日日本歴史人物事典」より)



主君真田幸貫とともに佐久間象山の才能を買っていた矢澤監物は松代藩文化施設管理事務所が発行している論文集『松代』第13号の「矢澤家と矢澤家文書について(鬼頭康之)」の中で、



御役席真田志摩上席与可被 相心得候、



この史料は、幕末にいたって権力を飛躍的に持ちはじめた真田志摩を牽制する意味においても、矢澤家を真田志摩家の上席と改めて位置づけ、周囲へ指し示す必要があったことから発給されたものであろうか。



と書かれている。これを見ると藩主である真田幸貫が真田志摩を警戒して矢澤監物に肩入れしているのがわかる。





きな臭くなってきたところで、荒試しには出て来なかった佐久間象山について。



佐久間象山(さくましょうざん)(ぞうざんとも)

文化8年(1811)~元治元年(1864) 。

幕末の思想家。〈東洋道徳・西洋芸術〉観念の主唱者。松代藩の下級武士の子。朱子学を奉じ,江戸に出て佐藤一斎の門下となり,帰郷ののち1839年再び江戸に出て開塾し,松崎慊堂(まつざきこうどう),藤田東湖,渡辺崋山らと交わる。アヘン戦争の報により対外的危機に目ざめ,1842年江川太郎左衛門に入門して砲術を学び,ついでオランダ語の学習をはじめ,砲術教授の塾を開いて,勝海舟,吉田松陰,坂本竜馬,加藤弘之らを教えた。一方,松代藩主の真田幸貫が老中に抜擢(ばってき)されると,象山は海防顧問となり《海防八策》を提出した。1854年,松陰の密航事件に連座して松代に蟄居(ちっきよ)。洋書をむさぼり読む。1863年赦免,翌年幕命により上洛するが,公武合体・開国進取を説き,攘夷派に暗殺された。

(コトバンク『百科事典マイペディア「佐久間象山」』より)



勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬の師として人気のある(であろう)佐久間象山も、『立ち位置が異なる人から見れば評価も変わる』ので、韮山の江川太郎左衛門英龍様のファンの立場から見たら、



何度も断ってるのに無理やり入門してきたあげく、塾生とケンカして嵐のように去った後、何年も経ってから江川様の悪口を言いまくった人(嘉永3年から悪口を言い出した)。



である。彼が江川様を悪く言っている書状が韮山の『江川文庫』に残されているそうで、(ガイドさんに教えていただいた)まさか悪口を江川様本人に送ったの?



そんな佐久間象山の事も、彼を重宝していた真田幸貫の事も江川様は快く思っていなかったようで、佐久間象山が江川様を悪く言い出した嘉永3年、江川様も家臣に宛てて



「佐賀藩主、鍋島直正様は素晴らしいお人だ。真田などとは全然違う」



なんて手紙を書いちゃっている。松代藩と江川様の間に何があったんだろう…?



そんな佐久間象山は暗殺されるわけだが、黒幕が真田志摩説がある。事実関係は分からないけれど、『真田志摩派』と『恩田党(矢澤監物が亡くなったあと、真田志摩と対抗したのは恩田頼母(おんだたのも))』の抗争によって犠牲者が出ているのは史実である。



そんな藩内の権力争いを止めきれなかったのが、松平定信の息子で真田家の養子になった真田幸貫である。



この話、長くなったので幸貫は次回に回します。そして幸貫は荒試しの前年に亡くなるわけだが、彼の後をついだ孫、真田幸教(さなだゆきのり)は『真田の血を一滴も受け継いでいない』。











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