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登場人物紹介②~金児忠兵衛と小駒胤長~

前回の『松代藩の荒試しとは』で、肝心の直胤さんの年齢を書いていなかった、すみません…。


直胤・・・荒試し当時74歳

山浦真雄・・・荒試し当時49歳

源清麿・・・荒試し当時40歳?(誕生日前だから39歳?)翌年に身体を悪くして自害しているけど、この頃はどんな具合だったのかな?


です。例に挙げた刀鍛冶の中でも直胤さんは最高齢の74歳!いくらお元気なお爺さんだからといって、この年齢の方に刀100本注文するかな?


なので、もし荒試しの結果が直胤さんの方が真雄より成績が良かった場合でも、「やっぱ直胤が最強だよな、今回も直胤に依頼しよう」とはならないと思うのです。やはり最初から直胤は『当て馬』だったのではなかろうか。



今回からは『松代藩の荒試し』で名前が登場した人物の紹介を書こうと思います。



前置きとして、「立ち位置が異なる人から見れば評価も変わる」をこの回でも意識していただければいいなと思います。




まず最初は『刀剣切味並折口試之次第』を書いた金児忠兵衛について。



金児忠兵衛(かねこちゅうべえ)金児伯温(かねこはくおん)


文政元年(1818)~明治21年(1888) 江戸後期-明治時代の砲術家。

信濃(しなの)松代(まつしろ)藩士。藩命で江川太郎左衛門に師事,帰藩して砲術師範役をつとめる。のち再入門して大砲鋳造をまなび,諸藩から鋳造の依頼をうける。戊辰(ぼしん)戦争では新政府軍にしたがい,会津若松城を砲撃して功をたてた。(コトバンク「デジタル版日本人名大辞典+Plus」より)



金児忠兵衛をググると、『刀剣切味並折口試之次第』のほかには忠兵衛が『パンの作り方』を韮山代官の江川太郎左衛門英龍様に尋ねていて、詳しく書かれたレシピを韮山から返信されたといわれる書簡がでてくる。(韮山に手紙が残っているのは控えをとっていたから?)



私がググれる範囲の松代の資料にはあまり登場しなかった忠兵衛だが、江川様マニア必読の韮山の方の資料には別視点の忠兵衛の話がいくつかあった。



まず、戸羽山瀚先生が書かれた『江川坦庵全集 別巻(巖南堂書店)』には



・江川坦庵(英龍)は松代藩の佐久間象山(さくまぞうざん)の入門の条件として松代藩士・河原衛守、金児忠兵衛ほか足軽10人を同時に調練する約定を行った。

松代藩において『高島流西洋砲術』が長く教授せられていたことは『鬼才・象山』に非ずして、彼の金児忠兵衛等に依っている。




戸羽山瀚先生は『ふるさと百話(静岡新聞社)』にはもう少しくだけた言葉で、



・坦庵(江川様の号)は象山の入門とともにかねて申し入れのあった松代藩士、河原衛守と金児忠兵衛の二人にも入門を許したのである。あえて象山の鼻をあかしたわけではないが、彼は人も知る狂人的な熱血の人物、砲術は藩のために習うのではなくて自分の研究の必要から習うのだ。炯眼けいがん)(はっきりと物事を見極める鋭い目)の坦庵は見抜いていたのである。


それに比べると河原、金児の両人は藩の砲術師範として入門を希望してきたのである。それならば高島流の西洋砲術は松代藩にも伝えられるし、長く後世にも残ること請け合いだ。果たして坦庵の目の玉は狂わなかった。松代藩の西洋砲術は金児によって伝習されていったのである。



と書かれている。さらに『ふるさと百話』には胤長についても詳しく記載されていた。わーい☆



『ふるさと百話』18巻 刀工列伝 松下正次著



小駒宗太胤長

文化9年(1812)~慶応3年(1867)武蔵国黒須田(横浜市内)に生まれる。(→荒試し当時は41歳。)


江戸に出て大慶(荘司)直胤に入門し、ひたすら刀剣の鍛錬に精進を重ねた。


直胤は几帳面な人らしく、その銘文は、初期のものを除いては非常に丹念に、一画一画慎重に切りつけている。そしてほとんど花押(かおう)が添えられている。


英龍が自分の鍛錬の相手及び家臣の刀剣類を鍛えてくれる刀匠の紹介を直胤に依頼した。


直胤は英龍の気に入るような弟子をあれこれ人選し、真面目で律儀な愛弟子『胤長』を、江川家のお抱え鍛冶として推薦したのである。そして、


胤長の妻は『英龍の妾』!!


胤長は、師匠にもまさる几帳面な銘文を切ることでもわかるように、大変な律儀ものであったらしく、英龍の信頼も非常に深いものがあったようである。


主人の妾を胤長の妻に下賜されるということも、封建制度の社会にあっては名誉なことであった。




と書かれている。江川様のWikipediaには、「呑んだくれで(直胤から)破門された」と書かれていた胤長だが、実際は破門の事実はなかったみたい。直胤は江川様の目指す『西洋式軍備の国産化』の協力者なので、いい加減な人材なんか寄越さないだろう。事実、人手が足りない&銃を作るのが不本意な胤長のために直胤は2人の弟子を韮山に追加派遣している。




というように胤長が江川様から大切な臣下として重宝されていたとしたら、金児忠兵衛は『師匠の大切な臣下を貶めてしまった』『師匠(英龍)の師匠(直胤)を貶めてしまった』ことになるんじゃないかな?





また、仲田正之先生の『実伝 江川太郎左衛門(鳥影社)』では、難しすぎるので要約するけれど



・天保13年5月、鳥居耀蔵(とりいようぞう)が高島秋帆告発状を評定所に提出していて、英龍が秋帆の身を案じて慎重に慎重を重ねて過ごしているのに、佐久間象山は老中である松代藩主真田幸貫のゴリ押しで無理矢理入門してきた。

英龍は真田幸貫に、象山入門の代償として高島秋帆が逮捕されることのないように働きかけてほしいと願い、約束を取り付けた。

江戸の江川屋敷で講義が始まる。

同年10月、高島秋帆逮捕(無実の罪で10年10ヶ月も囚われの身となった。)

英龍が韮山に戻ったことで韮山塾で講義が始まる。

天保14年2月、佐久間象山が英龍の教えに不満をこぼし他の門人と口論となり『幕内立入り』の許可状をもらって退塾。佐久間と口論した門人達も両成敗で退塾。(入門して半年足らず)。これ以降佐久間象山は、江川英龍の兄弟弟子にあたる下曾根金三郎に頼るようになる。

同年3月?5月?、松代藩から韮山に金児忠兵衛と片井京助が派遣されてくる。片井京助は希代の銃工。雷管銃の製作を成功させる。

同年、荒試しで貶められた『小駒胤長』が刀鍛冶&銃に使われる鉄の加工職人として師匠である大慶直胤の推挙によって韮山にくる。松代藩の片井京助と共に雷管銃製作に携わる。

同年の(うるう)9月、英龍の主張する海防論や西洋式軍備への変革を理解していた老中首座の水野忠邦が失脚。

天保15年正月、英龍が、後に反射炉や種痘(しゅとう)(天然痘の予防接種)などで深く交流することになる鍋島斉正(なべしまなりまさ)と出会う。

同年5月、鳥居耀蔵に目を付けられた真田幸貫が高島秋帆を赦免する約束を果たすことなく老中辞任。

同年6月、松代藩の河原衛守が挨拶に来る。英龍は秋帆の話題に期待をかけたが、出る話は依頼された大砲のこと、水野忠邦が復帰するなら主人(真田幸貫)は早まったことになり残念であることなど自藩の都合ばかり、うんざりする。

同年12月、英龍から金児忠兵衛に免許が与えられる。(河原は?)




と書かれている、と思う…。この本は1000ページ近くあって、文体も素人の私には難しかったので合っているかどうか自信がない…。




ここで荒試しの記録を残した金児忠兵衛(&片井京助)と、直胤と同じように『真雄の当て馬』にされた胤長とのつながりが出てきた。忠兵衛は韮山にいたときに胤長に刀を注文したのではなかろうか。








なんか『実伝 江川太郎左衛門(鳥影社)』から引用したら登場人物が増えてしまったので、ものすごくざっくり人物紹介を添えてみる。(『佐久間象山』と『真田幸貫』は松代藩の人で荒試しに深く関わるので、次回紹介します。)



鳥居耀蔵(とりいようぞう)


儒学の総本山、『林家』の出身。大学頭(だいがくのかみ)林述斎(はやしじゅっさい)の次男。水野忠邦(ただくに)の側近で、「水野の三羽烏(さんばがらす)」の一人。江戸庶民には「妖怪(ようかい)」(耀甲斐(ようかい))と恐れられるほどの強権政治を行った。

1839年江川英龍との対立、渡辺崋山らを告発し処罰に追い込んだ「蛮社(ばんしゃ)の獄」や1843年高島秋帆の下獄など開明派を弾圧し、内外の危機への回避策を幕府専権で守旧派の立場から推し進めようとした。水野忠邦が天保の改革に頓挫すると彼を裏切る。





高島秋帆(たかしましゅうはん) 寛政10年(1798)~慶応2年(1866)


幕末の砲術家,洋式兵学者。高島流砲術の創始者。長崎町年寄を勤める傍ら出島砲台を受け持った四郎兵衛茂紀の3男として長崎に生まれる。父から荻野流,天山流砲術を学んだが,長足の進歩を遂げつつある洋式砲術とは隔絶した差のあることを知り,通詞(通訳)にオランダ語兵書の翻訳を依頼したり,出島砲台の責任者であったことから,オランダ人に疑問を直接問いただすなどしてヨーロッパの軍事技術に関する知識を修得した。また町年寄の特権である脇荷貿易によって各種の火器やオランダ兵学書を買い求め,天保5(1834)年ごろにはこれらの成果を基に高島流砲術,洋式銃陣を教授するようになった。


アヘン戦争(1839)に関する情報に大きな衝撃を受け,天保11年西欧列強のアジア侵略から日本を防衛するために洋式砲術を採用すべきだとする意見書を江戸幕府に提出した。翌年幕命により江戸に出て,5月9日徳丸ケ原(東京都板橋区)で日本最初の洋式砲術演習を行った。これにより幕府の高島流砲術採用が決まり幕臣江川太郎左衛門,下曾根金三郎のふたりに高島流を皆伝して長崎に帰ったところが,かねてから蘭学を蛇蝎のごとく嫌っていた幕府町奉行鳥居耀蔵によって天保13年謀反の罪を着せられ,投獄される。その後ペリーの来航など世情も大きく変化したこともあって,幽囚10年の嘉永6(1853)年に赦免となり,江川太郎左衛門の許に身を寄せ,通称を喜平と改める。


安政2(1855)年には普請役に任ぜられ,鉄砲方手付教授方頭取を命じられ,次いで安政4年富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤め,現職にあって没す。「火技中興洋兵開基」と称えられ,日本の軍事近代化に大きな足跡を残した。

(コトバンク 朝日日本歴史人物事典より)



下曾根金三郎、渡辺崋山、水野忠邦、鍋島斉正は金児忠兵衛から話が逸れてしまうので割愛します。




金児忠兵衛のことを書きたかったのに、どうしても『佐久間象山』が目立ってしまう。


このよく目立つ佐久間象山は『松代藩の荒試し』には名前が出てこない。ただ、佐久間象山の才能を高く評価して重用していたのは、天保時代に直胤の刀を購入することを決めた筆頭家老『矢澤監物』である。



そして荒試しを指示した『真田志摩』は、矢澤監物や佐久間象山が属した『恩田党』の反対勢力の親玉である。










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