『松代藩の荒試し』とは
直胤さんの悪評の元となった『松代藩の荒試し』とは何ぞや?ということを『坂城町鉄の展示館 山浦真雄・兼虎作品集』に寄せられた『山浦真雄と兼虎 その生涯』(山浦一門研究家 花岡忠男先生著)からざっくりと要点だけ引用させていただく。
まず『松代藩の荒試し』の様子は松代藩藩士、金児忠兵衛が書いた『刀剣切味並折口試之次第(とうけんきれあじならびにおれぐちためしのしだい)』に記録されていて国立国会図書館に寄贈されていると書かれている。
国立国会図書館のHPでサーチしてみても引っ掛からないけれど、松代に行って『真田家文書』と呼ばれる7万点にも及ぶ膨大な資料を読めれば『刀剣切味並折口試之次第』の原本も読めるのかな。
ただ、古文書に書かれていることがすべて真実であるとは限らない。
『刀剣切味並折口試之次第』はあくまで松代藩の視点のみから書かれているものであり、直胤側から見たら『アウェー』だということと、この話の中に登場する年は3つあって、
・1つ目は松代藩家老、矢澤監物の推挙で松代藩から直胤に軍備の長巻(薙刀の一種)100本ほど注文が来た天保4~5年。
・2つ目は「藩の軍備として大量購入した直胤の刀が折れやすい」と騒ぎになり、山寺常山が直胤を罵倒した天保7年。
・3つ目は『松代藩の荒試し』が行われた嘉永6年。
天保7年から嘉永6年には17年の開きがある。松代藩は17年もの間ずっと折れやすい直胤の刀を使用し続けていた…?
ということを頭の片隅に置いた上で以下の荒試しの概要を読んでいただければと思う。
まず天保4~5年頃、8代藩主『真田幸貫』は軍備の拡充を図り、一流鍛冶として名高く、松代藩家老『矢澤監物』の贔負であった『大慶直胤』の刀を100余備えさせていた。
これについて伊藤三平先生の『新刀、新々刀の歴史的背景 江戸の日本刀』には
『三川雑記(山田三郎の聞き書き)』によると松代藩主真田幸貫は『清麿』を抱えようとしたが、家臣連の一部(江戸城代家老矢澤監物は大慶直胤と親交)が反対したので、藩主は『窪田清音』に清麿の身柄を預けた
と書かれている。
兄である『山浦真雄』ではなく『清麿』を抱えようとした?山浦真雄は天保4年あたりで30歳、弟の清麿は21歳ほどである。
話を戻します。
直胤は天保7年秋、松代藩の上級武士らの求めにより松代に来て作刀したのだが、武士の1人が直胤の刀を試刀すると脆くも折れてしまった。同じく直胤の刀を指料とする兵学教師『山寺常山(松代三山の一人)』も私的に試刀したところ折れてしまう。
※『常山は古刀を折って直胤にその折れ口断面を比較させた』ところ、直胤は謝罪し、ご内聞にと願って、急ぎ大坂へと去っていってしまった。
こうして松代藩の武具方は脆弱な100余本の直胤刀に困惑し、それに替わる刀を真雄に求めることになったのである。
この後天保12年に矢澤監物が亡くなると、松代藩と直胤の縁はぷつりと途切れた。
この中の※『常山は古刀を折って直胤にその折れ口断面を比較させた』という部分で、折られた古刀が『正宗』という資料もある。
てことは、
・天下の名刀『正宗』も折れますやん!
・『正宗』といったら鎌倉末期~南北朝初期の名工で『大名家のお宝』レベル。知行160石の中級藩士がどこから持ち出してきたのか…。しかも直胤を罵倒するためだけの理由で折るなんて、勿体無さすぎやしないか?
・直胤を贔負にしていたという矢澤監物は知行1200~1400石の筆頭家老。今よりずっと身分・上下関係に厳しい江戸時代に、自分よりだいぶ上位の上司のお気に入りを罵倒するなんて自殺行為では?
なんて疑問を抱きながら後半戦を見ていただきたい。
荒試しの1ヶ月前の嘉永6年(1853)2月頃、松代藩から山浦真雄に招聘の話が来る。(真雄50歳)
↓
真田家家老『真田志摩』が荒試しを命じる。
↓
真雄は荒試し用の刀を2本用意するように命を受け、28日間で作り上げる。
↓
嘉永6年3月24日、試刀会が行われた。集まった藩士120名も、目付役(審判?)10名も、試し役7名も全て松代藩の藩士。
こうなるともう不公平なんてもんじゃないよね…。
まず荒試しで使われた刀は、
直胤→20年近く前に軍備(貸し出し用の量産品)として作った安価な刀。
真雄→『荒試し』をやると知らされ、対策を施して作られた刀。
さらに荒試しの審判も試し役の武士も立会人もみんな松代藩の人達。『裁判官』も『検察官』も『原告』も『記録者』もみんな松代藩士。直胤側の『弁護人』はゼロ。アウェーなんてもんじゃない。この状況で「事実だ」と言われてもねぇ…。
公平性が担保できない情報は信憑性が低いと判断して、巻き藁だの鍛鉄だの砂鉄入り陣笠だの鹿の角だの兜だの革に包んだ鉄製の鎧だのをどれくらい試したかなんていう荒試しの詳細は割愛します。
だって直胤の刀は「刃こぼれした!」「伸びた!」「曲がった!」「折れた!」と馬鹿にされるのに、真雄の刀は「少し刃こぼれしただけ」「少し曲がっただけ」と擁護されるんだもん。
そう、『荒試し』は話に尾ひれはひれがついていると前に語ったが、誇張もされまくっている。よく「直胤はすぐに折れた」「真雄は傷一つ付かなかった」と思われがちだが、実際は直胤の刀が折れたのは5本中の2本。最後まで耐えた刀が『真田宝物館』に現存している。そして真雄の刀も実際は刃こぼれして曲がりもしている。最後は無理やりだとしても折られているので残っていない。
そしてここからが本題。
この時点で実は真雄は『上田藩のお抱え鍛冶』であり、上田藩から依頼されていた長巻100本の注文はまだ47本しかできていなかった。そんな中での『移籍問題』である。
松代藩は荒試しの結果を見て真雄を正式にお抱え鍛冶にすると決めたが上田藩と話をつける必要があるため、真雄が上田に一時帰宅する際、真田志摩は武具奉行の高野車之助と小野嘉平太を同行させている。
そして上田藩と松代藩で『真雄の争奪戦』のようになり、真雄の息子の兼虎が上田に残ることで収まった…らしい。
いやいや、上田藩だってそりゃ怒るって。まだ53本残ってるんだよ、契約違反じゃん。真雄も武士に比べれば立場が弱いから、松代藩に「今の給料より多く出すから」と強く請われたら嬉しいし逆らえないよね。松代藩が藩の力に物言わせて真雄を横から奪ったってことだよね。この『松代藩の荒試し』、別に美談でもなんでもないんだよね。ということで概要紹介終わります。
『松代藩の荒試し』はそもそもどんな目的のもとに行われたものなのか。近頃山浦真雄が人気になったのは、この荒試しが『最強の刀の証明』であるかのように語られているからだと思うけれど、これは別にテレビ番組やYouTubeの企画ような『幕末最強の刀鍛冶は誰だ!?壮絶荒試しで検証してみた!!』みたいなノリで行われたわけではないということをお分かりいただけたかと思う。
この荒試しの結果として山浦真雄が松代藩にお抱え鍛冶として迎えられたことを考えると、お抱え鍛冶として迎えるに足る、頑丈な刀を作れる刀鍛冶を審査したかったのか?
ではなぜ荒試しをされた著名な刀鍛冶が『直胤』『山浦真雄』『小駒胤長』だけなのだろうか。彼らのほかに荒試しを受けたのは、今では名も知られていない松代藩のもともとのお抱え鍛冶と古い時代の刀。お抱え鍛冶候補を探して審査する目的ならば、作者がすでにお亡くなりになっている古い刀(古刀)を試す必要はないような…。
(小駒胤長は直胤の弟子です。そのうち詳しく紹介します。)
直胤や真雄以外にも有名な刀鍛冶はたくさんいたのに、彼らを『荒試し』しなかったのはなぜ?
この時代に生きていて活躍中の有名な刀鍛冶といえば、
①直胤と共に『水心子系の双璧』と呼ばれた『二代目細川正義』。
・天明6年(1786)~安政5年(1858)。荒試し当時67歳。
・津山藩主松平家のお抱え鍛冶。
・『左行秀』の師匠である『清水久義』の師匠。また、『水戸の荒試し』で有名な『勝村徳勝』に教えた時期もある。
②『土佐正宗』の異名を持つ『左行秀』。
・文化10年(1813) ~明治20年(1887)。荒試し当時40歳。
・土佐藩のお抱え鍛冶。サウスポー。学もあり、土佐藩士を支援した。
③水戸の荒試しで名を馳せた『勝村徳勝』。
・文化6年(1809)~明治5年(1872)。荒試し当時44歳。
・①の細川正義と⑤の石堂運寿是一に学ぶ。
・『水戸藩の荒試し』は、納入される刀一本一本をすべて試すもので、同じ刀鍛冶の作った刀でも「こちらは合格」「これは不合格」と判断されるやり方だった。勝村徳勝の作った刀は合格がとても多かった。
④水心子正秀の弟子『加藤国英』を父に持つ『長運齋綱俊』寛政10年(1798)~文久3年(1863)。荒試し当時55歳。
・水心子正秀→鈴木治國に師事。
・甥に石堂運寿是一、弟子に固山宗次・高橋長信など数多くの優れた門人がいる。
⑤徳川家御用鍛冶になった『石堂運寿是一』。
・文政3年(1820)~明治24年(1891)。荒試し当時33歳。
・水戸藩に請われて勝村徳勝に教える。(弟子より若い。)
・嘉永7年/安政元年(1854)にはアメリカへ送る日本刀を、さらに安政6年(1859)にはイギリスへ送る薙刀を作刀するなど、数多くの御用を江戸幕府より依頼される。
⑥山田浅右衛門の試し斬りでお墨付き『固山宗次』。
・享和3年(1803)~没年不明だが「明治3年」と銘が切られた作がある。荒試し当時50歳。
・加藤綱英と長運斎綱俊兄弟に師事する。
・白河藩久松松平家のお抱え刀鍛冶となり松平定信に仕えた。
⑦松江の荒試しで有名な『高橋長信』。
・文化14年(1817)~明治12年(1879)。荒試し当時36歳。
・5代目幸之助冬廣→長運齋綱俊に師事。
・松江藩主松平定安に抱えられた。
・『聾司』とう銘があり、荒試しのストレスで耳が悪くなったという説がある。
⑧直胤の婿養子で後継者『次郎太郎直勝』。
・文化元年(1804)~安政5年(1858)。荒試し当時49歳。
・館林藩主秋元家のお抱え鍛冶。
・川路聖謨がロシアのプチャーチンに贈った刀の作者であり、仲田正之先生の『実伝 江川太郎左衛門(鳥影社)』によると、ペリーから幕府に贈られた『蒸気機関車(4分の1サイズ)』などの鉄の材質を見極める役目も任されたらしい。
⑨水心子正秀の弟子で孫娘婿の『氷心子秀世』。
・ 生没年がわからないけれど、嘉永7年の作が残っているから荒試し当時も作刀していると思う。
・この人はなんと
『山浦真雄の師匠』!!!
・直胤は秀世の兄弟子になるので、直胤と真雄は『伯父弟子』と『甥弟子』?
・ 秀世の師、水心子正秀とその息子二代目水心子正秀(貞秀)が文政8年に相次いで亡くなったあとは『直胤が秀世を指導している』ので、真雄にとって直胤は『師匠』の『師匠』にもあたる?
・ちなみに真雄の師は『河村寿隆(かわむらとしたか・上田藩のお抱え鍛冶)』とよく言われるが、正確には『秀世』→『河村寿隆』物足りなくなって→『秀世』に戻る、である。水心子系(それも孫娘婿)の秀世が師匠だという事実が故意に隠されている気がしなくもない。
ざっと新々刀期の有名な刀鍛冶を挙げてみたが、お分かりいただけただろうか。ほとんどの刀鍛冶のルーツが水心子正秀に繋がっていることを。
その①細川正義系
水心子正秀→細川正義→清水久義→左行秀
水心心正秀→細川正義(+石堂運寿是一)→勝村徳勝
その②長雲齋綱俊系
水心子正秀→鈴木治國→長運齋綱俊→石堂運寿是一(6代目石堂運寿是一の養子になり7代目を継ぐ)
水心心正秀→鈴木治國→長運齋綱俊→固山宗次
水心子正秀→鈴木治國→長運齋綱俊→高橋長信
その③大慶直胤系
水心子正秀→大慶直胤→次郎太郎直勝
水心子正秀→大慶直胤→小駒胤長
その④氷心子秀世系
水心子正秀(+大慶直胤)→氷心子秀世(+河村寿隆)→山浦真雄→源清麿
「大慶直胤の刀は脆い」から始まって、「水心子系の刀は脆い」と言われることもあるが、ではどこから「水心子系」から外れるのか?
刀鍛冶も歴史の中に生きていてその流れに翻弄されているので、実は新刀期終わり頃の『日本刀冬の時代』と呼ばれる江戸時代中期に刀鍛冶になった水心子正秀も、その古参の弟子の直胤も、『刀が売れない時代に美術品としての刀を作っていた』事実がある。
この新刀の時代は『泰平』と呼ばれる平和な時代。刀は売れず、秘伝の技も途絶えてしまった。江戸時代以前の作刀技術はいわゆるロストテクノロジー。
それを復活させようとしたのが水心子正秀。しかしそれは彼の晩年に近い年になってから始まった研究で、彼の作品の多くはその研究以前の美術品としての刀。
直胤も師の志を受け継いで古刀の研究を最期まで続けていて天保時代以降は古刀に近づいたが、その作品はずっと『試行錯誤』の中にある。
だからその『試行錯誤』の中で、ひょっとしたら鉄が硬くなりすぎて折れてしまう刀もあったかもしれない。
そんな正秀→直胤の研究結果を経て次の時代を生きた真雄や清麿とただ比べるのもどうなのかな?
そして話を戻すがなぜこれらの有名な刀鍛冶は試さなかったのか?それはもう、『最初から山浦真雄を雇うことを決めていた』からで、『真雄に箔をつけるために直胤らはわざと貶められた』のだと思うがいかがでしょうか?
なんでことまで考えると、もう収拾がつかなくなるので一旦ここで終わります。
次回からは『松代藩の荒試し』に出てきた人達の紹介をします。