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直胤と川路聖謨(かわじとしあきら)

こちらを更新する前に江川英龍公が主人公の『夜明け前に死んでしまった英雄と 同じ夢を見た人々』という小説を書きました。


そちらに今回紹介する川路聖謨かわじとしあきらも江川様の盟友として登場し、人物像も詳しく説明しています。読んでいただけたら時代背景も良く分かると思います。


直胤も出てきますよ〜。

 伊藤三平氏の著書『江戸の日本刀』に、直胤と川路聖謨(かわじとしあきら)の交流が詳しく書かれています。



 川路聖謨は江川様と同い年で享和元(1801)年4月25日、豊後国日田(現・大分県日田市)に代官の手代(役人)の長男として生まれた。


手代は身分的には『農民』で、役人の仕事をする時だけ『士分』を与えられる、武士階級でない家柄である。


極度の貧困の中、親の期待を背負いめっちゃ勉強させられる。


文化5(1808)年、父が御家人株を買い、下級武士の仲間入り。勝海舟のひいおじいさんも盲目ながら鍼医(はりい)として成功して旗本の株を買っている。川路も勝海舟もここから怒涛の出世をするからすごい。


家柄や身分で就ける役職がガチガチに固まっている江戸時代において、ほぼ唯一の下剋上ができる可能性がある勘定奉行所の下級役員の資格試験である筆算吟味(ひっさんぎんみ)に合格。


江川様の役職である代官も勘定奉行の配下。勘定奉行の管轄する仕事は無能では務まらないから、実力主義だった。


老中・水野忠邦に江川様とともに重宝される。


勘定吟味役という役職の関係で西洋諸国の動向に関心を持つようになり、当時の海外事情や西洋の技術などにもある程度通じていた。


水野忠邦が失脚した後、奈良奉行に左遷される。



今回紹介する直胤とのエピソードは、この奈良奉行時代の川路の日記に書かれたもの。



嘉永6(1853)年、ロシア使節プチャーチンとの交渉を担当し、安政元(1854)年に下田で日露和親条約に調印。その際ロシア側は川路の人柄に大変魅せられたという。


『安政の大獄』で一橋慶喜派とみなされ隠居差控(いんきょさしひかえ)を命じられる。


一度政界に復帰するがすぐに引退。慶応4年、江戸城無血開城を聞き、滅びゆく幕府に殉じた。


中風による半身不随のためうまく切腹ができず割腹の上ピストルで喉を撃ち抜いて自殺した。享年68。



という人です。農民階級から勘定奉行まで出世した幕末きっての優良官僚でありながら、『おならをしたら出てはいけないものまで出た』とかを日記に残しちゃうお茶目なオジサンでした。



そんな優秀かつお茶目で人望厚い川路でしたが、水野忠邦が2度目の失脚をする際に『水野派』として左遷(させん)されて奈良奉行となります。


江川様も『水野派』として鉄砲方を罷免(ひめん)され、ここからしばらく幕府の『西洋軍事化』が停滞します。



そんな冷遇をくらった川路ですが、真面目に職務に取り組み人々からの評判は上々でした。



川路さん46〜47歳頃のことで、直胤は68歳くらい。(と『江戸の日本刀』に書かれているけど実年齢か数え年かは面倒くさいから計算してない。)



弘化3(1846)年の10月29日の日記に直胤が来訪した記録があります。


『夜明け前に死んでしまった英雄と同じ夢を見た人々』の小説で『本庄茂平次』が遠山の金さんの采配で『仇討ち』をされたちょっと後です。



日記には『直胤が研師や弟子を連れて来る。(川路が)体を痛めていることを心配し、直胤が会得している按摩(あんま)の術で治療してくれた』と書かれている。



ちょっと直胤さん、あなた高名な刀鍛冶ですよね??按摩もできるの??すごい(笑)。


川路さんだけでなく、大坂の高僧や鴻池(こうのいけ)さんといった豪商達の治療までしたらしい。しかも無料で(笑)。いい人過ぎない??


しかも多分、川路やその他の治療を受けた人々より直胤の方がおじいちゃん(笑)。


さらに11月1日にも『直胤が再び按摩してくれてコリがとれて快い』と記されています。


翌日は川路の奥様まで直胤に按摩してもらったらしい。直胤さん、めっちゃいい人!!


川路はこの日、直胤の脇差を見て『貞宗(正宗の子)より良い』といい、直胤を『200年来の傑出した一人なり』と評しています。



また、直胤と川路の会話で直胤の師・水心子正秀の話題になり、『水心子は古刀の研究のために石堂の系統に大金を払って秘法を教えてもらった』など、師弟ともとても研究熱心だった記述もあります。


さらに翌年の弘化4年に直胤が再び川路を訪れます。


『10歳児くらいの足の大きさほどの鉄の塊の温石カイロをもらう。温めて布に包み背中、腹にあてて温めてから揉むと大いに効果あり。』


とあるけど、江戸時代の10歳位の子供の足の大きさってどのくらいだろう??うちの三女は9歳で23.5cmだったけど。23.5cmのかかと落としをみぞおちにくらった夜のことをふいに思い出しました。


また、『刀について直胤と深夜まで語り合ったが(川路が)寝落ちしてしまった。直胤は69歳、老いて益々壮健であり刀は一段と見事になる。』

『(直胤は)息を引き取るまで工夫、修行すると言い、その心は優れた儒学者のようだ』

『直胤の按摩の治療が繁盛して(川路の?)屋敷の外に庵をつくり、鍛冶の余暇に、道徳心から無料で治療している。』


と、直胤の徳の高さとどこまでも精進しようとするストイックさが垣間見れる話がてんこ盛りで書かれています。



さらに『よほど心の修行できし翁なり。』とか、『立派な出で立ちで借金もなく、つねに懐に100両もの大金があり、何不自由なく生活している。それも師の教えを忠実に守り精進しているおかげであるという』

という、直胤のマネー事情まで書かれています。



刀鍛冶といえば貧乏だというのが定説で、清麿も借金残して亡くなって弟子がぶつくさ文句言ってたけど、直胤は裕福だったそうです。パトロンもたくさんいたしね。



嘉永元(1848)年には直胤から川路のもとへ手紙が届いたそうで、『70歳になる直胤が天下一の刀鍛冶になってもなお精進を続けることに対し、自分を深く恥じる。だから私は一芸に秀でた人との交流を好む。恥ずることがあることは身の薬に成る。』


と書いています。



川路もめちゃくちゃストイックなんだけどね。


毎朝2時に起きて勉強、読者して、夜が明け始めると刀の素振りと槍のしごきを2000回してから仕事に向かい、他の人より3時間長く残業してる。


江川様も同じような生活してた。


同じような志を持つ人達がそれぞれ極限まで精進してこの国を外国から守ってくれたんだと、感慨深いエピソードでした。




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