表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

捨てル

 それをいつから始めたのか、自分でもはっきりとは分からない。

 理由を外に求めるのは簡単だと思う。

 親がお菓子を買ってくれなかった、着たい服を着せてくれなかった、仲の良かった友達と縁を切らされた、好きな部活に入れなかった、行きたい学校に行けなかった――。

 でも、内に求めるのもやっぱり簡単だ。

 途中で道を諦めた、稼ぎの少ない仕事に就いた、旧来の友人と連絡を取らなくなった、周囲の人と話さなくなった、趣味をいくつか諦めた、安いマンションに住むことにした――。

 全部自分勝手だ。でも当時は、それが自分のためになるのだと思ってやっていた。

 先の見えない世界で、少しでも将来を楽に生きられるよう貯蓄しよう。そう思ってやっていた。


 きっかけが何か、だなんてのは私には分からないし、多分1つには絞れないんだと思う。

 でも、私の底に我慢するという習慣が残ってたのは確かで、それを思い出したのは、ミニマリストやら断捨離やらというワードが世間で流行ってたあの時期だろう。


 とりあえず、無駄なものを削いでみた。

 とりあえず、物を減らすことから試してみた。

 当時住んでいた部屋の間取りは1LDK+S。普通の1LDKにウォークインクローゼットが着いている、都内で1人暮らしをし始める人にしては、少しだけ贅沢な物件。

 親から解放されたその反動で、私は服を買い込んでいた。2回しか着てない3年前の服だって、当時はもったいなくて捨てられなかった。

 だって、自分で稼いだお金で買ったんだ。自分が欲しい服を買ったんだ。それを捨てろだなんて言われたところで、捨てられる人がどれだけ居るだろうか?


 でも、さすがに物が増えすぎた。

 4年も暮らし続ければ、当然埃を被ったまま数年放置されたものが出てくる。

 だからまずはそれを捨てた。少なくとも2年以上触ってないものは不要だと思って、捨てていった。

 その掃除は全然捗らなかった。古い漫画を見つけちゃったり、懐かしい服を体に当ててみたり、喘息の発作に襲われてみたり――理由はたくさんあるけど、最初の頃は全然だった。

 でも少しだけ、ほんの少しだけでもいいから。そう思って掃除を続けた。大体2週間くらい掛かったかな、ようやく全ての物を整理し終えた頃には、言いようのない多幸感に包まれていた。


 いつもより少しだけ広い部屋、いつもより少しだけ綺麗な部屋。

 それを見て、思ってしまった。これ、私の人生にも使えるんじゃないか、って。

 今でも間違いだったとは思わない。でも、絶対に正しいとも言い切れない。


 まずは古い知り合いを整理してみた。

 無駄に増え続けてた友達リストを見て、とても古い知り合いを消してみた。

 だって、そこには中学生時代の同級生とかも居た。未だに連絡を取り合う仲の子も少しは居たけど、ほとんどはもう知らない子。同窓会に行く予定も無かったし、じゃあもういいかなって、削除した。

 同じように、古いバイト先の仲間だったり、友達の友達として紹介されただけの人だったり、今後会うことはないだろうなって人を、削除した。

 懐かしいな、なんて思い出が蘇った人も居る。でももう、あの人達と会うこともないと思う。だから思い切って、削除した。


 少しだけ容量が節約できた。ちょっとした満足感はあったけど、あの多幸感とは比べ物にならないものだった。

 だから今度は小物入れを掃除してみた。

 見た目が綺麗だからと残しておいたリキッドのケースだったり、さっき消してしまった古い友人との思い出の品。

 こういうのは大切だと思ってたんだけど、だからこそ思い切って捨ててみた。

 すっきりした。過去の自分を忘れられるようで……自分が少しだけ大人になった気がして。だから、すっきりした。


 でももう、捨てられるものはあんまり残ってない。

 だから今度は我慢した。欲を捨てる……みたいなイメージで。我ながら突飛な発想だけど、当時は特に疑問が浮かばなかった。


 まずはお菓子を減らしてみた。仕事帰りにまちおかに寄るのは些細な楽しみの1つではあったんだけど、実は贅肉が気になっていた。だから買う量を減らしてみた。

 毎日200円くらいだったのを100円にした。量としては半分になるわけだから、当然物足りなさはあったけど、我慢した。

 自分でする我慢は気持ちいい。あの多幸感の原因はこれなのかなーって、なんとなく考えた。この気持ちよさがあったから、私は自分を節制できた。

 量の次は頻度を減らした。毎日通ってると色んなものに目が移っちゃって、あれも欲しいこれも欲しいってなってしまう。だから火曜日と木曜日だけにした。

 するとちょっとした空き時間が生まれた。それはたったの30分くらいしかないものだけど、家に帰ってシャワーを浴びてベッドに飛び込んで、いつものように開いたスマホに映る「配信開始まで後30分」には衝撃を受けた。


 何かを捨てると何かが生まれる。じゃあこの時間を捨てたら何が生まれるんだろう?

 でもそれは無いものを捨てるということで、自分で決めなきゃいけないことだった。悩んだ私はちょっとした勉強を始めてみた。昔は苦手だった数学の勉強をやり直してみたり、どうしても喋るのは苦手な英語の勉強だったり。

 別に勉強って言ったって、そんな堅苦しいものばっかでもない。新しい料理に挑戦してみたり、最近中国で流行ってるっていうメイクを試してみたり、苦手だったパソコンでタイピングを頑張ってみたり、たまに瞑想してみたり。


 時間を空けると別の何かに再利用できる。

 そんな当たり前の事にようやく気付いて、私の興味の幅はちょっとだけ広がった。世界がいつもよりカラフルに見えるようになった。

 普段なら気にしないような些細な事も調べてみた。そんなしっかり調べたわけじゃなくて、ちょっとスマホでウィキを見てみたり、関連画像を見てみたり……そんな小さなことだけど、知れば知るほど世界は広いんだなって実感した。


 新たに欲しいものが増えて、出費がどんどん嵩んでいることに気付いた。

 世界や興味は広がったけど、別に給料が増えたわけではなかったのだ。やっぱり節約は必要で、無数にある選択肢は、しかしその中から選ばなければならないことを教えてくれた。


 じゃあ、もうちょっとお金があれば?

 そんな発想に辿り着いたのも、別に不思議なことではないと思う。

 だって、時間はまだまだあるのだ。明日私に隕石が直撃しないとは言い切れないけど、私が80歳のお婆ちゃんになるまで生きてる確率と比べれば、さすがに後者の方が高いんだろうなと当時の私は考えた。

 結局、そのどっちも訪れなさそうだけどさ。


 無限のように溢れる時間と、対照的なほど少ないお金。

 まだまだ死ぬわけないじゃん。ならもうちょっと節約して、年に一回だけ奮発しようかな。我慢するのは気持ちのいいことだけど、我慢しっぱなしは気持ちのいいことではないんだし。

 だからこそ目的を持って我慢することにした。そうすれば我慢の気持ちよさと浪費の気持ちよさ、その両方を味わえてお得だな、なんて考えた。


 一時的に広がった世界は、また少しずつ狭まった。でもそれは年末のことを考えれば十分我慢できるもので、自分を律してる自分に鼻が高かった。

 推しのために使っていた消費を削ってみた。別にあの人が私を個人と認識してるわけがないし……削るにつれ、そんな考え方が浮かんできた。気付いたらもう推しではなくなっていた。

 スマホでのゲームをやめてみた。10年後には記憶の彼方だもんなあ……1ヶ月くらい完全に断ってみたら、バカみたいに課金してた昔の自分が恥ずかしくなるほどに、興味がなくなっていた。

 コスメの購入を減らしてみた。イエベはやっぱこれでしょ! みたいな話にはちょっとだけ着いていけなくなったけど、でもその話が必要ではないなと思えるようになってきた。

 服の購入を減らしてみた。流行りの服なんて、どうせ1シーズン後には使えないし……。そう考えたら、案外すぱっと卒業することができた。いつもより地味な格好になった私を、当時の彼氏は振ってしまった。


 1年を通して我慢してみると、案外年末にはどうにでもよくなっているものだ。

 ようやく訪れたはずの年末に、私はどれを買うか悩んでいた。正直、どれも欲しくない。だってもう興味がない。

 だから消費はせず、全部貯蓄することにした。いつか欲しいものが見つかった時、その時に使えばいいのだから。

 もし見つからなかったとしても、今の仕事をクビになったりとか、そういう予期せぬ出来事に対応できる貯蓄があるという事実は、私の心を豊かにした。


 2年目に入ると、人々のいう趣味というのがよく分からなくなっていた。

 だって、それはただの浪費でしょう? そんなことしなくても、人は生きていけるのだから。そんな無駄なことをして、何が楽しいのやら。

 まるで仙人のような考えで、私は他の人を見下した。自らを律することのできない愚かな人間なのだと。今日と同じ明日がずっと続くと考えている能天気な人間なのだと。


 3年目にはもう目的が変わってしまっていた。

 当時の私はそれに気付いていたけど、でも別に悪いことだとは思ってなかった。ただ通帳に増えていく数字が大きくなるのを眺めるのが楽しかった。

 この年末、私は引っ越した。新しいマンションは1Rと手狭ではあるけどお安い物件。

 物を捨てるに従って、以前住んでいたマンションでは広すぎると感じるようになっていた。必要十分以上の機能を求めてなかったし、それなら毎月3万円も安くなる小さな部屋の方が良いかなって考えた。


 4年目。

 この頃には衣食住も必要最低限のものを選ぶようになった。

 月の生活費のほとんどは固定費で、流動費と呼ばれるものは月に数千円ほど。

 娯楽を捨ててまでお金が欲しい? なんて……バカみたい。だって、私にとってはお金が増えること自体が娯楽なのだ。どうせ言っても理解してくれないし、空気を悪くするのも嫌だから、ただ黙って言われるままにするけどさ。


 5年目。

 ある意味予定通りというべきか、世界的に流行った感染症のせいで私は仕事を失った。

 でも私にはお金がある。だから生きていける。少しずつ減っていく数字を眺めるのは苦痛だったけど、でもこの日のために行なっていたことなのだ。

 周りの人らが貧困に喘ぎ節制を叫ぶ中、私だけが生活水準を落とさずに済んでいる。新しい仕事はなかなか見つからなかったけど、この事実が私を励ました。


 結局、自宅でもできるというデータ入力のバイトをして働くことにした。

 どんなに探しても仕事は見つからないし、私の場合はそもそも月の消費がほとんどないのだから、ならいっそバイトでも十分じゃないかなってそう考えた。

 外に出る機会が減った私は、以前にも増してより一層消費が減ることになった。

 街を歩けば景色が映るし、こっちよりもあっちの方が良いかな? なんてほんの少しの贅沢が、とうとう私から失われた。

 もう無駄は無い。綺麗な選択、綺麗な心、綺麗な私。


 気付けば我慢は義務になっていた。

 でも今度はそれに気付かなくて、ただひたすらに我慢し続ける私は、ある意味ではとんでもないマゾヒストだったのかもしれないけど、でも私はその現状に満足していた。

 いや、満足するふりをしていた。徐々に失っていく様々な欲が、私を十分だと勘違いさせていた。これもまた1つの「捨てる」という行為なのだと。

 何も要らない、何も要らない、何も要らない。ただそう言い続けて自分に我慢させた。たった10円程度の差ですら我慢するようになった。

 貯まるお金を見て笑った。貯まるお金を見て気付いた。これも我慢したほうがいいのでは、なんて。


 欲を捨てていくというのは気持ちのいいものだった。そんな私が唯一捨てられなかったのが金銭欲。

 もしこれを捨てられたのなら、それがどれだけ気持ちのいいことなのか……。考えただけでも卒倒しそうなほど、それですら所詮は想像であるということ。


 思い切って、全てのお金を寄付してみた。

 私は絶頂した。


 もっと、もっと感じたい。全てを切り詰め、ただ働き続け、そして寄付し続けた。

 寄付されたお金が何に使われるかだなんてどうでもよかった。ただ自分に満足感を与えるためだけに、ひたすらに働き続け、節制した。


 調味料は贅沢だろう。

 一着1000円? もっと削れるはず。

 穴の空いた靴下。靴さえ脱がなければ気付かれない。

 少しだけ血の付いたナプキン。もう1日くらいは保つだろう。

 スマートフォン? 公衆電話で十分だ。


 寄付。結局は自らを満たすという欲のための行動では?


 ――!

 ああ、そうだ。その通りだ。じゃあこれも捨てないと。


 必要最低限の仕事、必要最低限の物資。

 それ以外の全てを捨てた私は、代わりに考える時間が増えた。その時間のほとんどを使って、人間の欲を考え続けた。


 結論は、生物は生きるために欲を持っているというものだ。

 根底には生存があり、そこには食欲や飲水欲、睡眠欲、呼吸欲なんかが含まれる。生物としての自身を維持するための最低限の欲求。

 生存の次には継続。今の生活以上が続くことを願う欲。十分な食事、十分な睡眠、十分な寝床……動物的な欲求と言われるほとんどはここに分類される。自身の維持の範疇ではあるが、その範囲をもう少し外側に向けた欲求。

 継続の次には子孫。最も強いのが性欲だが、その周囲には性欲を通すための様々な小さな欲が散らばっている。自身の維持が十分になった後で、今度は自身の「種族」の維持を求める段階。最後の動物的欲求。

 子孫の次には社会。ここからは全ての生物に当てはまるものでなく、私達人間が社会を営む生物だからこその欲。自らを尊んで欲しい、誰かと繋がっていたい……1匹で生きていく生物では生まれるはずのない強い欲。

 社会の次には変革。ほとんどの欲が満たされたか満たされないか、どちらか極端な状態にある人間のうち、一部の個体だけが見出す最後の欲求。現状を打破し、自らや社会を変えようとする欲求。私も覚えてしまった最後の欲求。


 以前に読んだことのある「自己実現理論」とかなり被るけど、でも細部ではかなりの違いがある。これが私の結論。

 全ての欲を捨てたいと考えている私ですら、それは最後の欲求である変革欲の1つに過ぎない。

 しかしどう考えても、他の答えには辿り着けない。だから私は、結局私は、「欲を捨てる欲」に取り憑かれている。


 「欲を捨てる欲」を捨てるにはどうすればいいのだろうかと考え始め、その思考すらも「欲を捨てる欲」から生まれるものだと気付く。自己矛盾を繰り返す私は、とうとう考えることを放棄した。

 考えなければ良い。単純な話で、考えさえしなければ自己矛盾は回避できる。ただひたすらに捨て続けた私は、最後は捨てることに捨てられた。


 人間って、なんだろうな。

 そんな哲学的な問いをまともに考え答えられる人間がどれくらい居るんだろう。

 私には分からない。分からないからこそ知りたい。知りたいというのもまた、ただの知識欲なんだろうな。

 ではなぜ考えるのだろうか。なぜ欲があるのだろうか。なぜ欲に気付くのだろうか。


 なぜ、なぜ、なぜ……無限に続く問いを答えられる人は多くない。

 その表層をなぞることは出来るかもしれない。なぜ食べなければならないのか。答えは単純で、自らの身体を維持するためだ。

 ではなぜ身体を維持しなければならないのか。それは人として生まれた以上、生物である以上、自らの命を大切にするべきだからだ。

 なぜ大切にする「べき」なのか。……あの人は言葉を詰まらせた後、そんなことを考えるなんておかしいと私を蔑んだ。

 私には分からない。なぜ疑問に思わないのか。なぜ考えないのか。なぜ盲目的になるのか。なぜ逃げるのか。

 だから私は考える。なぜ人は生きるのだろうか、なぜ人は生きなければならないのだろうか。


 死刑を廃止するべきだ、存続するべきだ。

 少し前にそんな話題があったことを思い出した。

 私としては、どちらでもいい。どうでもいい。そんなどうでもいいことを思い出したのは、なぜ生きるかの参考になると思ったから。


 生きたい。

 ほとんどの人は、自分以外の全員がそう思っていると勘違いしている。命は平等だと騒ぎ立てている。実は自分以外の命なんてどうでもいいくせに。

 自分が生きるために誰かが死ぬとして、死ぬのが自分の身近な存在だったら、絶対に選ばない。

 自分が生きるために誰かが死ぬとして、死ぬのが自分と疎遠な存在だったら、簡単に採ってしまう。

 ただ現実から目を背けて、自分の利益のために選んでしまう。その身近の範囲が人それぞれなだけで、結局は変わらない。命というのは不平等だ。


 ほとんどに含まれない人は眺めている。自分を善だと信じる彼らを、ただひたすらに眺めている。

 私の血を吸う蚊を殺したことがある。でも嫌いな人は殺さない。だって命は不平等なのだから。

 ミニブタカフェに行ったことがある。でも豚肉は食べ続ける。だって命は不平等なのだから。

 きっと、どっちの人々も知っている。でもそれを口に出すのはご法度だ。だから平等だと叫ぶ人と、ただ噤む人とに分かれてしまう。


 でもどうでもいい。

 大多数の人間は自らの命が1番だと考えていると思われるが、私に限ればそうではない。


 だからいっそ、捨ててみよう。

 無駄を捨てて、興味を捨てて、お金を捨てて、欲を捨てて、さあ次は何を捨てる?

 それはなぜなぜの問いの最後の答え。


 さあ、最後は私を捨ててみよう。

 短編投稿テストです。短編投稿時にもあらすじ要求されるんですね……困った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ