雨と猫と探偵と 2/2
「警部、容疑者の男は、買い物に行ってはいないんですよ」
「なに?」
「街まで買い物に出かけたのは、女性ひとりだけです」
「どうしてそんなことが分かる?」
「しかもですね」探偵は警部の疑問にすぐには答えず、「女性が街への移動手段として使ったのは、鉄道です」
「はあ?」
「車には乗っていかなかったんですよ。事件の経緯は恐らくこうです。
昨日の午前十一時頃、女性は電車に乗って街まで買い物に出かけます。その間、男はずっとマンションの部屋にいました。で、午後三時頃、女性が帰宅します。そこで何かしら口論などの揉め事が起き、女性を殺害してしまった男は、友人に電話をしてアリバイ工作を頼みます。つまり、自分は女性と一緒に買い物に出かけたが、途中で別行動を取り、それ以降はずっとその友人と一緒だったと証言してもらうわけです。男は流しの強盗の犯行に見せかけるため、凶器となった置時計を拭い、室内を荒らして金目のものを回収したあと、非常階段と人通りのない裏路地を伝ってマンションを出て、その友人のもとへ向かったというわけです」
「……」無言で探偵の言葉を聞いていた警部は、「どうしてそんなことが分かる? 特に、女性が買い物の足として車ではなく鉄道を使ったということが」
それを訊かれると、探偵は、
「警部、この一帯では、昨日から小雨が降ったり止んだりを繰り返していましたね」
「ほいほい話が飛ぶな……」困惑の表情を見せながらも、警部は、「ああ、降り始めたのは、昨日の昼過ぎからだったな」
「雨が降れば、地面はどうなります?」
「どうって……そりゃ、濡れるに決まってるだろ」
「はい。ですが、地面の上に何かが覆いかぶさっていたらどうでしょう。その下の地面は濡れますか」
「濡れないな」
探偵は満足そうに頷いて、
「そうです。雨が降っている屋外だったとしても、そこが何かで覆われていたら、その下の地面は濡れるわけがありません。もちろん、ひどい土砂降りだったりしたら話は別ですが、昨日からの雨は断続的な小雨で、そこまでの雨量ではありませんでした。だから、雨が降る前からずっと駐車したままの車があったとしたら、その下の地面は乾いた状態を保ち続けていたはずです」
「車の下だと――? もしかして!」
警部は、先ほどの探偵と同じように腹ばいになって車の下を覗き込んだが、
「……濡れてるじゃないか」
その言葉どおり、被害者の車の真下の地面は他と同じように、一面濡れた状態となっていた。探偵は、「そうです」と答える。よっこらしょ、という声とともに立ち上がった警部は、
「だったら、君のさっきの推理は何なんだ? 何を根拠に、そんな……」
不満そうな声をぶつけたが、探偵は笑みを浮かべたまま、
「男の仕業ですよ」
「なに?」
「男はてっきり、女性は街までこの車を運転して出かけたとばかり思っていたのです。駅まで近いとはいえ、その時点ではまだ雨が降っていたので、駅まで歩くよりはこの駐車場のほうが断然近いですし、もしかしたら女性が『車で行く』と言っていたのかもしれませんね」
「だが、実際は女性は愛車でなく電車で出かけた? なぜ? それに、どうして君にそんなことが分かった?」
「バケツと猫ですよ」
「バケツと……猫?」
頓狂な声を上げた警部に、はい、と探偵は、
「さっきの親子猫、僕が近づこうとしたら、すぐに逃げてしまいましたよね。でも、今しがた話をしてくれた女の子によると、あの猫は初対面の人間でも警戒することのない、人懐っこい性格だったそうです。昨日の朝も、猫は女の子に接近を許して頭まで撫でさせてくれたそうですからね。ということは、昨日の朝から今までの間に、あの猫たちに何かがあったということです。今まで容易に接近を許していた人間を急に警戒しなければならなくなった、何かが」
「何かって?」
「水をかけられたからです」
「水だと?」
「そうです、バケツに満ちた水を、盛大にね」
「バケツ――あっ! 容疑者の男?」
「はい」
「今朝、男がバケツを持ち出したのは、猫に水をぶっかけるためだった?」
「いえ、男がバケツで水を汲んだ目的は他にありました。猫は、そのとばっちりを受けただけです。恐らく男は、この車の中に忘れ物でもしたことを思い出し、鍵を持ってこの駐車場へ向かいました。今朝のことです。……警部」
「何だ?」
「こうして近くに立っていると分かりませんが、車から数メートルも離れれば、普通に立っている視点からでも車の下というのは視野に入れることが出来ますよね」
「ああ、そうだな」
会話を交わしながら、二人はゆっくりと遠ざかると、探偵の言葉どおり、視界に車の下の地面が映ったところで足を止めた。
「男も、気づいたんですよ。車に向かう途中、周囲の路面は上がったばかりの雨で濡れているというのに、この車の下だけは乾いたままだということに。それはすなわち、雨が降る前から、この車は一度もこの場から動かされていないことを意味します」
「――自分の証言が嘘だと分かってしまうということか! 車で街まで出かけた、という証言が!」
「そうなんです。男は焦ったでしょう。ただ、彼にとって幸いだったのは、警察がこの車を調べなかったとことです。無理もありませんね。被害者が奇禍に遭ったのは部屋に帰ってからなので、車は犯行とは無関係なわけですからね。しかし、この状態を放置しておくのは明らかにまずい。路面が乾くまでにはまだ時間がかかりますし、その間に警察が『車も調べる』と言い出してここへ来るかもしれませんしね。警察だけでなく、通行人などにその状況――この車の真下だけが雨に濡れていない――を目撃されることだって恐れたはずです。そこで男は……」
「急遽、バケツを持ち出して、車の下に水をぶちまけた。この車が動かされていないという証拠を隠蔽するために……あっ! じゃあ、猫が水をかけられたというのは?」
「そうです。たまたま、この車の下で雨宿りをしていたのでしょうね。雨が上がっても、まだ猫はその場から動かなかった。濡れた路面を歩くよりは、乾いたままの車の下のほうが居心地がよかったせいかもしれません。そこに突然、男によって水をかけられてしまった。猫はびっくりしたことでしょう。そして、そんな仕打ちをする人間という生き物に対して不信感を持つようになり、以来、近づく人間すべてを警戒するようになってしまった」
「……なるほどな」
「だから警部、女性が買い物の足としてこの車を使っていない、つまり、この車が昨日から動かされていないという証拠があればいいわけです」
「『車で買い物に行った』という男の証言が虚偽だと証明できるわけだからな。電車で行ったのを車で行ったと勘違いしていた、なんていう言い訳が通用するわけがない。ここから車で街まで行くには、Nシステムが設置された幹線道路を通る必要があるし、街に入ってからは至る所に監視カメラもあるしな」
「はい。ですが、車で『そこに行った』ことは一瞬でもカメラに映っていれば証明できますが、『行っていない』ことを証明するのは難しいでしょう」
「確かに、昨日の十一時過ぎから三時頃まで、すべての時間においてこの車がここから街までの道中に『映っていない』ことを確認しなければならんわけだしな。骨の折れる仕事だ。それに、不自然極まりないことだが、カメラのない狭い道ばかりを走ったんだと言われたら、覆すのは困難だ」
「はい。ですから、女性が利用していたガソリンスタンドも当たってみるべきだと思います。もし、最近オイル交換などをしていたら、その時点でのものと現在の車の走行距離を照らし合わせて、街まで往復するほど走っていないことが証明できるかもしれません。それと、彼女が鉄道を利用したのであれば、切符の購入に電子マネーなどの記録が残るものを使用した可能性もあります」
「うむ、それも調べよう」
結果、オイル交換の記録も、監視カメラの映像も確認する必要はなかった。女性の車はその日ごとの走行距離が記録されるシステムを備えており、犯行のあった日は一メートルも動かされていないことが判明した。加えて、女性所有の電子マネーで、犯行当日に最寄り駅から街までの往復分の切符が購入されていたことも分かった。
これらの証拠を突きつけたことで、容疑者の男も観念したらしく、友人にアリバイ工作を頼んだことを含めて、すべてを自供した。
犯行の翌朝、煙草を切らした男は、車の中に数本の煙草を残していたことを思い出し、買いに行くよりは近いと駐車場に向かった。そこで車の真下が乾いているのを目撃し、女性が車を使用しなかった、すなわち、それを見つかったら自分の証言がすべて虚偽だとばれてしまうことを知った。それを隠蔽するため、急遽バケツを持ち出して水をまいたことも探偵の推理どおりだった。その際、二匹の猫が車の下にいたということも。一刻も早く証拠隠滅を図りたい男の胸中も知らず(当たり前だが)、二匹の猫は男の顔を見ると、呑気そうに「にゃーん」と鳴いたという。男も最初は先に猫を追い払おうとしたのだが、大声などを出して人目を引いてしまうことを恐れたため、そのまま問答無用で車の下にバケツの水をぶちまけたのだった。
男が『車で出かけた』と証言したのは、女性は街まで行く際、いつも車を使っていたし、その日も部屋を出る直前、彼女が車の鍵を手にしたのを目撃していたからだという。駐車場がマンションの目の前にでもあれば、エンジン音が聞こえなかったことで車を使用していないのを知ることが出来たかもしれないが、あいにくと駐車場はマンションから離れた場所にあった。女性が車を使用したことに疑いを挟む余地は、男にはまったくなかったのだ。犯行動機についても男は供述した。自身の浮気が原因で始まった口論がエスカレートした結果だったという。
「それにしても……」と警部は、いま一度車のほうを見やって、「どうして彼女は、その日に限って車を使わなかったのかな? 小雨とはいえ雨が降っていたというのに」
「それは、たぶん……かわいそうに思ったからじゃないでしょうか」
「かわいそう? 何が?」
「雨宿りしている屋根を奪ってしまうことを、です。彼女はたいへんな動物好きだったそうですね。とりわけ……」
にゃー、と鳴き声がした。路地裏から二匹の猫が、ひょっこりと物珍しそうな顔を覗かせていた。
お楽しみいただけたでしょうか。
本作は、毎年恒例の「猫の日(2月22日)に猫ミステリを」の個人企画として投稿したものです。活動報告にも書きましたが、前年まではシリーズ探偵の「安堂理真もの」で書いていたのですが、「そう理真の周辺ばかりで猫にまつわる事件が起きるのは不自然なのでは」と私自身が思ってしまったため、今年は「探偵流儀シリーズ」の一本として書いてみました。そのせいもあるのか、例年のような「日常の謎」ではなく、がっつりと殺人が絡む事件になりました。もしかしたら読者の皆様が期待されていたような「猫ミステリ」にはならなかったかもしれません。この場を借りてお詫び申し上げます。
さて、そうなると来年以降はどうなるんだ、どのシリーズで「猫ミステリ」を書くんだ、という話が当然出てきてしまうわけで、頭が痛いですね(笑)。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。