最初の一歩-3
気づけば時刻は十八時を大きく過ぎ、四十分になっていた。半ば慌ててアスカとともに正面玄関から外へ出てみれば、街灯の明かりが暗い道をやんわりと照らしている。
自分が時間を失念するのは毎度のことだが、初対面に近い相手を巻き込んでしまったとなるとさすがに申し訳なさが先に立つ。ローディはおとがいを掻きつつ左隣を振り返った。
「すみません。なんだかすっかり話し込んじゃって……」
「気になさらないでください。わたしも楽しかったですから」
ふんわりという表現が似合うアスカの笑顔は、裏をまったく感じさせない。言葉のままに受け止めることができるからこそ、素直に安心する。
「そっか。良かった。えへへ」
「ふふっ」
自分より小柄な女性を置いていってしまわないように、ローディは意識していつもよりゆっくりと歩き出した。
「ところでアスカさん。ちょっと気になってたんですけど、アスカさんって、もしかしたらセントラル出身の人?」
アスカの目がまん丸になった。
「はい。正確には母が、生粋の央都人です。どうしてわかったのですか?」
「単純ですよー。アスカさんみたいに、ここまで綺麗な真っ黒の目って、セントラルでしか見たことないですから。それに、名前。独特のイントネーションでしょ? だからもしかしたらって思って」
人工中央島は世界各国から人が集まってできたという、独特の興りと発展の歴史を持つ場所だ。雑多であった人々がひとつの国の民としてまとまった結果、四大陸にはない特徴が生まれた。
独自の言語体系を編み出し、やがて『央都語』としてセントラルに定着した言語の特徴は、他の国にはない文字を使うことにある。覚えるのは大変だが、見た目の美しい言語だ。惑星セージュは、彼らの言葉では『青珠』と書くらしい。惑星を外から見た姿をすばらしく言い表している表現だ。ローディがいちばん最初に気に入った央都語である。
「あっ、だったらアスカさんの名前って、央都字バージョンもあるんですか?」
驚き顔をさらしていたアスカが、微笑に戻った。
「ええ。『明日の香り』って書きます」
ローディに向けた左の掌に、指で書いて見せてくれた。比較的簡単な文字だったため、理解は早い。
「へぇぇ、綺麗な名前ですねぇ」
「ありがとうございます。自分でも気に入っています。でも、セントラル出身だって、それだけでよくわかりましたね」
「僕、春までセントラル大学に通ってたんです。向こうには付属高校も合わせて、六年間住んでましたから」
「まぁっ。スキップ進級だけでもすごいことなのに、セントラル大学だったなんて……っ。ローディさんってすごく頭のいい方だったのですねっ」
「えー? そんな、すごくなんて言うほどじゃないですよ」
「でも難関大学じゃないですかっ。昔わたしの兄も入ろうとしていましたけれど、見事に落ち――……」
一秒以上の空白のあと、アスカの顔色が街灯の下でもわかるほど変わった。真っ赤になった頬を両手で押さえ、うつむいてしまう。
「すみません。今のは、兄には内緒に……」
「いやぁ、内緒にするも何も、僕、アスカさんのお兄さんを知りませんよ」
「あぁ、そうですねっ。いやだ、わたしったらっ」
さらに耳まで赤くなって、しぼむように小さくなる。顔を覆って恥じ入る様は、ちょっとやそっとではお目にかかれない和み系だ。口うるさい姉や妹が、少しだけでも彼女のようだった良かったのにと思わずにはいられない。
「アスカさんって、可愛いなぁ」
「もうっ、からかわないでくださいっ」
「えー、本心なのにぃ」
「うぅぅ……。お願いですから、勘弁してください」
「はぁい。それじゃあ話題を進める方向で。セントラルには、住んだりとか行ったりとかしてるんですか?」
話を振ると、アスカが小さく深呼吸をした。顔から手をどけ、姿勢を正す。
「住んだことはないのですけれど、祖父母がいますから、子供の頃は毎年遊びに行っていました。特に祖母には、いろいろなところに連れて行ってもらったことを覚えています」
「そうなんですか。僕は勉強漬けだったからなぁ。大学周りだけじゃなくて、もっと出歩いておけば良かった」
「ふふっ。でも、セントラル大学の周りにも素敵なお店が多いですよね。わたし、お気に入りの喫茶店があります。『森の燐光の館』と書いて、『森燐館』というのですけれど」
耳で聞いた音を、脳内で央都語に変換する。手間取ったが、半年も離れていた割には問題なく理解できた。と同時に、偶然にも記憶と一致するに至り、ローディはテンションを上げた。
「そこ知ってるかもっ! ふさふさの白髪のお爺ちゃんマスターがいるお店ですよねっ?」
直後、アスカの表情も温度が上がった。歩きながらであるにも関わらず、体ごとこちらに向く勢いだ。
「はい! オリジナルのブレンドコーヒーがとってもおいしくて!」
「そうそうっ」
「奥様が作っていらっしゃる、濃厚だけど甘すぎないチーズケーキが絶品で!」
「そうそうっ。うわー、あのお店を知ってる人に初めて逢いましたよーっ」
「わたしもですっ」
本部の正門を抜け、一般道に出た。
定時は大きく過ぎているが、世間的にはさほど遅い時間帯ではない。にも関わらず、今日は人通りが少ない。車の交通量も少ない気がする大きな道路に出るとローディは、アスカより先に左右を確認して車が来ないことを確認し、道を渡る。
「あのお店って、何でもおいしいんですよねぇ。お店の雰囲気もいいし、静かだし、居心地もいいし。だからいつも、ついつい長居しちゃってました」
「わかります。わたしなんて、一度居眠りをしてしまったことがあるのですよ?」
「あははっ。でも気持ちはわかりますー。椅子じゃなくて柔らかいソファだったら、僕は絶対に毎回熟睡コースでしたねっ」
上機嫌で口と足を動かすローディの脳裏に違和感がよぎったのは、横断歩道を渡り終えた、そのときだ。
視界の端。本当に一瞬、見えるか見えないかのところに、強い光が灯った。一拍を置いて光量を下げたものは、やや黄色寄りの白い光である。位置は膝の高さに近いだろう。あれは――車のヘッドライトだ。
「……ローディさん?」
すぐ隣で呼ばれ、体が少し跳ねた。我に返ったローディは苦笑いをする。
「あー、すみません。ちょっと考え事しちゃってました」
背後からエンジン音が聞こえてくる。おそらくは乗用車。しかし気になるのは回転数が低いことである。しかも、まったく近づいてこない代わりに遠ざかりもしない。
嫌な感じだ。
いや、こういう表現は不適切だろう。ローディの勘が当たっていれば、あれは尾行者の動きだ。振り返ってこの目で確かめたい欲求に駆られるが、アスカがいる。しかも人通りが少ない。ここで事を起こすのは危険だ。
ローディは不安を我慢し、前を向いた。
「僕、肩書きは軍人の枠に入ってますけど、本業は開発系の技術者なんですよ。だからって言ったら駄目なんでしょうけど、たまに現実を忘れて思考が研究内容のほうに飛んじゃうことがあって」
駅の明かりが見えてきた。あそこまで行けば人が間違いなくいる。警備の目もある。だが本当に、このまま駅構内に入っていいものだろうか?
この駅に乗り入れている路線数は三本。逆に言えば三箇所だけ監視すれば行き先が尾行相手にわかることになる。電車に乗ってしまえば逃げ場はない。そして自宅の最寄り駅で降りてしまえば、また人通りの少ない夜道になる。やはり、得策ではない気がする。まずは不審車が尾行しているのがローディとアスカのどちらなのかを突き止めるべきだろう。
「すみません。せっかくアスカさんとお喋りさせてもらってるのに」
「いいえ、気になさらないでください。お仕事が楽しいのは、いいことだと思います」
アスカの言葉は何もかも優しい。微笑みは見ているだけで和む。背後から迫る不安を一瞬忘れさせてくれるほどだ。――彼女を危険な目に遭わせてはならない。今はアスカの身の安全確保が最重要、最優先だ。
「ありがとうございます」
もう駅にたどり着く。
ローディは、腹をくくった。街頭の下で立ち止まる。
「それじゃ、僕はここで」
「えっ? お帰りにならないのですか?」
「ちょっとお店に寄っていこうかと思って。時間がかかっちゃうかもしれないんで、アスカさんは先に帰ってください」
「そう、ですか……」
何やら困ったように顔ごと視線を落としたアスカの頬が、ほんの少し赤らんだ。体の前で合わせた細い指を、しばしいじって、
「……あっ、あのっ、またお逢いすることは、できますか?」
今度ははっきりとわかるほど真っ赤になった両頬を掌で押さえた。
「実は、森燐館には負けるかもしれませんけれど、おいしいコーヒーを飲めるお店を知っていましてっ。ローディさんにご紹介させていただけませんかっ?」
耳まで真っ赤になったアスカを、通行人が物珍しそうに見ながら通りすぎていく。しかし彼女はまったく気づいていないようだ。
「すみません、急にこのようなことを申し上げるなんてっ。でも、あの……、モモのことを笑わなかったのは、ローディさんが初めてなのです。ですから、ご迷惑でなければ。本当に、ご迷惑でなければで結構なのですけれど、……その、お友達になっていただけたらと、思いまして」
あぁ、本当に心の底から和む。
「アスカさんって、小動物みたいですよねぇ」
頬に両手を当てたまま顔を上げたアスカが、ピンク色の唇をぷっくりと曲げた。
「ローディさん。わたしのことを馬鹿になさってます?」
「まさかぁ。すっごーく可愛いって褒めてます」
「もうっ。からかわないでくださいって、お願いしましたのにっ」
「だってからかってませんもーん。本心ですもーん」
ローディは笑いながら携帯端末に手を伸ばしかけて、止まった。代わりに鞄の中からメモ帳とペンを出し、メールアドレスを書く。
手書きのメモならば、携帯端末に手動で登録してからでなければローディと連絡が取れない。アスカのことだ、きっと自宅に帰らなければそういう作業はしないだろう。つまりはローディから離れる時間の猶予ができ、彼女が周囲に対して注意散漫になる時間も減らせる。このあとローディの身に何かあった場合、うまくいけば彼女が気づいて警察に通報してくれる可能性が生まれる。反対に彼女が狙われ、拉致された場合、メールアドレスを持っていれば必ずアスカか犯人がローディを巻き込んでくれる。救出ルートをひとつ確保できる。
結局、運が悪ければアスカを巻き込んでしまうことになるわけだ。が、自分にはこれが限界である。思い切って甘えさせてもらおう。
ローディは紙を切り取って、しっかりと四つ折りにした。アスカに差し出す。
「これ、メールアドレスです。来月になったら今やってる作業が一段落すると思うんで、アスカさんの気が変わってなければ改めて誘ってください」
「……はい」
拗ねた表情はしかし、両手で紙を受け取った瞬間にほどけた。見てわかるほど肩から力を抜いて安堵した彼女は、まだ赤い頬のまま微笑む。そうして、やはり綺麗なお辞儀をして、駅の中へと入っていった。
アスカが人並みの向こうに消えるまで見送るとローディは、息をひとつつき、踵を返した。両手を上着のポケットに突っ込み、歩く。
遠いところで止まっていた不審車の動き出す音が聞こえる。音はスムーズに駅入り口を通りすぎたようだ。――アスカが目的ではない。何者かはわからないが、自分に用があるらしい。
腹が立ってきた。
アスカとの楽しい会話を邪魔された苛立ちに背中を押され、ローディは大通りから横道へと入る。案の定、車はついてきた。それだけにとどまらずスピードを上げ、あっという間にローディを追い越して停車する。
後部座席が開き、降りてきた人影は、黒と白の服。肩口で切りそろえられた髪。見た目は柔らかなシルエット。しかし気配が冷たい女性。――グレイの生家に仕えているメイドだ。
覚えのありすぎる人物の登場に不意を打たれ、ローディは思わず足を止めてしまった。
(なんでここで、この人が出てくるのさ?)
「ローディ・ワイズ。あなたに用があります」
女性に続いて降りてきた、服装も年齢もバラバラな男三人に横と背後を取られた。距離感が絶妙だ。逃げられる気がしない。嫌な予感しかしない。
ローディは右のポケットの中でイヤフォン型通信機を確保した。そうして、見据えてくる女性に体ごと向き直る。
「僕の名前をどうやって調べたのかは知らないけどさ。グレイさんがいるのは本館か自宅で、ここじゃないよ?」
半年前に食堂で見た顔は、相変わらず人形じみた無表情だ。それでいてこちらを見下す目も変わっていない。つくづく癪に障る人である。
ため息を禁じ得ず、隠す気にもならず、ローディはあからさまに嘆息した。
「あとね、尾行するなんて趣味が悪いんじゃないの?」
「人間というものは、無力なだけでなく言葉も理解できない生き物なのですか?」
その息が止まる。笑みも消える。
半ば睨むような表情になっていることを自覚しながら視線で問うと、メイドが薄く口を開いた。
「わたしは、あなたに用があると申し上げたはずです」
(魔族が? 僕に? ……何かしたっけ?)
内心で首をひねって考えてみたものの、心当たりはまったくない。もうひとつ言うならば、素直に付き合ってやるのは面白くない。
ローディは頬を吊り上げ、笑みを作った。
「でも、お姉さんの話を聞いてあげる義理はないよね」
「構いません。もとより、交渉するつもりなどありませんから」
その言葉を合図に、包囲網が縮まった。
拘束する気だ。
ローディはポケットの中で指を動かした。通信機の電源を入れる。そして身をよじり、一人目の手をかわした。が、続く二人目に背後を取られたのは直後だ。あっけなく羽交い締めにされ、手が引っ張り出される。
「あっ」
通信機がこぼれ落ちた。ポケットから腕が引きずり出されたときに引っかかったのか。小さい音を立てながら転がるそれが、ローディとメイドの間で止まる。
「爆弾……ではなさそうですね。もっとも、そんなものは効きませんが」
一瞥してメイドが歩き出した。近づいてくる。その途中でいっさい歩調に乱れを見せないまま通信機を踏み砕いた。まるで野山で雑草を踏みつぶしたかのごとくに平然とローディの前に立つと、エプロンから白い布を出す。
「ここは人目につきます。目撃者をいちいち殺すのは面倒ですから、移動させていただきます」
戸惑うほどに整った顔立ちの中、ライトブルーの目が光る。
「無駄な抵抗はしないのが身のためですよ。……博士」
(――僕は、博士号は持ってない)
呼び名への疑問と驚愕に気を取られたその隙に、布で鼻と口を塞がれた。ひんやりとした感触と独特の臭いで、布に睡眠導入剤が仕込まれているのだと気づく。しかし、そこまでだ。いっさいの抵抗ができないまま、ローディの視界は暗転した。




