数日間の仔猫
短い間だったけれど、あの仔猫は幸せだったろうか。僕らは、それを与えてやれただろうかと、今でも考えさせられる出来事がある。
………………
それは僕が高校へ進学して、はじめての秋の事だった。
拾い上げた小さなそれは、アスファルトのように冷たくなっていたのを覚えている。
僕と妹、母の日曜日の朝は、いつも朝市の買い出しから始まった。その日は、水溜りを作るほどの雨が細々とずっと降り続けていて、ここ一番の寒さのように感じた。いつもはラフなトレーナーに長ズボンの僕も、この日ばかりは、厚手のジャンバーが手放せなかった。
朝の買い出しでは、チラシでチェックした特売の品を求めて、必ず三店舗は回る。店によって、その日の目玉商品が違うからだ。週に一度のお買い得商品を求める客も多いわけで、駐車場も店内も人でいっぱいになる。勿論、商品を選び終わったとしても、レジの行列に並ばなければいけない。
結局、朝九時に家を出ても、買い出しが終わる頃には、お昼になっている事が多かった。買い出しは体力勝負で、終わる頃には、当然のように腹も減っている。
そんな事もあって、最後に回る場所は、いつも大きなショッピングセンターと決まっていた。二階のフード・コーナーで、それぞれ食べたいテイク・アウト食品を購入して、車内で食べながら帰るのが、僕らのいつもの日課だった。
その日も、最後には家から少し離れたショッピングセンターへ向かった。三年ほど前に出来たばかりの、映画館や各専門店が入った六階建ての大型店で、三階から六階までが屋内駐車場となっていて、雨の日も、荷物の量を気にすることなく買い出しが行える場所だった。
僕達は、いつものように買い物を済ませて車へ乗り込んだ。運転席に母、隣には中学生の妹。後部座席には、作りたてのたこ焼きを持った僕が座った。
僕が妹に、二人分のたこ焼きのパックを手渡している中、車は動き出した。
コンパクトな僕達の車は、混み合う屋内駐車場をゆっくりと進んで、下へ降りるため大きな螺旋状になっている出口の道を下り始めた。まだ買い物をしている客が多いのか、いつもは混み合っているその通路も、その日は不思議なくらい静まり返っていて、珍しく僕達が乗る車の他はなかった。
「ねぇ、せっかくだからさ、帰りに本屋に――」
妹が母に、そう話を切り出しかけて、不意に口をつぐんだ。
真っ直ぐ前方を見据えて運転する母と違い、僕と妹は、何気なく左側の壁側を見ていたのだが、ある場所に視線が止まったのだ。ゴミ一つ落ちていない通路に、何か小さな物を見つけて目を凝らす。
それの正体に気付いた瞬間、僕と妹は、ほぼ同時に叫んでいた。
「母さんッ、仔猫がいる!」
驚いたように母がブレーキを踏んで、僕の膝にあった、パックに入ったままのたこ焼きが座席下へ転がり落ちた。まだ開けていなかった事もあり、僕はそれを目で追いかける事もしなかった。
停車した途端、え、どうしよう、と頭が真っ白になった僕に、母が怒鳴った。
「何してるの! 早く乗せなさいッ!」
そう促されて、慌てて車内を飛び出した僕の心臓は、痛いぐらい大きく鼓動していた。後ろから車が来たらどうしよう、という緊迫感もあったが、まさか、なんでこんなところに、という疑問も頭を駆け巡っていた。
車は窓を閉め切っていたから気付かなかったが、その汚れた小さな猫は、がらがらになった掠れ声で必死に鳴いていた。僕はようやく思考が追い付いて、状況を悟った。
まだ生まれて間もないこの仔猫は、誰かに捨てられたのだ。
でも、どうして?
ここは五階で、三階部分からは駐車場しかないのに……
僕は、しつこく続いていた秋の雨に濡れたらしい、細くなった手足で震えるその仔猫を、さっと抱き上げた。「早くッ」と急かす母の声を聞きながら、車に乗り込む。母も妹も動揺が隠せないのか、落ち着きがなかった。
「……こんなところに捨てるなんて、ひどい」
妹と母が、ぽつりとそう呟いた。
僕はすっかり冷たくなった仔猫を温めようと、ジャンバーに抱きかかえた。仔猫は震えながら、ほとんど出なくなった声で鳴き続けている。あまりにも悲痛なその鳴き声に、つられたように妹が泣き出した。僕は、どうにか涙を堪えてその仔猫を抱き締めた。
僕達は猫が好きで、家にも三匹の猫がいた。
これまで多くの猫がいて、保護もしたが、そのほとんどが拾い猫だった。
多くても三匹までしか飼わない、という父との約束事を思い出すと、家に連れて帰るわけにはいかないのかもしれない。半年前に、今ではウチの家族になっている三匹目の猫を保護して連れ帰った時も、父はとても怒っていた。
お前達は毎回なんで拾ってくるんだ、と頭を抱えて怒鳴るのが彼の口癖だった。とはいえ、みすみす放りだす事は出来ないだろう。父は怖いが、何もしてやれない事の方が、きっと、もっと痛い。
僕は、どうしたらいいか分からなくて、母に尋ねた。
「……この子、どうするの?」
「動物病院へ連れていくわ」
少しの躊躇を置いて、母がそう断言した。
そうだよな、少しの間保護するといえば、三人掛かりであれば、どうにか頑固で怖い父を説得出来るかもしれないし……そう思案する僕の耳に、ピリピリとした母の声が入った。
「朝市なら人が集まるから、誰か拾ってくれるとでも考えたのかしらね。馬鹿じゃないの、車以外通らないこの下り坂で、次々に後ろから車がやってくる状況で、運良く気付いて停まってくれる車があると思う? ……それに、まさか『こんなところ』に仔猫がいるなんて、誰も思わないでしょうに」
独り言のように愚痴る母に、僕は返す言葉もなく黙り込んだ。鳴き止まない仔猫を撫でて、「大丈夫、大丈夫だから」と、声を掛け続ける事しか出来なかった。
※
僕達がよく利用する動物病院へ着くと、仔猫は、すぐ先生に診てもらえる事になった。母が父に手早く電話を掛け、僕と妹が椅子で待機している間に、仔猫と共に診察室に向かっていった。
物心ついた頃から猫と過ごしていたせいか、僕も妹も、そして母も、あの仔猫の状況はよろしくなく、もしかしたら長くはないだろう事に気付いていた。
まだ母猫のミルクが必要なあの仔猫は、痩せ細り、冷たい風と雨にさらされ、体力もかなり削られていた。もう少し大きければ助かる可能性も高いが、あそこまで小さいと、どちらとも断言する事は出来ない。
「……まだ、小さいのにね」
押し黙る僕に、妹がそう切り出した。
「家族から引き離されて、捨てられて、辛いまま短い生涯を終えるなんて、そんなの、あんまりだよ……」
泣き出した妹を慰めながら、僕は、熱くなった目頭を押さえた。
神様がいるなら、どうかお願いします、と祈る事しか出来なかった。
中年の獣医は、様子を見て後日には退院可能だろうと告げた。安定し続けて回復するか、もたずに死んでしまうかは分からないと説明を受け、僕らは、あの仔猫を引き取る決心をして「よろしくお願いします」と答えた。
※
朝市の買い物の荷物を持って家に上がると、父が「あの猫はどうなった」と、ぶっきらぼうに訊いてきた。母が獣医から聞いた話を伝えると、父は板に付いたような顰め面を崩さないまま、何も言わずに書斎へ戻っていった。
あの子猫の面倒を見ると、いつ言った方がいいのか。
僕は、母と妹と小声で話し合いながら、荷物を片づけていた。すると、少しもしないうちに父が書斎から出てきて、食料品を片付ける僕らにこう言った。
「あんなところに捨てる馬鹿がいるとは、聞いて呆れるな。俺が引き取りに行くから、必要な物は、今日のうちにでも買い揃えておけ」
「えッ。父さん、仔猫を連れてきてもいいのか? 本当に?」
「おい、なんだその目は。まだミルクしか飲めない仔猫を、うちではもう何匹も育ててきた、今更一匹や二匹増えても変わらんだろ。お前も秋休みで家にいるんだろう? それなら、皆で面倒を見ればいい」
思いがけない父の言葉に、僕達は飛び上がって喜んだ。その日のうちにペットショップへ行き、必要な物を買い揃えた。
※
後日、仕事を終えた父が治療代を持って動物病院へと向かい、しばらくして我が家にやってきたその仔猫は、見違えるほど元気になっていた。もとから家にいた大人の猫達は、警戒しながらも、遠巻きにその仔猫を眺めていた。
人肌のミルクを与え、自分ではまだ上手くトイレの出来ない仔猫を手伝った。仔猫はとても人懐っこくて、僕らの誰かが席を立つたび、後ろをついて回った。
仔猫のミルクとトイレは、時間間隔が短い。
僕達はコタツのある部屋で、付きっきりで仔猫の面倒を見て世話をした。
二日も経つと、子猫はふっくらとしてきた。大きな猫とも少しずつ打ち解けてきて、出産経験のない若い雌猫が一番に仔猫を可愛がり、父や母が仕事をしている間は、秋休みの僕と妹がずっと一緒に過ごした。
一際元気に走り回った翌日、夕方頃になって、仔猫の元気がなくなった。
僕と妹が、ぐったりとして弱々しい声で細々と鳴き続ける仔猫のそばに付いていると、仕事を終えた父と母が帰ってきてすぐ、仔猫の様子を窺い表情を曇らせた。
「この子……きっと、もうだめだわ」
仔猫を見るなり、母が、涙を堪えながらそう言った。
「なんでッ? だって、あんなに元気だったのに……」
僕はそう反論しかけたが、当初から『長くはもたない』と予想されていたのも確かで、それを覚悟したうえで『もしかしたら助かるかもしれない』と自分達に言い聞かせ、皆で面倒を見る事を決意したのだったと、そう思い出した。
皆同じ気持ちなのだ。どうにもならない現実に荒ぶる感情を、誰かにぶつけるのは間違いで、僕は込み上げる涙を何度も拭った。唇を噛み締めて泣く僕に、妹が涙腺を緩ませた。
父は僕に「泣くな」ともいわず、母と仔猫のそばに腰を下ろした。
僕と妹と、父と母の四人が周りに揃ったところで、鳴き続けていた仔猫の声が不意に止んだ。仔猫は安心したように愛らしい瞳を向けてきて、父が、何かに気付いたように不器用な手付きで撫でると、幸せそうにごろごろと喉を鳴らし始めた。
「お前、俺達に来て欲しかったのか?」
子猫に静かに問いかけた父の言葉を聞いて、僕達は、昨日やけに元気な様子で飛び跳ねていた仔猫が、どんな想いで過ごしたのかを想像して、慌てて涙を拭った。
小さな身体で、そんな気を遣わなくても良いのにと妙な勘繰りまでしてしまい、またしても情けなく涙腺が緩んでしまったが、僕らはどうにか笑顔を見せて、順番ずつ何度も仔猫を構って撫で続けた。
仔猫が元気だった数日間が、何度も、何度も思い起こされた。
楽しくて幸せだった、その恩返しに、という言葉が脳裏を過ぎりもした。
寿命を延ばす事は出来ないけれど、心の底から暖かい時間を過ごせるよう、神様がどうにか少しの間だけ、元気になれるような奇跡を与えてくれたのかもしれない。
つまりは、そういう事なのだ。
この子はそれを知っていて、もうじき旅立って行ってしまうのだろう。
「神様、どうか……」
そう祈るように呟いた言葉が、僕の口の中に消えていった。
それは、助けて下さいと縋る想いからだったのか、最期の瞬間が苦しくありませんようにと、そう願う気持ちだったのか、僕自身分からなかった。
どれぐらいそうしていただろうか。
だんだんと仔猫から力が抜けていくのを、触れる手の先から感じていた。呼吸が徐々に弱く静かになっていく音を耳で聞いて、別れの時が、刻一刻と迫っているのだとは理解していた。
母が涙を堪えながら撫でていた時、今まで喉だけを鳴らしていた仔猫が、どこか嬉しそうに、細い声で長く鳴いて――
ゆっくりと瞼が閉じられた仔猫は、もう、息を吸い込んではくれなかった。
最期に細長い声だけを残して、呼吸音がピタリと途切れた。
どうしてか、その細い声が、ありがとう、と伝えてきたような気がして、抑えていた涙がどっと溢れた。堪らず声を上げて泣く僕と妹のそばで、母が顔を覆って静かに泣き、その向かい側で父が、眉間に深い皺を寄せたまま、まだ暖かい小さな仔猫の頭を黙って撫で続けた。
そばで見守っていた大人猫達のうち、特に仔猫を可愛がっていた雌猫がやってきて、起きて、というように仔猫の体を舐め始めた。
その様子もまた悲しくて、僕は、「もう起きないんだよ」とひどい声で嗚咽をこぼしながら、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
………………
こうして、数日間だけ、僕らの家で『チビちゃん』と呼ばれていたその仔猫は、あまりにも短い生涯を終えた。十年以上経った今でも、あの頃に感じた想いは胸に残されている。
また出会えたのなら、今度は、ずっとそばにいて。
そして、どうか長く幸せに生きて欲しい。
これは僕と仔猫の、多分、世界のどこかでは誰かが経験しているような、そんな何気ない日常の中で起こった、出会いと別れの、小さなお話。