Ⅸ鬼崎 勇次⑧
立ち寄処ねこ背
沿岸の大通りから一本挟んだ人通りの少ない路地にひっそりとたたずむそのお店は見た目甘味処のような和風の落ち着いた雰囲気をかもしつつしかし、中に入れば木の香りが鼻をくすぐる素敵な居酒屋に早変わりというなかなかいいセンスをしている。大きさも広すぎず狭すぎないといった感じでとても居心地がいい。
知る人ぞ知るお店であり俺たちのいつものところと言ったらここしかない。
少し早く着いてしまったがまあ、先に入るとしよう。
「こんっちは~久しぶりにきたぞ~ひげじい」
暖簾をくぐり、とりあえずひげじいに挨拶をする。
ひげじいとは、このねこ背を一人で切り盛りしている店長でもう御年80歳のいいおじいちゃんである。腰が曲がっている影響なのかこぢんまりと小さく、顎から伸びる真っ白なきれいな髭はひげじいたる所以である。
「おーきたか遅いぞ勇次」
しかし、答えたのはひげじいではなかった。
「ありゃ、暁先来てたんですか」
「だーれが暁先生だ誰が。さより姉さんと言えっていつも言ってるだろ」
今朝言っていたことと真逆のことを言っているこの人はほんのりと顔が赤い。
「はぁ~」
後ろで春香がため息をするのが聞こえる。今日は平穏に帰れない事を悟ったのだろう。
「あははは、さより姉さん。もう、出来上がってるんですか」
まったく、まだ夕方だぞ仕事はどうした仕事は。
「おっと、仕事の途中で抜け出してきたわけじゃないぞ。ちゃんと終わらせてきた」
俺の言いたいことが分かったのだろう。
えっへんとそらすそのたわわな胸の上下運動に思わずオメメが無意識に照準を合わせてしまう。
「お前たちもこの店をよく利用しているそうじゃないか。店長に迷惑かけてないだろうな」
何を隠そうこの暁さより姉さんがこの店を教えてくれたのだ。しかし、ご覧の通りどうも酒癖が悪くてどちらかといえば迷惑をかけてるのはあなたのほうである。
「さよりさん、鬼崎様も含めてこの子たちは大事なお得意さんでとてもいい子ですよ」
2人分のおしぼりを俺たちに渡しつつ、俺たちをフォローをしてくれるみんなのおじいちゃんことひげじいはいつもどおりまったりとした朗らかな声である。しかし
「ひげじい、何度も言ってるが俺のことを様と呼ぶのはやめてほしい。俺なんかに敬称をつける必要も価値もない。様付けされるのは春香だけで十分だ」
さて、これをいうのは何回目だろうか。
後ろでは春香が小声で「様をつけるのは当たり前です。と鼻息を大きくしている」
あれは、初めてひげじいにあったときの話。いらっしゃいませの次の言葉がなかなか聞こえなかったので顔を上げてひげじいの様子をうかがった俺に、ひげじいは一言「おぉ」と言うと
「お待ちしておりました、鬼崎様」と言ったのだ。
それから何度も鬼崎様と俺のことを呼んでくるので、しばしばやめてくれと言うのだが聞き入れてくれたためしがない。いつもは聞き分けの良い人なのにそこはなかなか譲ってくれず。今や俺も半分あきらめているまである。
今日もニコニコしてるだけでやはりこれだけは従う気はないらしい。
はぁ、もういいや
「ひげじぃ、これからここに班員が集まる予定なんだけど大丈夫かな?」
「あぁ、もちろんいいですよ。いつものところをお使いください」
「どうも」
「私も、あとでいくからなぁ~」
姉さん、あなたはだめです。
この店唯一の個室。ここが俺たちのいつものところである。長方形の大きい机を真ん中にそれを囲むように机と同じ木で作られたに違いない10の椅子が並んでいる。
俺たちの話の中にはあまり人に聞かれたくない内容もあるので個室という秘匿性がなかなかに嬉しい。まあ、あと俺たちの制服はいい意味でも悪い意味でも目立ってしまうからやはり個室は最高である。
「よいしょっと」
4時間も立ち続けたこの足にこの椅子の座り心地はパーフェクトに違いない。
「春香も座れ」
「はい」
なんで俺が一言声をかけないと座らないの?あなたは
そして、なんでこんなに沢山の椅子があるのに隣に座るの?
緊張しちゃうでしょこの距離感が‼あたっちゃう肘があったちゃうよー