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朝の光は地の底へ

 ばたばたといつもの足音が聞こえてくる。一種の騒音が早朝でも夜中でも変わらないというのはどうかと思うが、寝ている人間を起こしに来るのであれば忍び足になる必要もない……ということなのだろう。たぶん。


「おっはよ……あれ?」


「おはようございます、フェルト」


「おはよ、エリクス。今朝は早いね~。たまにじゃなくていつもこうだと私もラクなんだけどな?」


 既に身支度を済ませている僕の姿に目を丸くすると、にぃっと笑いながら楽しそうに見上げてくる。人を驚かすのも驚かされるのも好き、とは本人の談だ。大抵の朝は僕を文字通り叩き起こしてくるだけに説得力を感じざるを得ない。


「必要がある時だけですよ。ないなら睡眠のほうが大切です」


「時間を守るのも大事なことだよー? 例えばあったかい朝ご飯が待っている時とか、ね?」


 器用にウィンクする妹に真顔で応える。


「なぜ人は寝ながら食事を取れないんでしょうね」


「ん。じゃあ今度起こす時は鼻にパンくず詰めてあげるねー」


 ほんの一瞬動きを止めた後、フェルトはそう言ってひらりと身を返すと部屋を出ていった。

 ……冗談のつもりだったのだが、真に受けられたような気がする。


「明日の朝くらいは早起きしておいたほうがよさそうですね……」


 苦笑しながら鞄を手に取る。いつもと違い、とても軽い。

 中身は入れていない。入れる意味も必要もない。


 明日の朝くらいは。そうつぶやいたのは、何も妹のイタズラを恐れてのことではない。


(頑張りましょう……。明日も朝を迎えられるように)


***


「それでは、行ってきます」


 四人での朝食を終え、いつも通りの時間に家を出る。誰かが出かける時は、手が空いている限り家族全員で見送るのがシュア家のならわしになっていた。


「いってらっしゃーい。今夜はフンパツする予定だから、寄り道しないで帰ってきてね~」


「……いってらっしゃい」


「帰りを待ってるわよ、エリクス」


 満面の笑みで手を振るフェルトと、その半分くらいの勢いで手を振っているエレナ。肩にストールを羽織ったシリンは笑顔を向けるだけだ。

 それもいつも通りの光景。

 その「いつも通り」に九割の温かさと一割の不安を感じながら、エリクスも手を振りながら背を向けて歩き出した。

 体が弱く心もいささか脆い母だが、この朝だけはいつもその秘めた強さに感服させられる。

 あるいはこれが最後の別れになるかもしれないと知りながら、笑顔で送り出すことが自分にできるだろうか?


「早めに帰りますよ。なるべくね」


 だから僕も昨日と同じ顔で笑ってみせる。できているかどうか、自信はないけれど。


***


「──おはようございます」


「…………」


 次に口を開いたのは学校に着いてからだった。これまたいつものように、正門の前には二人の守衛が立っている。いかめしい顔で警棒を携えた二人はまるで鏡に映したようにそっくりで、双子の兄弟なのだと噂されている。噂止まりなのは、誰も本当のことを知らないからだ。


 無口な彼らは生徒たちはおろか教師にあいさつされても同じようにうなずくだけで、喋ることはまれだ。当たり前だが総務は意味もなく個人情報を漏らしたりしないので、本人たちが女子生徒たちのお喋りに応じる気になるまでは双子のおじさん(仮)と呼ばれ続けることになるだろう。


 わずかに視線を向けるだけのあいさつを受け取って正門を抜けると、まっすぐドルトー先生のいる研究室へ向かう。朝早いため生徒の姿はまばらだ。もっとも彼らと話したりすることもないのだが。


 見慣れた扉を開けると、窓から表を眺める見慣れた教師の姿があった。


「おはようございます、ドルトー先生」


「……おはようございます、エリクス君」


 いつもより返事が一拍遅れるのも、声の調子がわずかに沈んでいるのも、見慣れている。

 『仕事』のある朝はこれがいつも通りの流れだった。だから僕もいつも通り聞くべきことだけを聞く。


「今日はどこに入ればいいのですか?」


「第六地下迷宮です。ほぼ踏破はしていますが、調査隊が未探査エリアに入ってしばらくして連絡が途絶えました。生存はしていますが自力での帰還は困難とのことで、君に頼る事になりました」


 そう言いながら隣の部屋、ドルトー先生の私室へ移る。新旧入り交じった書物、何に使うのか聞きたくもないやたら尖った靴べらのようなもの、いわくがありそうで実はただの土産物であるドクロ細工の骨董品。

 一向に片付ける気配のないそれらを尻目に、さらに奥へと続く扉の前に先生が立つ。手元を隠しながら2つ、3ついじると音もなく鍵が外れた。


 神妙な面持ちの先生にうながされ中に入る。そこは広めのクローゼットくらいの空間になっていて、ほこりを被った箱がいくつか積まれているだけだ。


 ドルトー先生はそれらに構うことなく部屋の中央で片膝を付くと、床板に手を付く。

 ──いや、付くかに見えた手はそのまま床を貫いてずぶずぶと呑み込まれていった。


「……開きます」


 その言葉通り、何もなかったはずの床にぽっかりと穴が開く。

 いや、音もなく現れたのだから消えてなくなったと言うのが正しいだろう。

 そしてその先、地下へと続く階段には明かり一つついてはいない。必要ないからだ。


「それでは」


「──エリクス君」


「はい」


「……重々気をつけて。相手は未知そのものなのですから」


「分かりました。ありがとうございます」


 複雑な顔を浮かべる彼に軽く頭を下げて、暗闇の中へ歩を進める。

 もちろん夜目などきかないが構わず下り続けた。今さらつまづくようなことはない。

 ここを使うのは僕だけなのだから、足の記憶に従えばまっすぐ下りられる。


 再び床が閉まり、入り口からわずかに入ってきていた光も途絶えた。

 感じるものが石段の堅さとそれに跳ね返る足音、そして胸から響く鼓動だけになる。



 僕はいつもここに僕を置いていくことにしている。

 誰かに与えられたこの身体が生きて帰った時だけ、僕はあの家に連れて帰ってもらえるんだ。


***


 長い長い階段を下りきった先は、両手を広げた人が3人入れる程度の小さな部屋だった。壁に埋め込まれたいくつかの白い石がぼんやりと光り室内を薄暗く照らしている。

 正面には何かの文様が描かれた扉のような彫刻が刻まれている。エリクスは迷わずその前に立つと、自らの名を名乗った。

 するとどこからか無機質な声が響く。


“我らは閉ざす者なり”


「我らは阻む者なり」


 エリクスは即座に言い返す。その感情のこもらない言葉に応じるかのように、また声が流れた。そしてそれを知っていたかのようにエリクスが同じタイミングで同じ言葉を重ねる。


『心せよ。ここは世界の分水嶺』


 合い言葉を聞き届けた彫刻が輝き出す。それほど強い光ではないはずだが、暗闇に慣れたエリクスは耐えきれずまぶたを閉じる。

 次の瞬間、世界がぐらりと揺れた。


「っ……」


 ゆっくり目を開けると地下室は様変わりしていた。いや、もうここは地下室の中ではない。

 辺りは暗い虹色に輝きながら揺れ動き、一秒たりとも同じ景色を保っていない。

 まっすぐ立っているはずなのに、まるで氷の上で転ぶこともできずに滑り続けているような不安感が背筋を冷たくしていた。


「こればかりはどうにも慣れませんね……」


 ため息まじりに愚痴をこぼしたのを見計らったように、再び景色が変化する。

 思わず急制動が掛かったようにつんのめるが、これはただの錯覚でエリクスの体そのものはただ立っていただけだった。

 目の前には飾り気のない薄暗い廊下が伸びている。窓はないが、壁にかけられた燭台のおかげで十分に明るい。床には絨毯が敷かれていて、歩いてももう足音は響かなかった。

 エリクスはためらうことなくその廊下を進んでいく。様子からしてここがストルルソンの中だということは分かるが、どの辺りなのかは検討もつかない。建物の中なのか地下なのかすら推し量れないようになっていた。もっとも分かってしまうようでは困るのだろうが。

 1分も歩かないうちに扉に突き当たる。今度は仕掛けも何もない、ごく普通の扉だ。

 ノックの必要はないのでそのままドアノブをひねる。


「お待ちしておりました、エリクオール=シュア様」

「準備は滞りなく。エリクオール=シュア様」


 中は応接室のような調度品が置かれた──というか応接室にしか見えない部屋だったが、ここに招かれる人間など一人しかいないのに応接室と呼ぶのもおかしな話だろう。エリクスはここのことを勝手に更衣室と呼んでいた。

 出迎えてきたのは、この空間に──いやどこの空間にも馴染みそうにない、奇妙な格好をした二人の少女だった。


「本日赴いていただくのは第六地下迷宮、第三十六層です」

「装備は基本一式のみとのことです」


 事務的な口調で交互に喋る彼女たちの服装そのものはどこもおかしくない。見慣れたストルルソンの制服だ。

 ただ一つ決定的に異質なのは、顔を覆面で隠していることだった。

 正確に言えば帽子から垂れた布で顔を覆っており、横から見ても不思議と顔の造作はうかがえないのだ。

 彼女たちは必ずこうして顔を隠しているため、エリクスは『仕事』の中でもその素顔を見たことは一度もなかった。


「分かりました。では、よろしくお願いします」


 そう言うと中央に置かれた机の隣に立つ。その上にはこれから使う装備品が乗せられている。丸められた鞭、模様のようだがよく見ると細かい文様がびっしりと書き込まれている手甲、ケースの中に整頓されたペンほどの大きさのある鍵のようなもの。そして一通りの服。

 それらを確認すると、目を閉じて背筋を伸ばし肩から力を抜いた。


「失礼いたします」

「失礼いたします」


 そう言うと、さらざらと衣擦れの音が聞こえ始めた。続いて着ていたものをばさりと床に落とす音。

 顔を隠す帽子を除き一糸まとわぬ姿になった少女たちの手が、今度はエリクスの体に触れた。

 慣れた手つきでボタンを外し、一枚一枚脱がせてゆく。着ていた服は丁重に折り畳まれ、保管されているらしい。目を開けた時には既にどこかへ運ばれているため、真偽のほどは分からないのだが。

 程なくシャツと下着だけになったエリクスの体に、今度は別の服が着せられていく。

 机の上に置かれていた『仕事』のための正装だ。


 エリクスがこれを自分の意志で着ることは許されていない。使命を任じられ、許可が下りた時のみ用意される。

 別にそれは自分で着替えてはいけないという意味ではないはずなのだが、実際には身につける事すら他者の手で行わなければならなかった。

 初めのうちこそ疑問に思った事もあったが、今ではもう慣れてしまっていた。諦めた、と言うべきか。


 体を揺らしていた手が離れたのを感じる。数秒ほど待つと、そっと目を開いた。


「いかがでしょうか」

「何かございますか」


 左右に控えていた少女たちが交互に声をかける。 ただの確認であって問題などあるはずがない──そんな自負がにじみ出ているようにも聞こえるが、彼女らがそんなことを考えているのかどうか布越しには確かめようもなかった。

 二人は全裸のままで直立不動の姿勢を崩さず、体を隠そうともしていないが、エリクスもまた平坦な声で「問題ありません」と返すだけだった。

 いつものように先ほどまで着ていた服はいつの間にか運び出されており、机の上には茶色いややくたびれた中折れ帽だけが残されている。

 その帽子だけは『仕事道具』ではなく、エリクスの私物だった。

 だからこれだけは自分の意志で身につけることができる。

 静かに手に取ると、いったん目深に被り位置を調節する。それはジャケットと合わせると、古いおとぎ話に出てくる冒険家か何かのようにも見えた。

 もっとも、その表現は正しくないとエリクスは思っている。


「準備は整いました。行きましょう」


 冒険家は未踏の地を切り開くものだ。

 だがこれから自分が向かうのは、既に切り開かれた迷宮なのだから。

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