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説教部屋

「はああああ~……」


 リビングにフェルトの吐く長いため息が響き渡る。その理由は探すまでもなかった。


「んもう……やっちゃったね、お母さん〜〜〜!?」


 眼前に広がるのは家族3人の姿。目にクラゲよりもたっぷりと水分を溜めた母、張りのある額にきゅっとシワを寄せた妹、そして床に広げた白いシートの上にちょこんと座り込んだエレナ。

 いや正確に言えば白黒マーブルといったところか。

 シュア家にそんな柄の布はなかったとエリクスは記憶している。事実エレナが座っているそれは、ただの真っ白なシートだ。その上に黒いものが流れ、積み重なっている。

 当の本人はと言えば、きょとんとした顔で首に巻かれたクロスをいじっていた。


「……お帰りなさい、エリクス」


「ええ、ただいまエレナ。母さんとフェルトも」


 こちらに気付いた彼女に返事を返す(母と妹にはスルーされた)。声もその音量も今朝と変わらなかったがただ一つ、ある部分が一目で分かるほどに違っていた。


 シートの上を埋めるように落ちているもの。

 部屋に差し込むわずかな夕日に照らされ、あでやかに輝く"それ"は──

 腰を超え、膝下近くまであった長く美しい彼女の黒髪。

 切り離され地に落ちてもなお、艶やかな光を失っていなかった。


(これは……まぁ検討はつくけど、さてどう触れたらいいものやら──)


「……ご、ごめんなさぁぁぁい。私が……私がエレナちゃんの髪の毛を……」


 ことがことだし下手なことは言えないな──などと考えていたら母さんがあっさり自白した。


「エレナの髪は私が切るって言ってあったのに……お母さんったら、帰ってきてみたらこれなんだよもうっ!!」


 子どもたちが留守の間に我慢できなくなったというところか──この母は普段自制することがいろいろと多いせいか、たまに抑えが利かなくなることがある。

 いや、割とある。

 かなりあった。


「違うの、ほんのちょっぴり切るだけのつもりだったのよう。 ……でもその、なかなか長さが揃わなくてね?」


「それにしたって、切ーりーすーぎぃーっ! エレナ、男の子になっちゃったじゃないっ!」


(母さんのことだ……きっとわずかな違いが気になり出して止まらなくなったんでしょうね……)


 身長と大差なかったエレナの髪は、今や耳の少し下程度まで短くなっていた。確かに服装次第では後ろからなら男の子に間違えられることすらありえそうだ。

 このあまりにも急すぎるイメージチェンジにフェルトはすっかりお冠の様子で、ぴょんぴょん飛び跳ねながら母に文句を言い続けている。見た目は可愛らしいと言えなくもない仕草なのだが、こうなった時のフェルトは本当の本気で怒っているのだ。下手に茶々でも入れようものなら、その矛先がこちらにまで向かってくることは間違いない。


「で、でもほら……あんまり長いと不便なことも多いでしょうし……」


「髪は女の子にとって命なのーーーっ!! お母さんだって分かるでしょ! 子が取れたら忘れちゃったの!? たまに私のお洋服こっそり着てるの知ってるんだからねっ!」


「お、お母さんまだ若……なんで知ってるの!? ちゃんとお留守の時狙ってたのに!」


「知ってるよ! 『普通に着れちゃう……』って落ち込んでたのも見てたよ!」


「忘れて! 特にそこは念入りに忘れて!!」


 床に正座させられたままあうあう言っている母に何かフォローを入れようかと思わないでもなかったが──


(まぁ……じっくりお灸を据えられて下さい)


 そもそも一番ショックなのはばっさりやられたエレナで、あとの二人は放っておいてもいいだろう。そう思って彼女の顔を見ると、時間でも停まっていたのかというくらいさっきと変わらぬ様子で小首をかしげていた。

 おや、と思うと同時にエレナが口を開く。


「あの……」


 リビングに鳴り響く大声に今にも消えそうな、しかし不思議と聞き逃されないか細い声が割り込むと、フェルトはピタリとお説教を止めてエレナのもとに駆け寄る。


「あ〜……ごめんね、エレナ。こんなことになっちゃって……せっかく長くて綺麗な髪だったのに……」


 心底申し訳なさそうに謝るフェルトに対して、エレナは大きな黒目を一度二度瞬きすると、さらに小さな声で問いかけた。


「あの……」


「うん、なーに? 何かしてほしいことある?」


「フェルトはなぜ、シリンを怒っているのでしょうか……?」


「「「えっ?」」」


 家族全員、全く同じタイミングで同じ声が出てしまった。思わず皆が一様にエレナの顔を凝視すると、彼女は薄く微笑んでみせた。


「私……気にしてませんよ。いいえ、シリンが切ってくれたこの髪形……とても気に入っています」


 予想外の反応に一瞬の間が開き──最初に動いたのは母さんだった。


「エレナちゃんっ!」


 と彼女の身を覆う白いクロスごと抱きしめる。


「そうよねーっそうよねーっ。さっぱりしてるからこっちのほうがいいわよね〜。気に入ってくれて、お母さんホントに嬉しいわっ」


 すっかり意気消沈していた姿が裏返ったかのように明るさ全開になり、座ったままのエレナに感謝の頬ずりを連発する。大型犬か何かのようなオーバーな愛情表現に対し、エレナは抵抗するでもなく右へ左へ揺すられていた。

 僕とフェルトはと言えば、そんな様子を見て呆れるしかなかった。


「はぁああああああ……」


 怒り疲れたか、今度はフェルトが肩を落としてうなだれる。まぁ、気持ちは分かる。

 せめてものフォローで優しく肩を叩きながら、


「過程はさておき……彼女がいいならこれでいいんじゃないでしょうかね」


「ん〜……まあ、ね。エレナがいいならいいんだけど……。でも、お母さんは後でもっときつくシメとかなくちゃ」


「そういう言葉遣いは良くありませんよ、フェルト」


「──じゃあヤキ入れとく」


「それなら……いえもっと駄目です。言葉は穏やかに扱うものですよ」


「はぁーい。言葉は穏便にしておきまぁす」


 目を閉じて白々しく答える妹の頭を黙って撫でる。後で加えられるであろう母への苛烈な追撃そのものは否定せず、ひとまずの事態の収拾にそっと安堵した。


 さて一段落したとはいえ髪の毛が散乱したリビングではろくに食事もできないだろう、と掃除用具を取りに玄関に向かう。

 部屋を出る直前、まだゆっさゆっさと揺さぶられているエレナの細い髪に目を止める。


(まあ……僕は最初から似合っていると思いましたけどね)


 それは偽りのない本音で。

 後で本人に伝えたら喜んでもらえるのだろうか、と考えながら後ろ手に扉を閉めた。


***


「…………」


 シリンの部屋。その主は椅子に腰掛けたまま、もう10分以上動いていなかった。

 机の上には一通の封筒が開封されないまま置かれている。簡素なものだが、厳重に施された封はそれが友人同士でやりとりするようなものではないことを物語っていた。

 重厚な封蝋に刻まれた印はストルルソンの校章──では、ない。似ているが違う。

 彼女はそれが何なのかよく知っている。中身が今までもう何度も受け取ってきた封書と同じものであることも。


「また『扉の向こう』で何かあったのね……」


 つぶやいた声は誰に向けたわけでもない。ただ一人の親としての、正直な不安が漏れ出したかのようだった。


 封筒の裏には、特徴のない文字でこう書かれていた。


“エリクオール=シュア殿”

“我らは閉ざす者なり”

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