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黒髪の少女エレナ

「えっ……ええええぇーーーーーっ!?」


 突然の一言に一瞬言葉を失った後、普段出ないような声がリビング中を駆け巡る。


「いやいやいや、そんないきなり……それに父さんの了解も得ないまま──」


「ああ……エリクス。あなたは行く当てのないかわいそうな子を見捨てるのかしら? いつからそんな心のない子に育ってしまったのかしら……やはり私の教育が──」


「えー、連れてきたのはエリクオールなのに見捨てるなんて……ひどいぞーおにむっつりー。むっつりおにー」


 目の前でうそ泣きをしている母さんと台所から参戦してくる妹に攻め立てられ、なんだか肩身が狭くなると同時に自分が悪者のように思えてきたが、よく事情も聞かないまま、勝手に話を進めるわけにもいかない。


「……そうは言っても犬や猫じゃないんですから。連れて帰ってきたら家族というのは……」


 こちらが真剣に悩む表情を見せると、母さんもまた表情を変えた。一息つくとまっすぐこちらの目を見つめる。こういう時の母さんは真剣なのだ。


「そうね。冗談はこれくらいにして……本当のことを話すわね」


「本当の……?」


「今朝話そうと思ったのだけど、この子──どうやら記憶がなくなっているようなの」


「えっ……」


「もちろん全ての記憶がないわけじゃないんだけど、少なくとも自分自身に関することは何一つ覚えていないみたいなの」


 繰り返すが、こういう時の母さんは真剣だ。だからこんなおとぎ話じみた話でも本当のことなのだと、僕は受け入れられる。


「……ん? じゃあ名前も……?」


 母さんがゆっくりと頷くと、隣に居る彼女も俯きながら口を開く。


「ごめんなさい……。私、何も覚えていないの。目が覚めたら……もう……」


(……つまり、湖にいたことも、いた理由も……覚えていないのか)


 少しだけ思索を巡らせる。彼女は人間なのか、女神なのか。記憶のないフリをしてみせているのか、本当に失っているのか。

 ……思いつくのはとりとめもないことばかりで、推測どころか妄想にしかならない。

 当たり前だが、彼女が記憶を取り戻さない限り何も分かりはしないのだ。


(あ、そういえば)


「ところで名前も覚えていないと言ってたけど……じゃあさっきフェルトが──」


「はいはーい! 名づけ親は私だよー! でもママとは呼ばないでね! うらかわき……うらわかき?おとめだもの!」


 どこからともなく(台所からだが)現れたフェルトが滑り込むようにリビングに現れる。

 そしてニコニコしながら、母さんと自分で黒髪の少女を挟むように座ると嬉しそうに抱きついた。

 もし仮に誰かにママと呼ばれるとしたらそれがどちらなのかは──まあさすがに言わないほうがいいだろう。

 その代わりというわけでもないが、今聞いておかなければいけない質問を投げかける。


「そう……ですか。まあ呼ぶ名前がないのでは困りますし、それはそれで助かるのですが……あなた自身は?」


「私は……大丈夫です。エレナ……はい……私のことは、エレナと呼んでもらえますか?」


 彼女──エレナはそう言って薄く微笑む。少し体を揺らすと、長い髪がインクのように白い腕の上を流れていった。

 その言葉に大喜びする二人を見て、エレナはまたわずかに表情を緩めたように見えた。


 別に何か問題が解決したわけじゃない。それでもここで暮らすのならば、浮かべるものは涙より笑顔のほうがいいだろう。

 そんなことを思いつつ、自分も笑顔を向けてみせる。


「あー、エリクオールがまた変なこと考えてるー。っていうかキザなこと考えてる顔してるー」


「ダメよフェルト、エリクスもそういうお年頃なんだから。……あ、お年頃といえばエレナのお部屋も用意しなくちゃね? 鍵付きの」


「どういう意味ですかっ!?」


 僕の笑顔は3秒もたなかった。


***


 ──翌朝。


「おはようございます……エリクオール」


 聞き慣れない声だが、聞き慣れた呼び方。それに特に違和感を抱くでもなく、ベッドから起き上がる。

 たっぷり三呼吸は置いてから目を開く。ぼやけた視界がゆっくりと鮮明になり──


「……ん……うわあっ!?」


 長い黒髪を垂らした少女が目の前にいた。こちらを覗き込むようにかがんでいるので、顔も体もほとんどが髪に隠れており、その姿は一瞬人間に見えないほどだった。

 反射的に跳ね起きて、ベッドの隅まで後ずさる。よく見るまでもなくそれは新しい家族となった少女なのだが……正直この起こされ方は寝起きの心臓にはあまり良くない。

 もっともそんなことを口走ってしまうような眠気はもうどこにも残っていなかったので、


「あー、その……。おはようございます、エレナ」


 と、挨拶を返した。


「……はい。もう朝ご飯の用意が出来てますから、起きてるようでしたら、リビングまで来て下さいね」


 そう言うとこちらの様子に気にも留めず、目の前をスタスタと通り過ぎて部屋から出ていった。

 思わず長々とため息をつく。目覚めが騒がしいのはいつものことだが、そのいつもの騒がしさの原因が今朝は姿を見せていない。つまり……


(……フェルトの差し金ですね、これは)


 妹の満面の笑顔が目に浮かんだ。今ごろは台所で大笑いしていることだろう。

 まあそれもいつものことだと早々に諦めると、着替えるためにベッドから降りた。


***


 空いていたテーブルの席が一つ埋まり、母さんはいつもより嬉しそうにしていた。

 同じくフェルトもニコニコしながら何度もこちらを覗き込んでいたが、こちらは別の理由だろう。


 その席を埋めた少女は、スープに口をつけながら家族の会話に相槌を打つ程度だったが、それでももう昨晩よりまた少し表情が柔らかくなったように見える。こういう時には妹の陽気さが一番の薬になるようだ。本人はきっと意識していないのだろうが、作意のなさこそが一番の誠意なのだとドルトー先生が言っていた。


「それにしてもエレナって、髪綺麗だよね~」


 フェルトはそう言うと、恍惚の表情を浮かべながらエレナの黒髪を何度も撫でている。


「こら、フェルト。人の髪をオモチャにしちゃ駄目よ。それに今は食事中よ」


 はぁーいと気のない返事をして離れる。すると母さんは少しエレナの顔を見つめると、


「それにしても、そんなに長いとさすがに色々と不便じゃない? もし良ければ、後で私に整えさせてくれないかしら」


「えー、せっかく綺麗な髪なのにもったいないよ~」


 パンをかじっていた妹が唇を尖らせ抗議する。短い間にすっかりエレナの髪が気に入ったようだ。

 母親としてもそこに異論はないようだったが、幼い娘よりはもう少し地に足をつけたことを言う。


「でもここまで長いとちょっとね。普通に過ごすのにも邪魔になるようじゃ、かえって魅力が落ちちゃうものよ?」


 その言葉に反応した──のかどうか見た目では分からなかったが──エレナは顔を上げると左手で髪をかき分け、小さな声で答えた。


「では……お願いしてよろしいでしょうか……」


「ええ〜っ!? ……いいの?」


「はい……私は構いません。」


「うーん、もったいないな~。……でもお母さんが言うとおり、このまま伸ばし続けたら地面についちゃいそうだよね」


 不満げな顔は早々に消えて、真剣な目でエレナを上から下まで眺め回す。


「じゃあ、どのぐらい切る~?」


「ええと……じゃあ……。……フェルトさんぐらいで」


「えっ? 私? じゃあ……このっくらい?」


 そう言って手早く結んでいた髪を下ろすと、エレナに見せる。

 朝の光の中に流れる髪は兄のひいき目を抜きにしても十分綺麗な部類だと思うのだが、これでもフェルトが抱く「理想の美髪像」にはほど遠いらしい。

 エレナは解放されたフェルトの髪の毛をしばらく眺めると、静かにつぶやいた。


「……はい。そのくらいで」


 フェルトはその言葉ににっこりと笑顔を浮かべたが、はっと気付いて唇に指を当てる。


「あ、でも今日は私、市場に行ってエレナの身の回りのものを注文してこないといけないから……」


「大丈夫! 母さんに任せて! 一人でできるもん!」


 そう言って意気揚々と腕まくりをする姿を見て──息子と娘は静かに首を振る。

 テーブルに突っ伏していつもの泣き真似をする母を最後まで無視して、この日の朝食は終わった。

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