PAGE4.希望に架かる橋
6月18日 晴
今日もお客さんはこなかった。
まぁ、私の所に来る様な奇特な人はいないと思っている。
それだけ、今は平和ということなんだろうなと実感しながら
レコードから流れるジャズに静かに耳を傾け、
悠然と時が流れるのを満喫する。
6月19日 雨
宮嶋さんが来店される。
普段は気さくな方だが、この日に限って元気がない模様。
いつもはマンデリンを淹れるのだが、気分を入れ替えていただく為に
少し早い時間帯なのだが、新品の大吟醸の瓶を開封する。
その後しばし、黙々とグラスを傾けあう。
6月20日 雨
昨日から降り続いている雨は、ますます勢いを強めていく。
暫くはこの曇天と付き合っていかないといけないのかと思うと、
やはり気が滅入るものだ。
雨が上がるのを待っているのだろうか、今日は学生が多い。
期末の試験も近いようだ。息抜きのコーヒーが人気となり
挽いているコーヒー豆が切れるという事態が発生する。
結局、雨はあがらず学生達は鞄を傘代わりにして店を出る。
風邪を引かないように気をつけて欲しい。
とある喫茶店にて、
一人の男がが経営日誌のページを丁寧にめくり、
自らの書いた一字一字をいとおしく見つめていく。
店内には、まだ誰も客は来ていないようだった。
あるのは、年季の入った古ぼけたカウンター席と、
同じく年季の入っているであろう、テーブル達。
様々な明るさが散りばめられている茶色の店内に
オレンジフレイムの電飾が一本の細長い煙草の煙を映している。
本来ならば、「Bleeze」の雰囲気をシックに彩っているラジオも、
今は電源が落とされており、店は静まり返っている。
「……ん?この日は……?」
次のページをめくり、男はずり落ちそうな眼鏡を上げる。
確かに男の筆跡に間違いはない。
ただ、連なった筆跡と書かれている文章が段ちに長い。
書かれている文字にゆっくりと触れていく。
以前の記録が記憶としてフラッシュバックされてゆく。
6月26日 曇
高野さんと、水澤さんがカウンター席に座っていた。
お互いにパイプの煙草をふかし、御孫さんの自慢合戦を繰り広げていた。
確か、高野さんにはミルクセーキ。水澤さんにはアメリカン。
口の端に泡を飛ばしている二人を見て苦笑していた。
カラン
何度となく聴き慣れたカウベルが来客を告げる。
「いらっしゃいませ」
微笑を浮かべ、来客に目を向ける。
入ってきたのは、思いつめた表情をした小柄な女性だった。
少女というには程遠く、女性というにはまだ若い。
自慢合戦をしている二人には目もくれず、カウンター席の端に座る。
一度来たお客さんの顔を覚えていないとこの仕事は出来ないのだが、
彼女に視線を向けて顔を確認しても、記憶の中にはない。
本当に飛び込みで店に入ってきたのだろう。
注文を受けずに男はカウンターの反対側に移動する。
取らなくても、表情を見れば何を必要としているかは自ずと分かる。
これは長年喫茶店を続けてきていた男の自負だ。
温めたティーカップのお湯を捨て、ティーパックを入れ、
湯気で視界が白くならないように注意しながら、沸騰しているお湯をカップに注ぎこむ。
カルチェラタンのパックを浮かべて小皿で蓋をして数分蒸らす。
そのままのカップを彼女のカウンターに置く。
「あの・・・これは・・・?」
不思議な表情になるのは無理もない。注文すらしていないのだから。
「カルチェラタンのストレートティーです。」
彼女の目の前で小皿を持ち上げる。
白い湯気と共に、ラベンダーの香りが一時店内を占める。
「長年御客様を見つめておりますと、
その方が最も必要とされている飲み物を見取ることが出来るようになりまして…」
「私、このお店に来たのも初めてなんですけど…」
「そうですね、私も貴女に会うのは初めてですが、
顔を見れば分かるものです。同じような表情をされた御客様もおりました」
静かに男が話し、そして言葉を切る。
これ以上の話は彼女の『領域』に踏み込む事になる。
一歩を踏み間違えて客人を怒らせて帰ってしまったという男の経験が成せる業なのだろう。
しかし、彼女は無言のまま、紅茶の水面を見つめている。
『領域』に踏み込むか無言を貫いたままを維持していくか、彼女の表情を伺う。
思いつめた表情にも変化は見られない。
「貴女の身に何があったのかは私には解りかねますが…」
一石を投じる。男はただ信じた。彼女のココロの発展を。
「まずは、香りと味でで心を満たされては如何でしょうか?
決して間違った物をお出ししてはおりませんよ」
微笑を浮かべた一石は、彼女のココロに波紋を広げる。
男の微笑みに絆されるようにカップに口をつける。
ラベンダーの香りが彼女の全身を包み込んでゆく。
マグカップをグロスで磨きながら、男は彼女を覗き見る。
この心配性な所に我ながら男は苦笑する。
「…おいし」
小さく呟いた彼女の頬から小さな小さな涙が伝ってゆく。
その後、彼女から流れてくるのは、小さな小さな嗚咽。
眼鏡のフレームを押し上げながら、男は自分を叱責する。
だが、堰を切った涙は全て流れさるまでは止まる事はない。
静かに男はラジオのスイッチに手を伸ばす。
題名も知らないピアノのソロが淡々と流れてゆく。
気付くと、高野さんと水澤さんも男を気遣ってか怪訝そうな表情をする。
男がゆっくりと頷くと音も立てずに二人は店を後にした。
退店を告げるカウベルが小さく鳴り響き、
重い灰色の空から稲光を含んだ大粒の雨が降り出していた。
夕方には上がるだろうと、男は直感で思った。
ひょっとすると、今日は見れるかもしれないと期待を抱いて。
「ごめんなさい。いきなり泣いてしまって」
赤い目のままの冴木 智が微笑もうとするが、泣き笑いにしか見えない。
声も戻ったとはいえ、多少掠れてしまっている。
「いいえ、今はお気遣いはされない方がいいですよ」
店の窓から視界を遠ざけ、風間と名乗った男が注文されたカフェオレを彼女の前に置く。
ラジオから流れる曲が雰囲気に合わなかったのだろうか、カセットを再生する。
男が気に入っていたジャズが流れ始めた。
「でも、いい所ですよね、ここ。普通に喫茶店では出せない。
何て言ったらいいのかな……不思議な感じがします」
陳腐な表現ですね、と小さく笑う彼女はゴーストライターだと言った。
有名になった作家が原稿の作成作業が追いつかない時に、
アシスタントとして雇っている弟子に頼んで原稿を執筆し、
それを、作家の名前を使って書かれた物を出版する。
無名の作家が名作を生み出していても、それが必ず売れるという確証が一切ないが、
著名人が書いた作品ならば、
強力なネームブランドで売れるというケースが結構あるらしい。
「ありがとうございます。御世辞とはいえ嬉しいものですよ」
「いいえ。御世辞じゃないですよ、本当に。
うーん…言葉って難しいですね……」
「言葉を操って人を感動させるプロでも難しいんですか?」
「操っているなんて……使い方を誤れば、言葉は武器になります。
それで人を傷つけることだって容易に出来るんです。
護身の為に武器を取るのと同じですね」
「そして、物理的に付く傷よりも、心の中に残る傷はなかなかに消えることはない。
人によっては、それがその人の生涯まで脅かしかねないと?」
言葉を使うことなく彼女が頷き、カフェオレを一口啜る。
眼鏡のフレームを押し上げようとした男だが、
眼鏡に指紋が付いていることに気が付き、
彼女の隣にあったナフキン立に掛かっている眼鏡拭きに手を伸ばそうとした時、
カウベルが乾いた音を立てた。
扉に目をやると、一人の老紳士が佇んでいた。
男が丁寧に会釈をする。
老紳士は当然のように自らの席が空席であることに満足している模様で、
以前の二人よりもやや智の近くの席に腰を下ろした。
それに呼応して、あらかじめ冷やしておいたアイスグラスに
ミックスジュースを注ぎ、コースターの上にグラスを置く。
静かにグラスを傾けて、白眉が柔らかく動く。
男が安堵の表情を作る。
普段と変わらない出来だったようだ。
「あ、あの……何をされているのですか?」
きょとんとしているという言葉が最も相応しい顔をして彼女が尋ねる。
「あぁ、やはり冴木様には見えないのですね」
やはり、合点がいっていない智。
「誰にも言いませんか?」
「えぇ、言いませんけど」
暫くの間、軽い睨み合いが続く。
だが、この店に入ってこれる人だという事実だけでも
彼女には話してもいいという大きな理由になると男は知っていた。
改めて、愚問を尋ねた自らを失笑する。
「今、冴木様の近くにも、御客様がおられるのです」
「え?」
彼女が目を向けても、ジュースの入ったグラスがそこにあるだけだ。
しかし、目を凝らしてみるとジュースの量が心なしか減っている。
「では、申し上げましょう。
此処は、死者と生者が一堂に会す場所『Bleeze』」
彼女の表情が唖然としたそれに変わる。
それもそうだろう。真顔で言われても俄か信じられないだろう。
「死人に口なし……という言葉がありますね?
あまりいい意味では捉えられないのですが、
当店は、死人の言葉に耳を傾けることの出来る場所なのです」
「では、風間さんも死者なのですか?」
「それでは、冴木様には私の姿が見えなくなってしまいますよ。
私は列記とした人間です。
そうですね……生者と死者の意思の橋渡しが出来ると、思っていただければ」
かなり貴重な経験をしているのではないかと智は自問する。
「死者は現世に思い残すことがない方ならば、迷うことなく成仏されるのです。
ただ、亡くなられた方々全てが成仏出来るとは限らないのです。
そのように思念を持ったまま亡くなられた方々が、
思いを遂げられて成仏されるのをお手伝いできるように、
私はこの店を運営しているのです」
老紳士が彼女を優しげな瞳で見つめている。
紳士と男が視線を交わし、男が静かに頷いた。
「何でしたら、今考えておられる事を崎山様に話されては如何ですか?」
「崎山……さんですか?」
「えぇ、ミックスジュースを飲まれている方です。
今、冴木様の隣に移動されましたよ」
驚いて隣を見る。グラスが確かに彼女の近くに動いていた。
「亡くなられてはいるとはいえ、崎山様は銀行の頭取をされていた方。
色々と修羅場も潜り抜けてこられた方ですし、
人生の先輩の意見を仰げる数少ないチャンスかもしれませんよ」
そう言いながら、
先程取り損ねた眼鏡拭きに手を伸ばし、
グロスでカップを磨くように丁寧に眼鏡についた指紋を拭き取る。
貴重な経験の中でさらに貴重な経験を得られるかもしれないという
微かな期待を胸に彼女は語りはじめる。
自らを作ってきた過去の物語を。
自らの立っている現在の境遇を。
自らの歩み行くべき未来の針を。
語り始めて終わるまでに、長針が一度周回を重ねた。
淹れたカフェオレは冷たくなり、ミックスジュースは常温になっている。
男が想定していた通り、夕立はピークを終え、小降りになっていた。
目を閉じて老紳士と意思の終えた男が一息つく。
「これで、伝わったのでしょうか?」
智が多少スッキリとした表情をする。
「えぇ、冴木様の仰られた事は、全てお伝え致しました」
男も不安を抱かせないように断言する。
カセットが機械的な音を残し、逆回しになる。
ややテンポの緩やかなボサノヴァが流れる。
「……なるほど、崎山様から意思が返ってまいりましたよ」
彼女の心臓が一度大きく波打つ。
本当は帰ってこないと思い込んでいたので、意外だったのだろう。
「私は……自らの願う姿に向かって……
頑張られている貴女を羨ましく感じております」
「え?」
眼鏡を外し、目を閉じていた男の口調の色が大きく変化した。
明確に違っているものは、話す声は先程の男と同じなのだが、
彼から発せられる声は、一段低い音階から出されるものだった。
声が変われば、人が持つ雰囲気は大きく変わる。
「昔は…私も…夢を持っておりました……
航空機の機長になって世界を見て回りたいと思っておりました……
ですが、それは絵に描いた餅……
それを絵に描いたとしても、お腹がすくという事実からは逃れられない……
ですから、私は何時の日かその絵を描いていたという記憶を
私の中から消去して地道に働くことにしたのです…」
今、男を通して老紳士はどんな顔で話をしているのだろう。
男の顔から老紳士の感情が浮かばない事を智は惜しく感じた。
生前に一度でも会って話が出来れば、どんなにいい話が聞けただろうに。
「それが功を奏したのでしょうね……
時間が経つと共に、私の周りには人が大勢集まり始め、
更に年を重ねると頭取と呼ばれるまでになりました。
満ち足りていないと言えば、嘘になるでしょう……
ですが、私は…まだ此処に残って成仏できておりません…
それは、未だに抱き続けた夢の欠片が私を此処に残し続けるのです。
ですから、この姿は…本当は私の望む姿ではないのです……
貴女は…貴女自身が望んでいる姿に少しでも近づこうとしておられる。
その時点で、私よりも素晴らしい人生を送っていると思うのです。」
信じられない言葉だろう。
銀行の頭取といえば、この世の中では申し分ない位置にいてもおかしくはない。
金銭的な事も当然であるが、
お金の余裕はそれと同じくして、心の余裕を作り出すことが出来るのだ。
「貴女にあって、私にはないものも当然あるのです…
何だと思われますか?」
「わからないです…すいません…」
律儀に頭を下げる智。
流石に幻滅されるだろうと、腹を括ったのだろう。
「これは……持っていても気付かれない人が多いと思います…
私自身も、全く気付くことがございませんでしたから…
それは『時間』です」
「時間…ですか?」
「人と人との付き合いの上では…自らの欲を満たす為に、
人を騙し、裏切り、貶める事を平気ですることがあります。
生前の私も戦略という名の下に裏切って人を悲しませたり…
逆に裏切られて憤慨することもありました…
ですが『時間』は人に等しく与えられた珠玉のもの…
今、こうやって流れている時は、本人が亡くならない限り、
必ず人の元に訪れ、他の誰にも奪えないもの…
今の貴女は私と違って、たくさんの時間を持たれているのです…
貴女はまだまだ若い。
持っている時間をたっぷり使って
もっと御自身を磨かれることが必要なのかもしれません…」
合点がいっているのかいないのか不思議な表情をする智。
カフェオレの水面は変わらず彼女の顔を映している。
暖かかったそれは、もうぬるくなっていた。
「では、私からも進言致しましょう」
顔を上げると、眼鏡をかけ直した男が微笑んで彼女を見つめている。
老紳士の口調とは戻り、先程の風間の口振りに戻っている。
「うん…そうですね。御客様の中で起こっている問題は、
もう既に御客様自身の中で結論は出ているのではないですか?」
核心を見事に突かれてしまったようで、
思わずマグカップを取り落としそうになる智。
男は再びグロスを手にして、新たなマグカップを磨いている。
「私も、様々な御客様から様々な悩みを耳に致しますが、
悩みというものは、自分自身では結論が出ているもので、
結局を言えば、背中を押してくれる力強い一言が欲しいものなのです」
マグカップを傾けて彼女はカフェオレを飲む。
熱くはない。ただ、別の熱さが、彼女の中を駆け巡る。
男は彼女の飲み物が空になって様子を眺めながら、窓に目を見やる。
雨はその姿をひっそりと潜めていた。
「では、僭越ながら……私からささやかな贈り物を致しましょうか。」
「はい?」
そんな彼女の背後が明るくなる。
男の視線が彼女の死角になった瞬間。男が指を鳴らす。
「わぁ……」
彼女が思わず感動を声に出す。
彼女が見た窓の外には、雲の隙間から溢れる夕日の光と、
梅雨の合間に起こる自然の奇跡、鮮やかな虹が二本架かっていた。
「此処は、死者と生者が一堂に会す場所『Bleeze』…
そして、虹が楽しめる喫茶店『Bleeze』」
会心のタイミングだったのだろう。その笑みを浮かべて男は語る。
それに呼応するかのように、彼女も老紳士も笑みを浮かべる。
「吹っ切れた模様ですね、冴木様」
男が心を見透かしたように話す。
「えぇ、とっても参考になりました。ありがとうございます」
残されたカフェオレも一気に飲み干し、そのままスツールから降りる智。
代金を払おうとして財布を出すのに苦心しているようだ。
「構いませんよ、冴木様。今回はサービスで」
「え?でも、それじゃぁ…」
流石に恐縮した表情をする彼女。
「御客様の笑顔が私の喜び。
どうしてもと申されるのでしたら、出世払いで御支払いください。」
そんなに手持ちもお持ちではないでしょうから、と小さく付け足す。
また核心を突いたのだろう、苦笑いをする彼女。
「じゃぁ…また来てもいいですか?」
「えぇ。貴女がまた立ち寄りたいと思った時、当店を思い出して下さい。
またの御来店を御待ちしておりますよ、冴木様」
それを聞いて、彼女の表情がほころぶ。
そして、軽快な靴の音と同様のカウベルを耳に残し、彼女は出て行った。
「ふふ…」
店内には、男と老紳士が残っている。
老紳士が鷹揚に頷くと、男は丁寧に会釈をする。
小さなグラスに、氷塊を入れると、ウイスキーを注ぎ始めた。
三つの季節が巡り、暖かい季節に向かいつつある。
1ページ1ページを慈しむように捲っていた男の指先が止まる。
真っ白なページが男に書いてもらえる様に準備を整えていた。
胸のポケットからボールペンを取り出し、
3月29日 晴 と書き込む。
今日は、どのような御客様が来店されるのだろうかと期待を抱き、
男は『Bleeze』を開店させる。
「風間さん!私、入選しました!」
直後、慌しいカウベルの音と共に、彼女が飛び込んできた。
その姿を見て、アールグレイのミルクティにしようと思う風間。
今日も喫茶『Bleeze』は様々な人を迎え入れようとしている。