07.過去
私に割り当てられたホテルの寝室は、陛下の主寝室とはリビングを挟んで反対側にある。リドリスさんの仰った通り、鍵付き。今はベッドの上で先ほど買っていただいた物の整理をしていた。
とりあえずすぐに使う夏物、下着、化粧品をこれまた買っていただいたトランクケースに詰める。
本当にたくさんの物を買っていただいた。いいのかな?こんなに買っていただいて…。
でもどちらにしろ、今の私に所持金はほとんどない。お言葉に甘えるしかない。
陛下がバスルームを使い終わられたので、私もシャワーを浴びよう。そっと寝室から出ると、ロゥアン陛下はリビングでくつろいでいらっしゃった。シルクの部屋着にガウンをお召しになり、黒髪は無造作にかきあげて…。
見回すまでもなく、リドリスさんも他のお付きの方もいない。本当に陛下と私の二人っきり。これっていいの?
『あの、陛下。バスルームをお借りします。』
『ああ。ルノエ、後で少し聞きたいことがある。』
『?はい。』
『湯を浴びてからでいい。』
お洒落なバスルームでシャワーを浴びる。白いタイルはよく見ると、薔薇のモザイクになっていて、ソープの香りも薔薇のようだ。すごくいい香り。置かれている小物もタオルもすべて薔薇のモチーフ。こんな素敵なバスルームを使うことができるなんて!
心が浮き立つけれど、陛下が待っていらっしゃると思うとのんびりもしていられない。くつろぐ間もなくさっさとシャワーを浴びた。
髪を拭いて、肌を整える。バスローブで陛下の前に出るわけにはいかないので、明日着る予定の衣装を着た。
濡れた髪を新しいタオルでもう一度拭いて、いつものように纏めずに肩に流してバスルームを出る。
『ロゥアン陛下?』
『ああ、座れ。』
陛下の真正面のソファーに座ると、とても驚いた顔をされた。
『すっぴんだと不敬になります、か?』
『なるほどすっぴんか。………フフフ』
『陛下、不敬なら早くそう仰ってください。笑われる方が辛いです。』
『ああ、すまん。つい。』
『…………。』
『つい』ってなに…?陛下は笑いながら、グラスに冷たい飲み物を私に淹れてくださった。
『……ありがとうございます。』
『ルノエ、聞きたいことがある。』
『はい。』
その途端、ソファから身を乗り出すように私の顔を覗き込まれる。グレーの瞳が光るような気がした。突然ロウァン陛下の雰囲気が変わったことに驚く。
『ルイ、とは誰だ?』
『ルイは兄です。五つ離れた私の兄です。』
『………兄か。』
はぁ、と大きなため息をついて、陛下は身を起こして項垂れた。
『あの?陛下?兄がどうかしたのでしょうか?』
『いや、悪かった。なんでもない。俺が勘ぐっていただけだ。……ルノエの恋人か何かと。』
『……兄は、隣の街に家族と住んでいます。ランジェ商会の支社があるのです。』
『兄上はご結婚されているのか。』
『はい、子供が二人おります。』
『そうか。……まだ聞きたいことがある。』
陛下は亡くなった父や母のこと。その人となりや、亡くなった原因。そして兄のこと。カルオさんとのこと。そのほか私の周りの色々な事を聞きだされた。
父のエルジオは生粋の港生まれ。カルオさんのランジェ商会でいくつかの支社を任されて毎日遅くまで働き、休みの日はいつも私達の相手をしてくれていた。いつも笑っていて、やさしい父だった。
母のナリルは、元は王都の学校で語学の先生をしていたと聞いている。あの港の街に旅行に来て、父と出会ったと言っていた。
いつも少女のように可愛らしい母で、どんな時も「大丈夫」が口癖だった。港の街でも語学教師をしていた母から、私も語学を学んだ。
父と母は船旅の事故で亡くなった。初めての二人だけの船旅だったのに、そこで大きな嵐に巻き込まれた。
有名な事故となってしまったので、陛下もご存じだった。亡骸は今も行方不明のまま。そしてシリロも……。
カルオさんは貿易会社、ランジェ商会の社長であり、兄や私の上司。生前、父の上司でもあったカルオさんは父を部下とは思っていないようだった。いつも「エルジオは本当にいい友人だ。」と父との思い出を私に話してくれる。
カルオさんの話を聞いていると、父が生きているような気がして嬉しかった。いつもエミリさんと一緒に私と兄の心配をしてくれている。きっと今も……。
『色々聞いてすまなかったな。』
『いえ。私の身元調査でしょうか?』
『ああ、すまない。少しお前の周りを調べることがあるかもしれない。』
『はい。…では、陛下。もうひとつお話ししたいことがあります。』
『なんだ?』
私の雰囲気を感じ取られたようで、陛下も身構えられた。
やはりシリロのことを黙ったまま、陛下とご一緒するわけにはいかない。これはいい機会だ、と自分に言い聞かせる。
今まで胸に閉じ込めていたことを、さらけ出すのには勇気がいる。受け入れてくださるのかどうか。このまま帰れと言われてしまえば、それまで……。
心臓が激しく脈打つ。指先が冷たくて、少し震ている。私は覚悟をした。まっすぐにグレーの瞳を見る。
『私には将来を約束した人がいました。』
『……………その男は?』
『シリロ、といいます。父と母が亡くなった日に、貿易船で同じ嵐に遭いました。行方不明のままです。』
『同じ嵐…か。四年が経つが、ルノエの中にはまだその男がいるのか?』
『はい。』
『そうか………。』
陛下は思案を巡らせるような様子で、少しの間黙っていらっしゃった。
私はまるで死刑宣告でも受けるかのような気持ちで、陛下のお言葉を待つ。怖くて手が震える。じっとりと汗をかいているのがわかる。心臓の音がうるさい。
すると、とても静かな陛下の声が聞えた。
『俺は、生半可な気持ちでお前を攫ったわけではない。ルノエの中では四年前から時間が止まったままなのだろうが、だからと言って俺は引く気はない。』
『……陛下。』
『ルノエ、俺が馬車に乗った時に何故泣いたのか、わかるか?』
『えっと、それは……。』
『その答えを自分の中で見つけてくれ。』
『ですが陛下。私はこんな気持ちのまま、同行してもよろしいのでしょうか。』
『ああ。何も考えずに一緒に来ほしいと言ったのは、俺だ。』
『………。』
後ろばかり振り向いて迷う私を、陛下は何としてでも前を向けと仰っているように聞こえた。前を向いて進め、と。
私は陛下の瞳を見ることができなかった。ただ俯いて、重ねた自分の指先を見つめていた。
すると『それからもうひとつ』と聞こえたので顔を上げる。
『二人きりの時は、ロゥと呼べ。今夜は呼ぶまで寝室には行かさんぞ。』
『え!!!!陛下!?』
『さっそくか。まぁいいだろう。時間はたっぷりある。』
陛下はそう仰って、私の隣に座られて「ロゥ」と呼ぶことを強要された。
なかなか呼べない私の髪に触れ、肩を抱き、指に触れ、最後には私の首筋に顔を埋めようとされて、ついに耐えきれなくなってしまい……
「ロゥ。」
呼んでしまった。
あまりの恥ずかしさに居たたまれなくなって、すぐに寝室に逃げようとしたのに。なのに陛下は私を離してくださらず、腕の中に閉じ込めてしまわれた。しかも眼鏡まで取られてしまって、さらに私はパニックになる。
『まだ髪が濡れているぞ』と言いながら、長い指で私の髪を梳かれる。そんなことをされると寒気がして鳥肌が立ってしまう!
耳元で響く低音の『ルノエ…』。もうだめ!我慢できない!
「陛下!!!」
『耳元で叫ぶな。ロゥ、だろう?』
「呼べたら寝室へ行ってもいいって言われたではありませんか!」
『ああ、そう言ったな。でも今また陛下と言っただろう。もう一度だ。』
「!!!!!」
眠れなかった……。昨日は本当に眠れなかった。
あれから陛下との攻防戦を三度繰り返し、半泣きの状態でようやく解放された。精神的な疲労がすさまじい……。鏡を見ると、目の下には盛大なクマ。それを赤い眼鏡で隠す。
ああ、今日の馬車は憂鬱。なるべく陛下のお傍に行かないようにしなくては。二人きりになるのが恐ろしい……。
『…ルノエ様になにしたんです?』
『なにもしてない。』
『明らかに怯えているではありませんか。』
『そうか?リドの気のせいだろう。』
『ロゥ、しばらく同室禁止だな。』
『…………。』
その日から私は陛下と同室ではなくなった。
リドリスさん、最強!