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28.その名

未だベッドで眠るルノエの顔は白いのに、熱のせいで頬だけが色付いている。


血管が透けている瞼と時折震えるまつ毛、浅い呼吸。見ているだけでも儚げでつい不安に駆られるが、体力が落ちているのだからよく眠るほうがいいのだろう。だがそれでも俺の不安はさらに色濃くなっていくばかりだ。


そろそろ目を覚ますだろうか?そのアイスブルーの瞳で俺を見てくれるだろうか?そのときルノエは俺を拒否するだろうか?もう顔を見たくないと言うだろうか?それとも、港の街へ帰りたいと言うだろうか?


俺はそれになんと応えるだろうか……?


考えても考えても答えは出ず、サイドテーブルに放置されたままのブルーダイヤの指輪が、さらに俺の心をかき乱す。


窓の外は重い色のまま夕暮れを迎え、闇にかわりつつある。暖炉の炎がほどよい灯りとなり寝室を照らしているが、揺らめく炎の影がルノエにまとわりつくような気がして寝室のランプに火を灯す。


ルノエの白く薄い手に触れると、外へ連れ出した時よりも温かくなっていることにほっと息を吐いたとき、微かに指先が動くのを感じた。そして長い睫が震え、ゆっくりとアイスブルーの瞳が……



『……ロ、ゥ…?』


瞬きを繰り返しながら焦点を合わせたアイスブルーが俺を捉える。その瞳には拒否も嫌悪もない。


『ルノエ。』


静かに名を呼ぶと、白く細い両腕が気怠そうに俺に向かってゆっくり伸びてくる。それはあの男に出会ったときにルノエが見せ甘え。俺はそっと屈み込んでその白い腕を首に巻きつけ、そのまま彼女の首筋に顔を埋めた。言葉もないままベッドに横たわる細くなった体を抱きしめると、俺の好きなやさしい香りがする。


『ほんとうに、ロゥ…?』

『ああ、本当だ。』


静かに泣きはじめたルノエの色付く熱い頬に、こめかみに、額に、そして目尻に口づけながら涙を拭う。背中に手を添えてそっと抱き起こし、ブランケットに包むようにしながら俺の膝の間に座らせる。落ち着かせるよう、背中をなでたり髪を梳いたりしていると、どうしようもない愛しさがいつにも増して込み上げてくるのがわかった。


ああ、やはりルノエが好きだ。何者にも代え難い。どうしてこの娘を手離せることができるだろう。ただ抱きしめているだけなのに、これほど熱く焦がれるような想いをしたことなど今までなかった。どうあってもこの娘だけは欲しい。ルノエが欲しい。ルノエだけだ。


熱い想いを胸に秘めたまま、なるべく手に力を込めないよう気を遣いながら、小さな頭をなでる。俺を拒否しないことに安堵しながらも、なぜ会うのを拒んだのかとルノエに問う勇気がない。情けないことだが、決定的な何かを言われるのではないかと怯えている俺がいる。このまま無かったことにしてしまいたいと思う俺がいる。


だが、ルノエはそうではなかった。



『……陛下。私、このまま陛下のお傍にいてはいけないと思っていました。だから……。』


泣きながら告白するルノエの様子に胸が痛む。


あの夜、ルノエのせいではないと言ったのに、俺を刻みつけたというのに。ルノエがこんなふうになるまで己を追い詰めている間、俺はなにをしていた?会ってくれないと愚痴を言い、ヒュイが追い返すと不満を漏らしていただけだ。俺はなんと愚かで情けない男か……。


『私、港の街へ帰ります。』


赤く潤んだアイスブルーの瞳が大量の涙を湛えて俺を見上げる。


今、俺の腕の中にいるのに、こんな至近距離にいるのに、ルノエは己の苦しい心をどこか遠くへ飛ばそうとしている。このベッドの上で己を責めながら、同じ事を何度も繰り返し考えていたのだろう…。痩せて軽くなってしまった身体は、そのことがルノエの心にいかに大きな負荷となっていたかを証明している。


『……それを俺が許すと思うのか?そう簡単にお前を離すと思うのか?最初に言ったのを覚えているだろう、ルノエ?俺は生半可な気持ちでお前を攫ったわけではない。こんなことくらいで離すつもりはないし、逃がすつもりもない。』

『こんなこと、ではありません!私がしたことは陛下を裏切ったも同然です。陛下のお顔に泥を塗ったのです。あんなにたくさんの人の前で。…やはり私には無理なのです。身分不相応なのです。』

『身分不相応か……。そのようなものは関係ないと思っていたが。俺には愛する者と共に未来を歩んでいきたいと願うこと自体が、身分不相応ということか?』

『いいえ、これは私のことであって、陛下のことでは…。』

『同じことだろう。だが俺は身分相応な令嬢達には、まるで興味がない。ルノエにしか興味がない。王である俺がルノエを后にできないならば、王でいる意味などない。』

『陛下!?』


ルノエはまだ俺の名を呼ばない。目覚めたときは『ロゥ』と呼んだのに、意識がはっきりしてからはまだ俺の名を呼んでくれない。そのことにひどく打ちのめされ、自虐と思える言葉しか出てこない。


『お前を娶る資格がある男はどんな男だ?王でなければいいのか?貴族でなければいいのか?わずらわしい身分などない男であればいいのか?それならば…』

『陛下!やめて!そんなの嫌です。そんな簡単に…。どれほどの人が陛下に信頼を寄せていらっしゃることか。どれほどの人が婚約式のお祝いに来てくださったことか。なのにそんなこと、おっしゃらないでください。』

『それを言うならお前も一緒だろう。祝いに駆けつけてくれた者達の気持ちを踏みにじるのか?』

『それは……。私は、自業自得ですから…。』

『…ルノエ、俺がどれほどの想いでお前をここへ攫って来たかわかるか?…やっとだ、やっと見つけたんだ。

父と母が存命だったときでも心の奥底では、俺はひとりだった。このままずっと、年老いてもひとりなのだろうかと諦めかけていた時に、ルノエに出会った。突然潮風が吹き始めて、まるで俺自身が生き返ったような、光が溢れたような気がした。ルノエに出会った途端、俺の生きる意味がわかったような気さえした。お前だけだ。ルノエが俺の傍にいてくれさえすれば、俺は………』


燃えたぎるような激しい想いを表す言葉が見つからず、絶句するもルノエには伝わらない。なんと言えばこの想いは伝わるのか。どうすればこのアイスブルーの瞳はわかってくれるのか…。俺にはもう手段が思いつかない。だから……


『…ルノエ、ルノエ。…ルノエ。ルノ、エ…ルノエ。ルノエ、ルノエ。ルノエ……ルノエ。ルノエ。ルノエ……』


言葉の代わりに何度も何度もルノエの名を呼ぶ。呼んだ次の瞬間には新たな想いが溢れて、またその名を呼ぶ。それを何度も繰り返した。今の俺の想いを伝えるには、『好き』とか『愛してる』という言葉よりも、愛しさの塊でしかない名を呼ぶしか方法がない。


小さな肩、やさしいブラウンの長い髪。薄い背中、小さな耳、細い首。すべてが愛しさの対象だ。俺の想いが伝わればと願う気持ちで名を呼びながら、手に力を込めないようにそれらをそっとなでる。


どうか伝わってくれ。この小さな娘を失うことのないよう…。どうか、このやさしい心が俺に寄り添ってくれるよう…。


神に祈るような想いでいると、涙でくぐもった声が聞えてきた。


『…私、いいのでしょうか?』


両手で顔を覆ったままのルノエが、静かに問いかけたのは俺の傍にいたいと言う願い。心の底から安心した俺は溜息とともに、手に力を込めてしまうことを防ぐことができない。ルノエを大切に抱きしめて、腕の中に閉じ込める。


『ああ、ルノエ傍にいてくれ。俺にはルノエしかいない。』

『…本当に、いいのでしょうか?』

『大丈夫だ。心配することはなにもない。あの時あの場にいた者達は新たなロマンスを見たと噂してるだけだ。』

『ロマンス、ですか?』


街で噂の『ロゥアン陛下の麗しの姫』を、初めてルノエに聞かせる。少し話しが大げさになっているが、事実を基に描かれた物語を語っているうちに、ルノエの耳が赤く染まっていくのが面白くて、かわいらしくて。つい、からかいたくなってしまう。


『ああ、ルノエ。頼むからハッピーエンドで終わらせてくれ。麗しい姫を俺だけのものにさせてくれないか。それに今、この件でハリィが来ている。』

『…ハリク殿下が、ですか?』

『ああ、そうだ。あの日、広場にいた者達に関してはリドが調べた結果、好意的な雰囲気だ。貴族達はハリィがうまく丸め込んだ。問題はなにもない。ルノエ、なにもないんだ。』

『……ハリク殿下がここに?私、殿下にまでご迷惑を?そんな、どうしよう!いったいどうお詫びをしたら!やっぱりいっそのこと…』

『ルノエ!そうじゃない。』


またか…。俺を見上げる不思議そうな、だが赤味を帯びたままのアイスブルーの瞳。


どうもルノエはひとりで考え込む癖がある。これは一生続くのだろうな…と、呆れるような諦めるような想いと一緒に、この癖さえも愛しく感じていることに気付く。


『ルノエ、問題はなにもない。お前が今は心配していることはすべて解決している。それにハリィは別の件も重なって来ているだけだから、気にすることはない。もう大丈夫だ。心配することはなにもない。』

『陛下……。』

『ああ、安心していい。だがルノエが悩んでいるとは知らず悪かった。こんなに不安にさせていたとは…。また俺のせいだな。ルノエ、本当にすまない。悪かった。』

『……ひとりにしないって、言ったのに…。』


拗ねたように甘える声が震えている。それは俺がルノエを部屋に囲っていた時にした約束。もう二度とひとりにはしないと言った約束。それなのに俺はそれさえも忘れてしまっていた。情けないことだ…。


『…本当だな。すまない。もう二度とひとりにしないと約束する。』

『本当に、陛下?』

『ああ今度こそ本当だ。俺も二度とひとりになりたくない。ルノエに会えない間、辛かった。…俺の名を呼んではくれないのか?』

『……ロゥ。』

『ああ、ルノエ。ルノエ。ルノエ。…ルノエ。ルノエ。……ルノエ。』


やっと俺の名を呼んでくれた。そのことが嬉しくて、また何度呼んでも飽きることのない名を呼ぶと、ギュッと力を込めて俺に抱きついてくれる。ああ、やはり諦めなくてよかった。こんなに心満ち足りるのはルノエしかいない。


そして写真立ての前に置き去りにされていた指輪をそっとルノエの指に嵌める。


『ルノエ、できるだけ嵌めておいてほしい。外されているのを見ると俺が落ち着かない。』

『……はい、ごめんなさい。』


美しく輝くブルーダイヤ。だがルノエの瞳のほうがもっと美しい。その瞼に口づけを落としているときに、俺はふと思いついた。


『ああルノエ、このまま抱き上げるぞ。』

『えっ!ロゥ?』


とまどうルノエをブランケットごと抱き上げて、寝室からリビングを抜けてサンルームへ行く。そして俺とルノエの様子に、安心して目を細めるヒュイにカーテンを開けさせた。


『雪!?すごい!!』


窓の外には夜の暗い空から、無数の白い羽のような雪が静かに舞い降りているのが見える。もう夜刻という時間だが、窓からのランプや暖炉の灯りを受けて、雪は幻想的な美しさをルノエに見せた。


『外へ行きたい!雪に触りたい!』


外の寒さが今のルノエには毒でしかないことは充分わかってはいるのだが、久しぶりにアイスブルーの瞳が輝いているのを見ると、俺もヒュイもルノエの願を叶えてやりたかった。


ヒュイがそっと庭へと通じる扉を開ける。風はないが、やはり空気が冷たい。


『……きれい。音が、しない。静か…。』


初めて雪を見るルノエは室内では興奮していたが、庭に出てみると白い雪が音もなく舞い降りてくることに、静かに感動しているようだった。


ふわりと降りてきた雪を小さな手のひらに載せる。


『…つめたい。』


すぐに溶けた雪を残念に思って、また次の雪を手に載せる。それを何度か繰り返していると、ルノエの頭に雪が積もり始めた。


『ルノエ、このままでは遭難するぞ。』

『もう少し見たいです。』

『だめだ。まだ熱も下がっていない。』


名残惜しそうにしていたが、まだルノエの体調にはおおいに不安がある。すぐに温かいリビングの暖炉の前で積もった雪を払い落しながら、今度は雪のように口づけを降らせていく。次第に赤く染まっていく頬、額、こめかみ、目尻、瞼、頬、口元、そしてやわらかな唇。


『ああ、ルノエ。かわいい。…かわいいな。』






赤い葉に包まれた、白く小さな花。


あの日、俺に本当の夏を教えてくれたブーゲンビリアを、ようやく手に入れた。










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