23.別離
「…………シ、リロ……?」
驚きに見開かれたやさしいブルーの瞳が、うずくまる俺を見下ろしている。
ルノエ。ああ、きれいになったな……。
いつだったか、眼鏡を買い替えると言うルノエに付き合って、店へ一緒に行った。普通の眼鏡を買うつもりだった彼女に、いたずらで赤い眼鏡を勧めるとそれが意外に似合っていて…。しかも仕事で初対面の相手に一度で覚えてもらえるようになったと言って喜んでいた。
「シリロのおかげよ。ありがとう。」
そう言ってきみが嬉しそうに笑っていたのを思い出した。少し照れた、かわいい笑顔だった。やさしいブルーの瞳とやさしいブラウンの髪、赤い眼鏡のかわいい人。
でももうあの頃には戻れない。俺はきみの手を取ることはできない。取る資格はない。なのにこんな場所で出会ってしまった。あの港から遠く離れたこの国で。どうしてだろう?どうしてこんなことになってしまったんだろう…?こんなにきれいになって……。しかも国王の婚約者だって?なぜだ?ルノエは俺を想っているはずなのに。俺だけに笑いかけて、今も俺だけを愛してくれているはずなのに……。
頭ではそんなことを考えながらも、俺の目はすっかり大人の女になったルノエに釘づけだ。
「シ、リロ?……シリロ、でしょう?」
〈いいえ、俺はギアン。赤の隊のギアンだ。誰かとお間違えでは?〉
痛む頭を押えながらふらつく足で立ち上がり、わざと島の公用語で答える。
そうだ。俺はギアン。島のギアンだ。俺自身の手で全てを断ち切ってギアンになったんだ。周囲の視線が突き刺さるように痛い。するとルノエは俺に合わせて公用語で話しはじめた。
〈うそ……。だって今、唇がルノエって動いたわ。〉
〈見間違いでは?〉
〈見間違いなんかじゃない!だって髪の色だって瞳の色だって、声だって……〉
〈髪の色、瞳の色なんておんなじ人間はいくらだっている。声なんてよく似ているだけでしょう。俺は、ギアンだ。〉
〈…うそ。私、ずっと待っていたのよ。お父さんもお母さんもあの嵐で行方不明になってしまって……。私、泣きながらシリロをずっと待っていたのよ……。〉
……行方不明?
四年前、確かにあの嵐の前にルノエの両親が船旅に出ると言っていた。まさか両親まであの嵐で亡くなっていたのか?だとしたら、ルノエはあの嵐で両親と俺の三人を一度に失くしたことになる……。
俺は衝撃を受けた。やさしいルノエはどれほど辛い想いをしたのだろう。きっと泣いて泣いて……。知らなかったとはいえ、一層の罪悪感を感じる。
だが待っていたと言うわりには、ルノエは今や国王の婚約者。そのことがよぎると、さっきまでの罪悪感など一瞬で消え去り、かわりに嫉妬心が吹き上がる。頭が痛くて考えることが億劫になってきた。
〈…待っていた、とおっしゃるけど、今のあなた様は国王陛下のご婚約者様では?あなた様のシリロという男への想いはその程度のものでしょう?だったら俺がシリロであるかどうかなんて、どうでもいいことでは?〉
俺のあまりの言いようにルノエはの顔色は真っ白になって、今にも倒れてしまいそうなほど。ルノエの横に立つ赤毛の女が敵意をむき出しにして俺を睨みつけてくる。
その時、黒髪の長身の男が現れた。整ってはいるが鋭さを秘めた顔立ち。その上、圧倒されてしまいそうな威圧感。これが「王」というものか。俺を見て目を細める様子に、腹に力を込めていないと射殺されてしまいそうだ…。
頭が割れるように痛い。汗が止まらない。喉が渇く。手が震える。ああ、ルノエが泣いている。柔らかな頬に涙が伝のが見える。
〈……待っていたのは本当なの。本当に待っていたのよ、ずっと……。でも無事だったならどうして連絡をくれなかったの?私、ずっと待ってたのに。シリロ………っっ!!〉
『シリロ、か!?』
ルノエが俺の名を口にしながら小さな手を伸ばした瞬間、ルノエは国王の腕の中に引き込まれてしまった。
この王は俺のことを知っている!!
『………いえ。俺はギアンといいます。』
『ほう…この国の言葉を話すのか。ギアン、か。赤の隊に属しているのか?』
『…はい。今回初めて入りました。』
『生まれは島か?』
『………いえ。四年前から島に居つきました。』
『四年……。ではギアン、四年より以前はどこにいた?』
四年前の嵐のことも言っている。だがドレインや仲間が見ているからウソはつけない。ここの言葉を少しは理解する仲間もいるからなおさらだ。
『四年前、大きな嵐に遭いました。その嵐で以前の記憶がないままです。そちらの方が仰っているのが四年よりも前のことならば、今の自分にはわかりません。』
『………。』
「うそよ!だってさっき、私を見て驚いてルノエって言ってたのに!」
『ですからそれは見間違いかと思います。自分は…あなた様にお会いした覚えはありません。』
「私よルノエよ。シリロ、忘れてしまったの?私のことを覚えていないの?」
『……自分は所帯持ちです。三歳と一歳の子がいます。』
「え!?」
『三歳ということは、島に居ついてすぐに所帯を持ったということか。…ギアン、本当に以前の記憶がないのだな?』
『はい。』
「……どうして?どうして?私、ずっと待っていたのに!ずっとひとりで待ってたのに!結婚しようって約束したのに!なのにシリロ、どうして!?」
『ルノエ!』
自国の言葉で泣きながら叫ぶルノエを止めたのが国王だった。彼女を抱きしめて、何度もやさしく交わされる口づけ。こんなにたくさんの観衆を気にも留めず、ただただルノエの心を諌めるその姿には、国王のルノエに対する想いだけが溢れていた。
『ルノエ、わかるか?』
『……陛下。』
『ああ、大丈夫だ。』
ルノエが腕を伸ばすと、国王はとても嬉しそうな表情で屈み込み、その腕を自らの首へ巻き付けさせて彼女を抱き上げた。その様子に、国王がルノエをとても大切していることがわかる。周りの観衆から小さな歓声が聞こえた。
『ルノエ。ここからはお前の気持ち次第だ。…赤の隊を入国禁止にするか?それともこの男のみを入国禁止とするか?』
『いいえ!いいえ。誰も。そんなこと望みません。』
『この男を許すのか?』
『……シリロは、やはり四年前の嵐に巻き込まれたのです。今も行方不明のままです。もう、どこにもいない。でも、それでも……』
ルノエは国王に抱き上げられたまま、俺を振り返った。その瞳は泣いて赤いままだったが、ブルーが垣間見える。俺にいつも笑いかけてくれた、やさしいブルー。俺だけを見つめてくれていた、穏やかなブルー。
〈……それでも、ギアンさん、あなたが今幸せなら、それでいいの。それだけでいい。……あはたは、私の知っている人によく似ていただけでした。失礼いたしました。また来年もここへいらしてください。〉
頬に伝う涙を隠すこともなく島の公用語でそれだけ言うと、彼女は国王の肩に顔を埋めてしまった。もう俺を見ることはない。きっと今、ルノエの心は俺以上に荒れ狂っているだろう。だがそれを押し隠して、懸命に心を落ちつけようとしているのがわかる。やっぱりきみはやさしい人だ。
『ウル、ヒュイ。後は任せる。』
むさくるしい男が馬車を連れてきたようで、国王はルノエを抱き上げたまま馬車に乗り込む。そしてそのまま去って行ってしまった。
ルノエ。きみは俺がいなくても幸せなんだね。国王の婚約者という、もう二度と手の届かないところへ行ってしまったのに、それでもきみの心はあの頃とまったく変わっていない。やさしくて、誠実なままだ。だからあんなに国王に愛されているんだろう。俺はきみの心を裏切り、自分から大切なものを手放してしまった。俺は………。
〈それでも、ギアンさん、あなたが今幸せなら、それでいいの。〉
ルノエの言葉が全身を巡って俺を抉る。
『ギアンだっけな?ちょっとつきあってもらおうか。おい!責任者は誰だ?』
赤毛の女とむさくるしい男が目の前に立ちはだかるが、俺は馬車が走り去った方向をずっと見ていた。
ああ………頭が、胸が、張り裂けるように痛い。
………ルノエ。