12.甘い腕
ここはロゥアン陛下の国。私が王宮に来て二ヶ月が経った。
季節は夏から徐々に秋へと移行している。あの港の街はまだまだ暑いはずなのに、この国にはもう秋が来はじめている。樹木はまだ緑だけれど、朝晩の寒暖差が大きくなっていて空が高く、風が冷気をはらんでいる。
こんなに気候が違うなんて……。改めて港の街と、この国が離れた土地なのだと感じていた。
滞在させていただいている王宮は石造りの堅牢な印象だった。雪対策なのか、小さな窓がたくさん並ぶ。様式美優先の私の国と違い質実剛健という言葉が浮かぶほど、機能性を重視しているようだった。それでも庭は丁寧に手入れされ、室内は美しく整えられていた。
私の部屋は立派な客間。クリーム色を基調として、差し色にミントグリーンが入っている。ミントグリーンのソファやカーテン、クロス。艶のある木目の家具は優しいアンバー。床も同じ色で、美しく磨かれている。
そして女性をかたどった置物。彫刻で美しく縁取られた姿見。髪を梳くブラシでさえ、高級な品だと私にでもわかる。その上、リビング、サンルーム、寝室、バスルーム、パウダールーム、クローゼット。こんな豪華な部屋を使うなんて恐れ多くて最初は辞退したのだけれど、リドリスさんは受け付けてくださらなかった。
「ルノエ様は今日から通訳ではございません。」
「え?なぜですか?」
「ここは我が国です。もう陛下に通訳の必要はございません。」
「………確かに。」
「と、いうことで今日からルノエ様は国賓となられます。ハリク殿下からもよろしくとのお言葉もございましたので。ヒュイアはルノエ様専属の侍女ですから、なんでもお申し付けください。」
自分でなんでもできるから、と侍女も辞退したのだけれどやはり最強リドリスさんは受け付けてくださらない。けれど右も左もわからない王宮で行動するには、誰かの手を必要としなければならないことを、すぐに身を持って知った。
今ではヒュイアさんは、頼りになる女神様だ。燃えるようなガーネットの髪とヘイゼルの瞳。白い肌とすらりとした肢体のヒュイアさんは、かなり陛下に厳しい。女性版リドリスさんといったところ。思わずこちらがヒヤヒヤしてしまうほど、はっきりと陛下に進言される姿には逞しさを感じてしまう。
『陛下!ルノエ様に近づきすぎです!』
『だめです!いいかげんになさってください!』
『陛下、もうそろそろ退室をお願いします。』
陛下に『いいかげんに』とか『帰れ』って言えるなんて……。
でも陛下はそれをうるさそうにされるけれど、ちゃんと聞き入れていらっしゃる。ロゥアン陛下とリドリスさんとヒュイアさんの間には、特別な信頼関係があるみたい。
そしてここに来てすぐに陛下とリドリスさんと話し合って、王宮内の倉庫を改修工事をすることにしてもらった。塩用の倉庫と柑橘類用の倉庫。それぞれの保存に似合ったような工事を提案して、その通りに進めてもらっていた。改修工事もほとんど終わり、あとは乾燥剤や小物を準備してもらう予定。
また今日もヒュイアさんと一緒にロゥアン陛下の執務室に行くと、そこには陛下と宰相様とリドリスさんがいらっしゃった。
『ああ、ルノエ。来たか。』
『これはルノエ様、ご機嫌麗しく。』
『ルノエ様、ちょうどよかったです。』
執務を停めて立ち上がる、陛下。その前を阻む、宰相様。さらにその前に立ちはだかる、リドリスさん。
どこからどのように挨拶をしてよいかわからず、固まる私の後ろから女神様のひと言。
『ごきげんよう、皆さま。』
ヒュイアさんはそう言って、私の背を押して執務室の奥にある協議の間へ進んだ。恨めしそうな様子の陛下と宰相様…。
宰相様はリドリスさんのお父様で、同じアッシュブロンドと榛色の瞳。カルオさんと同年代で口ひげを上品に蓄えていらっしゃって、いつも柔和な笑みを私にでさえ向けてくださる。高位の貴族の方はもっと横柄な方なのかと思っていたけれど、宰相様はまったく違っていた。私のような者にも丁寧に接してくださる、やさしい方。
「ルノエ様、今ちょうど試作品ができあがったところです。」
協議の間に一緒に入ろうとされる陛下と宰相様を、リドリスさんが無理やり押し出してから持ってきてくださったのは、木箱。柑橘類を保管する倉庫で使う箱。
柑橘類は圧力に弱い。なので木箱に一定量を入れて、保管することにした。ある程度保管すれば、酸味が抜けて甘味が増す。風通し良く、陽が当たらないということにも配慮してもらった。
「いいですね。頑丈そうだし。持ちやすいし。」
「もう少し大きくてもいいような気がしますが、ルノエ様はどうお思いですか?」
「う~ん、男性が持ち運んでどう思われるか、でしょうね。」
「なるほど。では荷運びの者の意見を聞きましょう。」
「あと、積み重ねることができればいいのですが。」
「積み重ねる……。そうですね。そのほうが置き場に困らない。」
「ひと箱に入れる量を決めて、ある程度品質を選定して入れることが理想なんですが、手間がかかります。」
「確かに。でもそのひと手間で、搬出するときが楽でしょうね。」
「はい、その通りです。木箱に種類と品質を明記しておいて、置く場所を決めておいたら、後が楽なんです。」
「では搬入の段階で人手を確保しておきましょう。あとは、選定の基準を決めておかないといけませんね。」
「柑橘類は皮の状態と重さを見れば、ある程度の水分量と甘みがわかりますが、最初は難しいと思いますので、大きさで選定するのが一番ではないかと……。」
リドリスさんは今も私の国の言葉で話してくださる。なかなか自国の言葉を話す機会がないので、リドリスさんとの会話は私には楽しい時間になっていた。
その後一通りのことを話し合って、明日また木箱の試作品を作ることになった。客間に戻って、あとは塩の乾燥剤と柑橘の種類と大きさと……と考えていると、ロゥアン陛下がおいでになられた。
『ルノエ、端が落ち着くのは知っているが、なぜひとり掛けだけを窓辺に置くのだ?これでは俺が座れない。』
『あちらの二人掛けのソファが空いていますが?』
この客間は私には広過ぎる。なにをしていても、部屋の真ん中にぽつんとひとりでいるようで、最初は落ち着かなかった。だからひとり掛けのソファとテーブルを窓辺の隅に置いてもらった。隅に寄り添うと安心する私を、陛下は最初は笑ってらっしゃったけれど……。
私が視線で促す先には、部屋の中央に置かれたままの二人掛けのソファ。
「………俺にひとりであそこに座れと言うのか?」
「えっと…」
「まったくお前は。」
「わっ!!陛下!!」
ロゥアン陛下が私の部屋に来られるたびにこの会話になり、抱き上げられて中央の二人掛けソファに運ばれてしまう。しかもその後は例のごとく「ロゥと呼べ」と強要される。でも恐ろしいことに、最近は二回に一回は呼べるようになってきた。本当は恥ずかしいから嫌なんだけれど。
『塩が山を迂回する道を入った。早ければ、二週間後には着くぞ。』
『え!本当ですか?』
『ああ、今、リドの元に正確な情報が入っている。』
『ありがとうございます!』
そのまま部屋を飛び出してリドリスさんの元へ向かおうとしたのに。
『………どこへ行く気だ?』
『えっと、リドリスさんの所に……は、後で行きます。』
明らかに不機嫌になる陛下の顔を見ると、つい笑ってしまう。本当に子供のような方だ。
国王として立たれる時は、威厳と自信に満ち溢れ、迂闊にお傍には行けないような気がするのに。ここではいつも子供のように不貞腐れたり、我儘をおっしゃる。そしてこれまた恐ろしいことに、そういう姿を私に見せてくださることを嬉しく感じていたりする。
『ほぅ、ルノエ。俺の前で他の男の名を呼ぶのか?』
『え?だって、リドリスさんですし…』
怪しいグレーの瞳が私を覗き込む。危険を感じて思わず視線をを逸らすと、眼鏡を取られてしまった。
『あ!陛下!』
『俺のことは陛下、で、あいつのことは名で呼ぶのか?』
『えっと………』
ここで「ロゥ」と呼ぶべきなのはわかっているんだけれど、けれど……と考えているうちに陛下がどんどん近づいて来て。
『陛下!近いです!』
『だから、叫ぶな。どうすればいいか、お前は知っているだろう?』
どうすればいいか?それは「ロゥ」と呼べばいいだけのはず。なのに……
…ルノエ、俺が馬車に乗った時に何故泣いたのか、わかるか?その答えを自分の中で見つけてくれ…
あの答えは既に私の胸の中にある。レガッタの祝勝会の夜、バスルームで泣いた時にはもう見つけていた。多分私は最初から陛下のことが好きだったのだと思う。
端正なお顔立ちや、高い背丈と均整のとれた体。多分、そんな陛下の外見は私の中では二の次三の次。私が好きなのは、グレーの瞳が子供っぽく光るところ。いつもまっすぐに想いを贈ってくださるところ。そしていつも私を見守りつつ、そっと助けてくださるところ。今ではもっと、数えきれないくらい好きなところがある。
でもまだ陛下は私の気持ちをご存じない。この気持ちを伝えた先のことを、考えてしまうから。庶民の私では陛下のお傍へ行くことはできない。今こうして二人でいられることでさえ、奇跡のようなこと。
シリロの影の無いこの国へ来てから、彼のことを思い出す機会が少なくなったように、あの街へ帰ればロゥアン陛下のことを思い出さなくなるだろうか……。恐らくその答えは、否。シリロとは違う次元で陛下を好きになっているのが自分でもわかるから。
塩と柑橘類がこの国に届いたら、あの港の街へ帰ろう。そして陛下がいつか美しいお后様をお迎えになられることを、私はあの街で人から伝え聞くんだ。
ロゥアン陛下が好き。
でもこの想いを陛下にお伝えすることはない。
「ロゥ……」
甘い腕に捉われたまま、想いを込めてつぶやいた。