11.浸透
『貧血を起こしている。丁重に扱え。』
ロゥアン陛下の声が頭に響いて、歩かれている振動が体に伝わる。
…陛下に抱き上げられているんだ。
離れた場所から女性の声が聞こえるけれど、なにを言っているのか聞えない。陛下の胸に預けたままの頭を起こさないといけないのに、体が重くて動かないし瞼を開けることもできない。
ベッドのようなところにそっと寝かされて、靴や帽子やコートも脱がされ、またそっと抱き上げられた。
『……へい…か…』
『ああ、ルノエ。気がついたか?』
微かに頷くとまたベッドのような場所に寝かされた。髪も解かれたようで、陛下が優しく指で梳いてくださる。
『今はゆっくり休め。後はヒュイに任せるが、また来る。……無理をさせたな。』
陛下の優しい声と、額に感じた柔らかな熱に安心して体の力が抜ける。
その後、繊細な女性の手が私にやさしく声を掛けながら、衣服を少しずつ寛げて脱がせてくださった。すると体が解放されたように軽くなって、私はいつの間にか眠りに落ちていた。
ぐっすり眠って起き上がると、夕刻。かなり眠っていたみたいだ。あ、眼鏡がない。
ベッドから床に降り立つと、ふかふかの淡いグリーンの絨毯。そしてグリーンとクリーム色で統一された森のような部屋。飴色の小さなドレッサーとスツールが置いてある。
枕元のナイトテーブルに置かれた水差しから、コップ一杯の水を飲んだ。おいしい水が体に沁み渡って、ほっと息を吐つく。思っていたよりも喉が乾いていたらしい。
窓の外を見ると空はオレンジに染まり、遠く切立つ山が見えた。本当にすごい景色。
私、本当にロゥアン陛下の国に来たんだ…。
これは仕事だから…という気持ちは、建前。では本音は?
本音は私の心の中にある。あの時、泣いた理由も。
ただ私は、まだ目を逸らせていたいんだ。まだシリロに心が残っている……という言い訳をして、私の陛下への気持ちから目を逸らせていたいだけ。ただ、自分の気持ちを認めるのが怖いだけ。
ただ、それだけなんだ……。
ため息をひとつつく。窓辺から離れて近くの扉を開けてみると、バスルームだった。反対側にあるもうひとつの扉を開けてみると……
『ああルノエ、起きたか。』
『……陛下?』
ロゥアン陛下がソファーに座っていらした。
ここはリビングのようで、こちらも森の部屋。寝室よりは明るいグリーンの絨毯と濃いグリーンのソファの応接セット。壁はクリーム色で、重厚感のある飴色のローボードの上には黄色い花が飾ってある。
扉を開けたまま室内を見まわしていると、いつの間にか陛下がこちらにいらっしゃっていた。
『まったくお前は。こんな格好で出てくるとは…。』
……こんな格好?
自分の足元を見ると、裸足。しかも衣服はほとんど脱がされていて、着ていたのは薄い下着だった。
「わーーーー!!!すみません!!」
『ルノエ!』
あまりの恥ずかしさに扉を閉めようとしたのに、陛下によって阻止されると同時に、いきなり何かに包まれた。陛下が羽織っていらしたカーディガンだった。ブルーグレーの薄いカーディガン。そしてそのまま抱き上げられてしまう。
『陛下!?』
『耳元で叫ぶな。ロゥ、だ。』
ソファに降ろされたけれど、隠せない膝が気になって仕方ない。手で隠していると、陛下は笑いながら傍にあったブランケットを膝に掛けてくださった。
『……ありがとうございます。』
『もう大丈夫なのか?』
隣から私を覗き込んで、顔色を確認したり、額に大きな手を当てようとされたり……。
端正な顔立ち。艶のある黒髪。そんな心配そうなグレーの瞳で覗き込まれたら、熱もないのに顔が火照ってしまう。
どうしよう…。寝起きで鏡もロクに見ていないのに、距離が近すぎる。
『陛下。あの…少し近くありませんか?』
『ああ、そうだな。眼鏡もないことだし、近いほうがいいだろう?』
『あ!眼鏡!私の眼鏡はどこですか?陛下、ご存じですか?』
『ああ知っている。だが今はまだいらないな。』
『いいえ、必要です!緊急に必要なんです!』
『耳元で叫ぶな。それにロゥ、だ。』
『でも陛下!』
『……またお前は。何度言えばわかるんだ?その口を塞ぐぞ。』
『リドリっ!!……』
『呼ぶな!』
陛下の大きな手が私の口を塞いだその瞬間、部屋へ入って来たのは美しい赤。ガーネットを思わせる豪華な赤毛の女性。その立ち姿はまるで女神様と思えるくらい堂々とされていた。
眼鏡のない私が見えるのはその程度。けれど女神様のオーラは怒りに満ちていた。明らかに怒っていらっしゃる。その怒りの矛先はきっと私だ!と思ったけれど…
『陛下!何をなさっているのですか!』
『…もう来たのか。』
『はい、リドリス様から言われておりますから。ルノエ様から離れてください!』
『またリドか……。ヒュイもリドの仲間か。』
『もちろんです。』
『まったく、どいつもこいつも……。』
陛下が離れて座ってくださったので、ほっとした。
最強リドリスさんにはたくさんの手下がいるみたい。もしかしたらこの国を治めているのはリドリスさんかも…とさえ思えてきた。
ちらっと隣を見ると陛下は大きなお体で、不貞腐れた子供のようにソファに沈み込んで座ってらっしゃる。
………かわいい。
リドリスさんの手下の女神様は今度は私の前に跪いて、目線を合わせてくださった。
ガーネット色の豪華な髪を纏めたヘイゼルの瞳の美しい女神様。女の私でも見惚れてしまうほど…。女神様はさっきとは打って変わって、おやさしい表情で私にあいさつしてくださった。
『ルノエ様。私、護衛をしておりましたウルファンの妻、ヒュイアです。これからルノエ様に仕えさせていただく者です。』
『あ、ウルファンさんの…。ルノエ・アグレイです。あの、仕えるとはどういうことでしょう?』
『はい、ロゥアン陛下よりルノエ様のお身の回りの任を申し遣っております。』
『え…。あの、陛下。私、自分のことはできます。ありがたいお申し出ですが、仕えていただくなんてそんなこと…。』
『ああ、ルノエがなんでもできることは知っている。だが先のことを考えて、だ。』
『先のこと、ですか?』
塩と柑橘類のこと?そのことで私のお世話をしてくださる方がいたほうがいいの?よくわからないけれど、王宮という場所はそういうものなのだろうか?……そうなのかもしれない。
納得できないまま、納得する。
そしてヒュイアさんが私の貧血を心配して、ソファに座ったまま摂れる食事を用意してくださった。陛下と一緒にいただく。
眼鏡がないので、顔が自然にお皿へと寄っていってしまう私を、陛下は『ルノエ、皿に顔がひっつくぞ。』と笑いながら、ようやく眼鏡を返してくださった。これでやっと見える。
食事のあとは入浴。これもヒュイアさんが用意してくださって、気持ちよくお湯を使えた。
『ルノエ様、こちらにお座りください。』
そう言われたのが飴色のドレッサーの前。大人しくスツールに座ると、ヒュイアさんが私の髪をやさしく拭いてオイルを馴染ませてくださった。甘くやさしい香りのオイルに心が和む。
『いい香りですね。』
『バラのオイルです。ルノエ様は甘い香りとすっきりとした香りは、どちらがお好きでしょうか?』
『え…っと、まだよくわかりません。』
『では明日はすっきりとした香りを使ってみましょう。そのうちお好みの香りが出てくると思います。』
そう言ってヒュイアさんは私の髪を丁寧に乾かしてくださる。
『あのヒュイアさん。私、自分でできますから。』
『あら。ルノエ様は私の仕事を取ると仰るのですか?』
『え!いえ、そういうつもりでは!』
『でしたら、私のしたいようにさせてくださいませ。リドリス様からも、陛下からルノエ様をお守りするように言われておりますので。』
そう言われて、さっきの光景が蘇って笑ってしまった。
『……確かに、さっきは素晴らしかったです。』
『ふふ、そうでしょう?』
ヒュイアさんは途端に女神さまの如き様子で笑っていらっしゃる。それはそれは楽しそうに。
『陛下のことは、ルノエ様のお気持ち次第で私をお呼びください。お嫌な時はいつでも蹴散らして差し上げます。』
思ってもいない味方の出現に、とても心強くて嬉しくて…。頼もしい女神様に髪を乾かしていただきながら、少しの間楽しく話しをした。
リビングに戻るとロゥアン陛下が待っていてくださった。今度は部屋着の上にカーディガンを羽織っている。うん、大丈夫。
『陛下、さきほどはありがとうございました。』
借りていたカーディガンをお返しする。きちんと洗濯したほうがよかったかな。
『ああ。ルノエの匂いがするな。』
「!!!やっぱり洗ってお返しします!!」
『いや、これでいい。』
陛下はさっさと着込んでしまわれた。そして立ったままの私の顔をちらっと見て、楽しそうに笑われる。
『フフ、どうした?ルノエ、顔が赤いが熱でも出たか?』
『………いいえ、あまり見ないでください。』
『ああなるほど、すっぴんか。』
『もう!!陛下!!』
つい近くにあったクッションを陛下に投げてしまった。ルイ兄さんにしたように、シリロにもしたように。でもこの方は国王陛下だった!と思った瞬間、陛下の笑い声が聞こえた。
『はははははっ、悪かった。』
胸がドキリとした。
子供のように笑う陛下はいつもとはまったく違う方だった。心から嬉しそうに楽しそうに、グレーの瞳が光に満ちている。
この方は本当はこんな方なんだ。人をからかうような、子供のような一面を持った方なんだ。
初めて見るロゥアン陛下の一面に、誰も知らない秘密を打ち明けられたような気がして胸が高鳴る。
シリロの時はこんな気持ちになったことはなかったのに。いつも穏やかな彼を、私は穏やかな気持ちで見ていた。こんな風に胸が高鳴ることはなかった……。
立ち尽くしたままの私の手を陛下が引っ張ると、あっけなく腕の中に入ってしまう。
『ルノエ、ルノエ、ルノエ…。頼むからロゥと呼べ……。』
何度も名前を呼ばれ、懇願のような切ない響きで言われて拒否できない。
『……ロゥ。』
『もう一度。』
『ロゥ。』
『もう一度。』
『ロゥ……』
抗い難い呪文のように繰り返すと、水のように陛下が私の心の中へ沁み込んでいく。それはもう容易に取り出すことができなくらい、心の奥深くへと流れて、心の奥底へと陛下の存在が浸透しいく。
それは私にとって、陛下が必要不可欠な存在になってしまうということ。そして今は、それを不思議なくらい素直に受け入れる私がいた。
まるでこうなることが当たり前であるかのように、自然に陛下を心の奥底に受け入れる。
……怖くない。
その中にシリロの影が見えたような気がしたけれど、私は敢えて目を閉じた。
『ロゥ…』
唇にやさしい熱がそっと触れる………