10.山越え
今日は騎馬で山を越える。馬車は迂回路を行くので、山越えよりも二週間遅れるらしい。
……私はそれでもよかったのに。
まだ夜明け前。でもすでに別荘内は人の気配を感じる。私も早く準備をしなくては。
買っていただいた衣装の中に、コートや手袋があったのは今日のためだったんだ。なるほどね、と納得をしながら盛大に着込む。これを着てあれも着てそれも着て……。
ちょうど完成したころに、私の様子をリドリスさんが見にいらしてくださった。モコモコになって関節が曲がらない。歩き方がギクシャクする。心なしか息苦しい。
「リドリスさん、このくらい着ていれば大丈夫ですよね?」
「……ルノエ様、苦しくありませんか?」
「息ができません。」
「でしたら、もう少し軽くされたほうがよろしいかと…。」
リドリスさんの顔は笑いで歪んでいた。薄い物を重ね着するほうが温かいと教えていただいて、もう一度全部着なおした。うん、今度は苦しくない。
そして外へ。
「寒いっ!」
まだ夏のはずなのに息が白いし、眼鏡も曇る。もうすぐ太陽が昇る頃だから空が明るくなりつつあるけれど、こんなに寒いなんて…。
すでに出発の準備は整っているようで、大きな荷物は馬車へ。手荷物は馬に括り付ける。私の荷物はリドリスさんに預かっていただいた。ほとんどのお付きの方は馬車で迂回路を取り、護衛の方は半分に別れると聞いた。
それにしても寒い。グレーのコートを着て防寒用の帽子と手袋をしても、指先から足先から冷えていく。
『ルノエ。』
ロゥアン陛下の声に振り向くと、陛下は案外着込んでいらっしゃらなかった。そう言えば、他の方も昨日の昼間と大して変わらない服装に、外套を着ている程度。
『フフフ、ひっくり返りそうだが?』
私の着込みっぷりが楽しいようで、笑っていらっしゃる。そういえばさっきのリドリスさんも顔が歪んでいた。さすがに北の国の方々は鍛え方が違う。
『陛下は寒くないのですか?』
『ああ、まだ夏だからな。ルノエは寒いのだろう?』
『はい。夏なのに息が白いです。寒いです。』
陛下はまだ楽しそうに私を見て笑ってらっしゃる。すると目の前に青毛の大きな馬が引かれて来た。見上げるように大きくて、足が太く立派な馬。
『ルノエ、口があいてるぞ。』
上から覗き込むようにからかわれた後、陛下はその大きな馬にひらりと軽やかに乗られて、馬上から私に手を差し伸べてくださった。
……私も乗るんだ。
見上げるような馬上から差しのべられた大きな手に、ドキリとした。
「ルノエ様、ここに足を置いてください。」
いつの間にかリドリスさんが傍に来て、手伝ってくださる。そっちの手じゃないとか、そっちの足じゃないとか、こっちを向くようにとか、こう座れとか、色々言われて半ばパニック状態でようやく陛下に引き上げてもらったら……
高い!それに、近い!!
見上げるほどの大きな馬の上は、高い!しかもロゥアン陛下との距離が、近い!まるで陛下の腕の中…。軽くパニックになっていると、ロゥアン陛下に強い力で抱き寄せられた。
『…陛、下?』
『ああ、落ちるぞ。もっとこっちへ寄れ。』
『えっと……。』
『ルノエ、眼鏡を取れ。眼鏡が落ちても拾うことはできないからな。』
『あ、はい。』
眼鏡をどこへ入れようかと考える間もなく、陛下が私の眼鏡を取られて胸の内ポケットに入れてくださった。でも眼鏡がないと周りが見えない。人はわかるけれど、顔はわからない。
『ルノエ、見えるのか?』
『!!!…はい。』
陛下の声に見上げると、予想以上に近いグレーの瞳に驚いてしまった。
それから馬が驚くから叫ぶなとか、急に動くなとか、気分が悪くなったらすぐに言えとか、ここを持ってつかまれとか、まるで子供にするような注意を受ける。気が付けば陛下の外套の中に入り込んで陛下の腰に抱きつくという、なんとも恥ずかしく信じられないことになっていた。
眼鏡を取れと言われたのは、この体勢のためなんだと理解できた。けれど、私から陛下に抱きついているような気が……。いや、今は究極の状況なのだから、敢えて考えないことにしよう。
隊が動き出す。太陽はまだ登らないけれど、私以外の方には、地面がはっきり見えるらしい。
馬の振動がすごい。こんなに揺れるとは思わなかった。でも陛下が私の背中側から腰に腕を回して支えてくださるのが、助かります。着込んでいるので、恥ずかしさがないのも、助かります。
『絶対に落としたりしない。ま、落ちても拾うことができないからな。』
と言って笑っていらっしゃる。……眼鏡と一緒ですか。
太陽が昇っても、寒い。手袋をはめていても、指がかじかんで感覚がなくなる。もはや寒いのではなく、痛いような気がしてきた。吐く息が邪魔に感じる。空気が冷たくて呼吸が難しい。
周りの景色は……見えないけれど、見たくない。眼鏡がなくてよかった。断崖絶壁の細い岩場の道を、一列になって登っている。眼鏡を拾えないという意味がわかった。不用意に隊列を停めることも危険な状態。
時々陛下が私の肩や頭を撫でてくださり、声をかけてくださる。手袋越しであっても大きな手が私を気遣って、やさしく触れてくれるのは嬉しい。けれどもこれがいつまで続くのか…と、気が遠くなりかけていた頃、焦った陛下の声が聞えた。
『ルノエ、ルノエ?大丈夫か?』
私はいつの間にか、頭まで陛下の胸に預けてしまっていた。気づいて起こそうとすると陛下に押しとどめられ、少し上を向かされるけれど、なぜか目を開けることができない。
『貧血だな…。ルノエ、口を開けろ。』
寒さで固まっていた口をどうにか開けようとするけれど、うまくいかない。吐く息が邪魔で、呼吸もうまくいかない。今はまだ夏なのにこんな寒さは初めてで、こんな自分の体も初めてで、どうすればいいのかわからなくて、口さえもうまく開けられない自分に失望する。
『ああ、泣くな。』
すると唇になにかが触れ、温かいなにかが唇をこじ開けて入ってきた。口づけだとわかった時には強く抱きしめられいて、動けなかった。そのまま口の中に甘くて小さな飴が入り込む。蜂蜜だ。やさしい甘味が口の中に広がる。
『もう少しだ。大丈夫だから体を預けろ。もっと俺を頼れ。』
滲んだ涙を拭われながら、聞こえてきた低音に素直に従う。体の力を抜いて、かじかんだ手からベルトを離し、全てを陛下に預けた。
『ああ、それでいい。』
『へ、い………』
『ロゥだ。』
『……ロゥ。』
馬の揺れと陛下の腕を感じながら、頭まで陛下の胸に預ける。すると瞼に口づけを落とされた。不思議と心地いい。守られていると思えた。
この方は私の弱い部分を助けてくださる方だ。私が頑張っている時は後ろで見守ってくださり、私が迷う時は救いの手を差し伸べてくださる方だと思えた。この方にすべてを預けても大丈夫なのだと思えた。そこには今まで感じたことのない、心地よい安心感がある。大丈夫だと思った。
どのくらい時間が経ったのか、馬が下りを歩いていることに気づいた。それに寒さが和らいできた気がする。それでも夏なのに寒いけれど。
陛下の胸に寄りかかったまま眼を開けようとすると、今度は簡単に眼が開いた。そしてそこに見えたのは、さっきとはまるで違う景色。草原の花畑。風にゆれる草と小さな花。
…きれい。ここはどこだろう?
『ルノエ?気づいたか?』
『…陛、下。』
『ロゥだ。』
『……ロゥ。ここは?どこですか?きれい…。』
『我が国だ。ここをルノエに見せたかった。……眼鏡がなくても見えるのか?』
『はい、なんとか。』
見えるのは青い空と白い雲と、風に揺れる草と一面に咲く黄色い花。ただそれだけ。ただそれだけの世界が、こんなに美しいなんて……。私はその景色に心を奪われていた。どこまでも続く景色に見とれていた。
「本当にきれい……。」
『美しいだろう?』
『……はい。』
『この景色を見ることができるのは、今の時期だけだ。』
『こんな世界があるなんて……』
ほけ~っと景色に見入っていると『念のためだ』と言われ、また蜂蜜の飴をいただくことになった。艶やかな黒髪が私の上に影を落とし、いたずらを思いついたグレーの瞳が私を覗き込む。
『さっきと同じ方法がいいか?』
『え?…………!!!』
思い出した!そうだった!さっき、私、陛下と!!
「いいえ!やっ………」
『………叫ぶなと言っただろう。』
陛下に、唇を塞がれてしまった。柔らかな感触が唇に残る。顏から火が出るほど恥ずかしい…。
俯いていると、今度は蜂蜜の飴を私の唇に押し付けてくださったので、素直にいただく。やさしい甘味とともに、私の胸にも甘い気持ちが広がった。
しばらくするとようやく休憩になった。
この場所は険しい山道を越え、下ってきたところらしい。陽射しは降り注ぐけれど、風が涼しくて暑さを感じない。
これを夏だというのなら、あの港の街の夏は一体なんだったのだろうか、と思える。空気も風さえもまるで熱気をまとっていない。この地の夏は私にとっては秋のような感覚だった。
コートや帽子や手袋を脱いでから、簡単な軽食をいただく。その間、陛下がまるで私の保護者のようにお世話してくださる。『これも食べろ』『温かいうちに飲め』『ああ、こぼれるぞ』
……みなさんの視線が痛い。
それでもあまりたくさん食べることができなかった私を、陛下は心配してくださった。
そして再び出発。今日の宿泊先はもう少し下った場所にあるそうだ。
今度はさっきの草原とは違う景色が広がる。なだらかな丘に突然切り立つような断崖絶壁の高い山。そして丘に点在する可愛らしい家々。その景色に違和感を覚える。
なんだか不思議な光景…。なぜこんなに不思議に感じるんだろう……と考えて答えが出た。木が少ない。森がない。草原や花はあるけれど、木が圧倒的に少ないんだ。
『陛下、なぜ森がないのですか?』
『ああ、ここは標高が高い、高地だからな。木が育たないんだ。まったく育たないわけではないが、育ちにくいんだ。』
『高地、だからですか…。』
理解不可能な現象を目の当たりにして、納得できるようなできないような……。でもきれいだからいいか。ぼんやりそんなことを考えていると、いきなり耳元に低音が響いた。
『ルノエ。ロウ、だ。』
「…………。」
さっきはボーっとしてて呼んでしまったけれど、もう二度とない。絶対ないから!
『呼ばないのか?……ああ、なるほど。飴がほしいのか?』
「!!!!」
助けて!リドリスさん!!!