01.港の街
「ルノエ、いよいよだ。よろしく頼むよ。」
「はい、カルオさん。…かなり緊張しますけど。」
「ははは、そうだね。まぁハリク殿下も気さくな方だから、何かあれば助けてくださるよ。大丈夫。」
「はい。」
「隣国のロゥアン陛下はハリク殿下とは親しい仲だ。本来なら通訳は必要ないほどなんだけれどね。一応国賓として招いてらっしゃるから、形だけでも通訳がいるんだ。」
「はい。わかってはいるのですが、やっぱり…。」
「そうだね、緊張するね。」
「……はい。」
今日はいよいよ隣国からお招きしている、ロゥアン国王陛下がこの街においでになられる。
陛下と我が国の第一王子ハリク殿下は、お互いの国に留学されていたことがあり、ご学友でいらっしゃるとか。だから今回、この街をご一緒に視察される。
この街は海に面していて、港からは毎日多くの商船や客船が着き、とても活気に溢れている。
国内外からの観光客。そして貿易を目的とした船乗りと商人。市場は朝早くから活気に溢れ、お昼には至る所にあるカフェがランチで賑わう。そして夜遅くなっても人気の途絶えない酒場。それから海を見下ろす丘には別荘が立ち並び、身分ある方々が夏の海を求め、冬は温暖な気候を求めておいでになる。
今は夏。多くの観光客が照りつける日差しを避けて日陰でジェラートを食べ、子供達は海へ向かう。
この街は、そんな街。
私は二十五歳になったばかり。カルオさんの会社、ランジェ商会で商船からの荷を受け取る手配や、送る手配。それに伴う通訳をしている。私が話せるのは、自国の言葉と、隣国であるロゥアン陛下の国の言葉。そして島々の公用語。これだけ話すことができれば、どうにかなる。
そして家族は五つはなれた兄がひとり。両親はいない。二人で出かけた船旅で事故に遭った。
つい四年前の出来事。
ルイ兄さんは結婚して隣の街で貿易の仕事をしている。やさしい義姉イリサも、まだ小さな子供達カラとリラも一緒。私はひと月に一度の割合で、お呼ばれに隣町へ行っている。カラとリラと一緒に遊び、イリサとお喋りをし、ついでに兄とも話す。いつ行っても楽しい。
それからランジェ商会の社長、カルオ・ランジェさんは亡くなった父の上司でもあり、友人。
私には気のいい、心配性の叔父さんといった感じ。奥さんのエミリさんもすごく心配性でやさしい方。お二人とも、いつも私に気を遣ってくださる。だから私は寂しくない。大丈夫。
そして両親を亡くした嵐で、私は大切な人をもうひとり失った。それは将来を約束した人、シリロ。
彼はランジェ商会の船乗りだった。優しくて、人が良すぎて、いつも誰かに使われてしまうような人。なのにいつも笑っていて……。私は損得で人を見ることのない、シリロの広い心に惹かれた。なにがあっても「いいんだよ」と言う、彼の口癖が好きだった。やさしいグリーンの瞳ですべてを許してしまう彼が好きだった。
なのに貿易船に乗ったシリロは、嵐に巻き込まれてしまった。父と母を奪った、同じ嵐で。父も母もシリロも、今も行方不明のままだった。
今日から私はロゥアン陛下がこの街に滞在される間、通訳を任される。でも陛下はこの国の言葉を理解されている。だから私の通訳は公式の場のみ。一応、我が国としての建前なんだとか。
通訳の必要ない方に通訳するのって、複雑。失敗して笑われるくらいならいいけど、外交問題にまで発展してしまったら………。つい悪い方向へ考えが及んでしまいそうになる。
「大丈夫よ、ルノエ。落ち着いて。……きっと、どうにかなるわ。」
会社から出る前の更衣室で、鏡の中の自分に言い聞かせるけれど、あまりにも説得力のない言葉。でもこれで精いっぱい。鏡の中の薄いブラウンの髪をバレッタで纏めた、赤い眼鏡をかけた女が頷く。
緊張から顔が強張って笑おうとしても気味が悪いだけ。だって薄いブルーの瞳が笑っていないから。自信のない、嫌な顔。
カルオさんに連れられて来た庁舎前は、たくさんのブーゲンビリアの花が飾られ赤い絨毯が敷かれ、お祭りかと思えるほどの人が溢れ、今か今かと殿下と陛下のご到着を皆が待っている。
予定の三分前、遠くから歓声が聞える。その歓声は徐々に庁舎のほうへと近づいて来る。そして予定の五分後には、煌びやかな四頭立ての馬車が庁舎前に到着した。隣のカルオさんとの会話も儘ならないほどの歓声。
馬車の扉が開いて、先にお降りになられたのはハリク殿下。長い手足と高い背丈。明るいブラウンの髪は前髪が長め。そこからのぞき見える優しいブルーの瞳が素敵と、若い女性に大人気の殿下。確か今年、二十八歳になられるはず。にこやかに周囲に手を振って応えられた。
次にお降りになられたのが隣国のロゥアン国王陛下。殿下よりも大柄な印象のある陛下は短めの黒髪にグレーの瞳。ハリク殿下とは対照的に、周囲には鷹揚に頷くだけ。確か殿下よりも年齢は上のはず。
お迎えに出ていた町長がご挨拶を申し上げ、殿下と顔見知りのカルオさんもご挨拶申し上げた。殿下と陛下はそれを労われた。そして私が紹介される。
『通訳のルノエ・アグレイです。よろしくお願いいたします。』
あまりの周囲の歓声がすさまじく、私の声など届かない。でも殿下も陛下も頷いてくださったので、ちょっと安心した。そしてそのまま庁舎の中へ。町長の来賓室へお入りになられて、私も通訳としてロゥアン陛下の斜め後ろの席に座る。
「ハリク王太子殿下、またロゥアン国王陛下におかれましては、この度はこのような街にまで足をお運び頂きまして、まことに……」
「堅苦しい挨拶はいいよ、町長。今回は世話になるね。ロゥアン陛下はとてもこの街での滞在を楽しみにされていたんだ。」
「さようでございますか。ご希望がおありでしたら、なんなりとお申し付けください。」
「この度はお世話になります。一度、この街を見たいと思っておりました。あとで港を見せて頂きたいのだが。」
「ありがとうございます。では後ほど、詳しい者に案内させましょう。」
…………やはり通訳は必要なかった。
馬車に乗られて港へ移動。でもなぜか私も馬車の中に押し込められてしまった。しかもロゥアン陛下によって。私の前にはハリク殿下。私の横にはロゥアン陛下。……なぜこんなことに。パニックになっている私にハリク殿下がお声を掛けてくださった。
「ごめんね。引っ張りこんじゃって。予定では後ろの馬車に乗るんだったんだよね?」
「いえ、私の方こそ勝手に申し訳ありません。」
「大丈夫、あなたが謝ることではないよ。悪いのはそこの悪党だから。」
「………悪党?」
「そこの」でハリク殿下が顎で示された方向を見ると、ロゥアン陛下のグレーの瞳と視線が合ってしまった。慌てて目を逸らす。……気まずい。
「そうか、そんな段取りとは知らなかった。」
「ぬけぬけと…。きみ、気をつけたほうがいいよ。こいつは悪党だからね。」
「はい。」
「っ、くくくく。ロゥ、はいって言ったぞ!」
「!!!申し訳ありません!そういう意味では………。」
私が慌てて否定していると、隣から「これが潮の香りか…。」とだけ聞こえてきた。そっと隣を窺うと、陛下のグレーの瞳は潮風に吹かれて前を向いたままだった。
ロゥアン陛下ご希望の港を見学される。
丁度荷揚げの貿易船が何隻か到着しており、港は多くの人が行き来していた。海鳥たちは既にお腹を満たしたようで、静かだった。
「どこからの船だ?」
「カライスの貿易船です。カライスとはこの港では主に柑橘類が届きます。今日は確か、レモンのはずです。」
「あの派手な船は?」
「あちらはデリの船です。デリからは主に石鹸と塩。今は時期ではありませんが、オリーブとオイルも取引きしています。」
「塩か。」
「はい、今日は塩だと思うのですが…。ああ、やはり塩のようですね。近くでご覧になられますか?」
「ああ、見たい。」
デリの船は白い船体に赤、黄、青のラインが入っていて、目につく。傍へ行くと同僚のセルギさんが荷受けをしていた。
「セルギさん、塩を見せてもらってもいい?」
「おっ、ルノエ!……殿下のご案内か。お前もえらい役目だな。」
私にだけ聞こえるような声でぼそっと言う。
セルギさんは私に仕事を教えてくれた人。兄の友人で兄とは同い年。妹のようにかわいがってくれる人だった。荷受けの際にサンプルとして取り出した、ワックスペーパーに載せた塩を分けてくれた。
それをまず私が毒見しようとすると、後ろから大きな手が出てきて塩をワックスペーパーごと攫って行った。
「陛下?!」
「……甘いな。」
「まだ毒見が終わっておりません!」
「別にいいだろう。それより甘い塩だな。」
「……海水から精製された塩です。岩塩のような辛味がなく、ミネラルが豊富でまろやかなのが特徴です。」
そう話していると、塩を載せたワックスペーパーは今度はハリク殿下の手に。
「へぇ本当だ。塩辛いのに甘い。おいしい。」
ハリク殿下も味見された。まだ殿下のお付きの方も、陛下のお付きの方も毒見されていないのに、こんなことでいいのだろうか……。
「この塩はこれからどこに流通する?」
「ほとんどのものが、王都とその周辺へ行きます。あとはこの塩のおいしさを知る、このあたりのホテルくらいでしょうか。」
「じゃ、王宮でも使ってるのかな?」
「王宮でご使用の塩は、もう一度不純物を取り除いた物だと思われます。」
ロゥアン陛下のお国は我が国の北側にあり、海の無い国。だから本当にこの港の見学を楽しみにされていたらしく、多くの質問を私にされた。あれはなにか、これはどうなっていると。どうにか全ての質問に答えることができて、ほっとしていると、ハリク殿下にお声を掛けて頂いた。
「案内をありがとう。きみ、普段はなんの仕事をしているの?」
「貿易の仕事を手伝っております。商船の荷受け、荷卸しの手配がほとんどです。」
「へぇ、なるほど。それで今回の通訳を任されたんだね。」
「……まったく通訳の仕事はしておりませんが。」
「そんなのはいいよ。ロゥも僕も通訳よりも案内してくれるほうがよほどいいからね。」
「ありがとうございます。」
「……あの花はなんだ?さっき庁舎にも飾られていたが。」
ロゥアン陛下がご覧になられている方向を見ると、そこにあったのは赤いブーゲンビリア。気温の温暖なこの街は観光地なこともあって、目を引くブーゲンビリアを意識して育てている。だから街のあちこちで見かける花。
「ブーゲンビリアと申します。俗に、魂の花とも呼ばれております。赤く花のように見えるのは、葉です。」
「赤いのが葉?あれが葉なのか?」
「はい。本当の花は赤い葉の中に咲いております。小さな白い花です。」
「……ブーゲンビリア。魂の花か。」
ロゥアン陛下はそのままブーゲンビリアに吸い寄せられるように、白い花を確認されに行かれた。陛下のお付きの方もお傍に付くというよりも、一緒に確認されていたようだった。
それを目で追っていると、隣のハリク殿下が思いもよらないことを仰った。
「………きみは、気を付けたほうがいいな。」
「え?あの、私なにか……?」
「ああ、違うよ。そういう意味ではないよ。だがもう少し身の回りに気を付けたほうがいいかな。」
「身の回り、ですか?」
「うん。きみはそうと思っていないようだけれど、悪党は思っているよ。」
「………?」
「うん、ごめん。なにを言ってるかわからないね。ま、僕としてはそれもいいかもしれないなって思うんだけどね。」
殿下の仰ることが増々わからなくて首をひねっていると、ロウァン陛下が戻って来られた。その途端、ハリク殿下はパタッと会話を止められた。
身の回りに気を付ける?どういう意味だろう?その言葉の意味を理解したのは、ロゥアン陛下のご出立の日だった。
潮風に吹かれて、ブーゲンビリアが揺れていた。