(9)
イシュに強く促され、カリンは部屋の中へと足を踏み入れたが、すぐに後悔した。水滴をポタポタこぼす着物の裾と、寒さで爪が紫色になってしまった足の指を見下ろす……綺麗な絨毯を汚してしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、カリンはおずおずと口を開いた。
「魔法薬、作ってきたんです……だから、届けにきました」
カリンは懐から取り出した、小さな薬の瓶をイシュに差し出した。イシュは一瞬言葉に詰まり、それからかき抱くようにして、薬をにぎった手ごとカリンをぎゅっと引き寄せた。
カリンは自分がずぶ濡れなので、このままではイシュも濡れてしまうと、あわてて離れようともがいた。しかしイシュは構わずカリンを腕に閉じ込めたまま、近くにひかえていた看護婦に命じて、たくさんのタオルを持ってこさせると、自らの手でカリンの頭と顔をていねいに拭き始めた。
「心臓が止まるかと思った……こんな無茶して! でも……ありがとう、薬」
イシュの言葉に、カリンの張りつめていた緊張の糸がぷっつりと切れた。
気がつくとカリンは、数人の看護婦の手で抱えられるようにして別室に連れて行かれ、濡れた服を脱がされていた。すぐに温かい湯に入れられ、すっかり着替えをさせられた頃には、極度の疲労のあまりいつの間にか深い眠りについていた。
次にカリンが目覚めると、ふわふわのベッドの中だった。
窓からこぼれる日の光に目を細め、次の瞬間、かたわらの温かいぬくもりにびっくりして身を起こす。
「おはよう魔女さん。熱は下がったみたいだね」
窓辺から射し込む光の粒に包まれたイシュが、カリンの枕元に寄り添うようにして座っていた。
柔らかそうで光沢のある白い衣をまとったイシュは、目がくらみそうなほど麗しい。その姿は、つくづく『本当の王子さまなんだなあ』と実感させられる。カリンは小さく、遠慮がちに口を開いた。
「あの……具合は、もういいんですか?」
「うん、君の作ってくれた魔法薬のおかげだよ。父の主治医も驚いていた。化膿していた部分がすっかり回復したんだよ。優秀な魔女さんに、一言お礼したいって言ってた。僕からも本当に、なんてお礼したらいいか分からないよ」
カリンは顔を赤らめてぶんぶんと首を振ると、頭の芯がクラリと揺れるような感覚をおぼえ、両手で額の横を押さえる。するとイシュの大きな手がなだめるように、そっとカリンの頭をなでた。
「ダメだよ、急にそんな風に頭をゆらしちゃ。君はこの二日間、ひどい熱で寝込んでいたんだから」
「二日間!? 私、そんなに寝ていたの!」
「だって雨の中、あんなにずぶ濡れになったんだから……」
そこでイシュは言葉を切ると、不思議な笑顔を浮かべた。嬉しいような悲しいような、何か激しい感情を飲みこんで必死にこらえているような、そんな笑顔だった。
「……もう僕のために、こんな無茶しちゃだめだよ」
めっ、とたしなめるように言われ、カリンはなんだか悲しい気持ちになってしまう。そんなカリンの表情に気がついたイシュは、カリンの額にやさしくキスをした。
「心配で目が離せなくなってしまいそうだ……」
その時、朝食を運んできた看護婦がイシュの姿を見つけ、あきれたように声を張り上げた。
「やはりこちらでしたか! まだ安静になさらなくてはいけないのに……こちらのお嬢様は私どもでお世話しますから、殿下は早くベッドへお戻り下さいまし」
「うるさいのに見つかったな……じゃ、魔女さん。また後で顔見にくるから」
そう言いながら杖をついて歩き出した王子に、二人の看護婦が両側から支えるように付き添う。そうして王子は、しぶしぶながら部屋を後にした。
一方、朝食のお盆を置いた看護婦はカリンに微笑むと「今、先生がお見えになりますからね」言って出て行った。
やがて現れたハイフナー医師は、太って貫禄のある初老の男だった。髪の毛がほとんど無く、小さなひょうきんそうな瞳でカリンに微笑みかける……カリンはこの医師をすぐに好きになった。
ひと通りの診察が済むと、医師は「どっこいしょ」とベッドの横の椅子に腰を降ろした。
「さて、魔女さん? 君は西の森に一人で住んでいるそうだね」
「はい」
「ご飯のしたくとか、どうしているの?」
「自分でやります。それに近所のおばさんが、たまにおかずを作って持ってきてくれるんです」
「そうか。皆に大事にされているんだね」
少し考えるような表情で、ハイフナー医師はふむふむとうなづく。それからゆっくりと、言葉を選ぶように切りだした。
「急な話で驚くかもしれないが、その……よければうちの家の子にならないか」
「えっ」
「君のことを、我が家で引き取りたいと思ってね……君さえよければ、の話だが」