(4)
それからしばらくカリンは座る暇もないまま、レイの指示に従って様々な事をやった。薬瓶のラベル張り、使用した実験器具の清掃等、簡単なようでどれも手順が複雑だった。
レイはやり方をひとつずつ、ていねいに指導してくれる。そしてカリンの予想に反して、途中でやり方が分からなくなったり、最悪間違ったりしても、決して面倒がらずに何度でも繰り返し、辛抱強く教えてくれた。
「そろそろ腹減らないか」
レイにそう言われてカリンは顔を上げると、壁掛け時計の時刻はゆうに正午を過ぎていた。朝ご飯は結局のところ、たいして食べられなかったから、指摘されて急に空腹をおぼえた。
「メシ食えるとこまで連れてってやる」
「あ、はい……今朝のお店ですか?」
あの店は、テラス席に赤と白のパラソルがいくつもあって、とても素敵でおしゃれな雰囲気だったが、少々高そうだ。今朝はハイフナー夫妻の好意に甘えて、ご馳走になってしまったが、もう一度行くとなると自腹を切るしかない。だが残念ながら、カリンの懐は少々、いやかなり寂しい。
「あの、どこかにパンと水を買える売店とかありませんか」
「は? そんなもんねえよ。心配しなくても、あの店じゃねえから。あそこは朝しかやってねえからな。行くのは王宮内の食堂だ。ここに勤めてる人間なら、誰でもタダで食える」
「えっ、そうなんですか」
「まあな。メニューは多くねえが、味はまあまあかな」
そう話しているうちに、二人は賑やかな場所にたどり着いた。昼時だからだろうか。大きな中庭に面した広々とした回廊には、大勢の人たちが方々から集まってくる。また、すでに食事を終えたらしき一団が連れ立って、大きな出入り口から出てくるのも見えた。
「こら。キョロキョロしてっと迷子になるぞ。こっちだ」
「はいっ」
レイは大きなストロークで足早に出入口を抜けていく。その後ろ姿を、カリンは小走りについていった。途中おしゃべりに夢中なメイドの一行にぶつかりそうになり、避けると今度は兵士らしき二人組に正面から突っ込みそうになる。
「おっと。気をつけな、お嬢さん」
「ご、ごめんなさい!」
頭を下げて謝っていると、横から強い力で腕を引っ張られた。顔を上げると、レイが呆れた様子でカリンを見下ろしている。
「何やってんだ、こんなとこで」
「あ、あの、私、ぶつかりそうになっちゃって、その……」
すると兵士の一人が、どこか嫌そうな顔でレイを一瞥した。
「……なんだ。お前繋がりかよ」
兵士はそう吐き捨てるように呟くと、連れの兵士と背中を向けて去っていく。カリンはふと、周囲の視線を感じて周りを見回した。目が合うとすぐに目をそらされるが、たしかにこちらを見ていた。出入り口で騒いで、迷惑だと思われたのかもしれない。だからレイが「行くぞ」と急かしたことも、特段不思議に思わなかった。
「ここのトレーを持って、向こうのカウンターで好きなもん取れ。席は自由だ。じゃあな」
「え、レイさんは食べないんですか」
「俺はいつも持ち帰って食うんだ。食ったら医務局へ戻ってこい。いいな?」
レイはそう言うと、足早にカリンの元から去ってしまう。カリンはその後ろ姿を見ていたら、横から「すいません」と誰かに声を掛けられ、あわててトレーが置かれた台の前から下がった。
レイの姿を探すと、カウンター手前の一番端に立っていた。そこから白い包みを受け取ると用は済んだとばかり、入った時とは別の、もう一つの出口から食堂を出ていってしまう。その姿を目で追う人たちが、食堂にはたしかに数人いて反応は様々だ。顔を緩ませて笑い合うメイドたちや、冷たい視線だけ送る文官らしき中年の男性や、嘲るように笑い合う兵士たちの姿もあった。
(なんだろう、これ……?)
なぜだか、すごく嫌な感じがした。カリンはトレーを手に取ったが、先ほどまで感じていた空腹感はすでに無かった。理由が分からなくても、ここでは食べたくないと思った。
(でも、食べなきゃ元気になれない)
カリンはトレーを持たず、料理を出すカウンターへ向かった。たくさんの、見たことももないご馳走が湯気を立てて並んでいるのが、人垣からチラチラ見える。
(どうしよう……あ、そうか)
カリンはカウンターの端へ向かった。すると厨房の青年が近づいてきて、にこにこ笑いながら白い包みを差し出してくれる。
「持ち帰りかい? 今日のサンドウィッチは、白身魚のレモンソース添えだよ」
「あ……ありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして!」
受け取った包みは、ほんのり温かった。
カリンが医務局へ戻ると、開発課の部屋の奥にレイがいた。レイはあまりに早くカリンが戻ってきたので、いぶかしげに眉を寄せる。
「どうした、なにか忘れ物か?」
「あ、いえ……」
カリンは包みを手に、入口でためらいがちに口を開いた。
「あの、私もここで食べて、いいですか?」
「……なんで」
レイは手にした食べかけのサンドウィッチに視線を落とした。理由を聞かれるだろうと思っていたカリンは、戻る道すがら考えていた言葉を声に出す。
「なんか、居心地悪くて。あそこじゃ、食べられそうになかったんです」
本心からの言葉は、つかえることなくスルリと口からこぼれた。レイは黙ったまま立ち上がると、戸棚へ足を向けた。
「……座れば。今茶を出してやる」
「はいっ!」
レイは戸棚から茶葉の缶を出して作業台に戻ってくると、フラスコで沸かしたお湯をビーカーに注ぐ。そこへ茶葉の袋を一つ入れ、向かいに座ったカリンの前に押しやった。
「砂糖はねえよ」
「あ、はい。大丈夫です」
「今日はいいが、明日からは向こうでメシ食えよ」
「え……」
「サンドウィッチばかりだと、さすがに飽きるだろ」
サンドウィッチは大きくて、両手で持つ必要があった。とってもおいしそうで、実際一口かじると素晴らしい味がした。ほくほくの柔らかな白身魚とレモンの酸味が絶妙だ。
「おいしいです、これ」
「そうか」
「レイさんは、いつもサンドウィッチなんですか」
「まあ、食えりゃなんでもいいからな」
「……食堂で、ご飯は食べないんですね」
レイは視線を上げると、わずかに目を細めた。笑っているようにも見えるし、苛立ちを隠そうとしているようにも見える。
「お前も気づいただろ。見ての通り、俺はガムラン人だからな。俺がいちゃメシまずくなるんだろ」
「レイさんはガムラン人、なんですか?」
「え、お前」
カリンはガムラン人に会ったことがない。ただ三年前まで、ここアーンシェ国とガムラン国がケルベリ地方の国境付近で、数年に渡って激戦を繰り広げた事は記憶に新しい。
イシュはその戦いで足を負傷し、イシュの姉シェリマは開戦後ガムラン王家を脱出してアーンシェへと帰還を果たした。とても辛くて、苦しい戦いだったはずだ。
「お前……分かってて、俺の顔見て怯えてたんじゃねえのか」
「あ、それは。レイさんの顔が、その、怖かったから……です」
レイは一瞬目を丸くして、それから吹き出した。
「なんだそりゃ」
「だって、本当に怖い顔して私を見てたじゃないですか!」
カリンはムッとして顔を上げると、どこか皮肉な笑みを浮かべたレイの視線とぶつかった。レイは頬杖をつくと、いつの間にか食べ終えたサンドウィッチの包みを片手で握りつぶす。
「で? 俺がガムラン人だって分かったとこで、どうだ」
「? どうって?」
レイが意味深な視線をよこしたので、カリンは頭に浮かんだことを、思い切って口に出してみることにした。
「あのう、レイは……その、ケルベリの戦いに参加、していたんですか」
「いや。俺は生まれてからずっと、アーンシェを離れた事ねえよ。国籍もアーンシェだからな」
「え……」
「俺の親父が、若い頃こっちへ移住してきたんだ。母親はアーンシェ人だから、まあ正確には半分ガムランってとこか」
「そう、なんですか……よかった」
カリンは胸を撫でおろす。レイはあの戦いにいなかった。
「よかったって、何がだよ?」
「だって、すごく辛い戦いだって聞いたから。レイさんが、そこにいなくてよかった……」
あの戦いの場にいたイシュもシェリマも、たくさん辛い思いをした。ユーリウスも何か悲しい思いを抱いていた。だからきっとガムラン側の人たちも、たくさん辛くて悲しい思いをしたに違いない。
戦いは怖くて嫌だ。戦いの場にいる人が、一人でも少ない方がいい。できれば誰もいなければいい。原因は国境争いと聞いているが、本当に戦う他無かったのだろうか。お互い欲しい土地があるならば、半分ずつ分け合うとか、交代で使うとか、何か別の方法はなかったのかと思う。
「お前、変わってんな……いや単に馬鹿がつくくらい、お人好しなのか?」
「馬鹿って、どうしてですか?」
カリンは眉をひそめながら、冷めてきたお茶に手を伸ばす。
「でも、お前さあ」
「なんですか……ぐっ!?」
カリンは一口お茶をすすって、一瞬顔をしかめると、次に盛大にむせた。
「し、渋っ……苦い……」
「だから今、茶葉の袋入れっぱなしだって注意してやるとこだったんだが……ぶっ……ひでえ顔」
それからカリンは、レイに盛大に笑われた。あまりに笑うので、カリンはすっかり腹が立ってしまったが、レイから甘い糖蜜飴を渡されてしぶしぶ許すことにした。
口の中に含んだ飴はやさしい甘さとともに、舌の上で雪のように一瞬で解けてなくなった。でも小さな甘味で、カリンはほんのちょっぴり気分を持ち直した。




