(5)
――手、離しちゃだめよ。
目覚めた瞬間にかき消えてしまう、つかの間の幸せな夢。
眠りの淵から目覚めたカリンは、枕代わりになっていた辞書から顔を上げると、窓の外へうつろな目を向けた。
シトシトと降りつづける空を、厚い漆喰の壁にはめこまれた窓越しにうらめしくながめていたカリンだったが、それは天気のせいばかりではなく、遅々として進まない勉強のせいでもあった。
ここしばらく雨が降りつづいたので、カリンは家にこもって文字を読む練習をしていた。
今まで勉強らしい勉強をしたことがなかったカリンは、とりあえず地下の貯蔵庫にしまわれていた箱をキッチンテーブルまで運び、その中の魔法薬のメモを、例の辞書を使って一つずつ丹念に読むことから始めた。
だが一文に何個もわからない単語があり、最後のわからない単語を調べるころには、一番最初に調べた単語の意味を忘れてしまう、という有様である。
しかもノートに書きとめておこうにも文字もあまりつづれない上、ひどい場合は辞書の説明もよく読めないから、そのためにまた辞書を引かねばならない……そんな堂々めぐりをくり返していた。
近所に住むモズ婦人は、その間に二度ばかり『夕食のおかず』といってさし入れしてくれた。その度にカリンはお礼に、と腰痛に効く薬をあげた……こんな雨の日は特に腰が痛むのだ、とモズ婦人がしきりにこぼしていたからだ。
(そういえばイシュも、曇りや雨の日は、けがした足が痛むっていってたっけ……)
カリンはいつかきっと、けがに効く魔法薬をイシュに作ってあげたいと思いつつ、再びメモを片手に辞書を開くのだった。
そうして四日目の朝。
雨がすっかり止んだので、カリンは久しぶりに窓を開けた。湿った空気が森の土の良い香りを運んできてくれる。カリンはいそいで朝食をすませると、籠を手に足取り軽くいつもの野原へと出かけていった。
その日の野原には、雨水をじゅうぶんに吸ったシロツメグサがふっくらと咲きほこり、太陽の光りを浴びてフワフワと淡い光を辺りにまき散らしていた。
草がまだしめっていたので座ることができず、カリンはしばらくの間ぶらぶらと周囲を歩きまわっては雨の間に育った薬草を籠につんでいたが、やがて今日はもうイシュが来ないだろう、と思うとそのまま森の来た道を引き返した。
翌日もカリンは籠を持って野原へと出かけた。
すっかり乾いた草むらにころん、と寝転がって空をながめると、青く澄み渡った空があたたかい布団のようにすっぽりと森をくるんでいるようだった。この日もイシュは現れなかったが、きっと少しばかり風が出ていたせいだろうとカリンはあまり気にしなかった。
そうしているうちに一週間が過ぎた。
さすがに心配になってきたカリンは、喪失感と共に窓辺から森へ続く道をながめては深いため息をついた。
(もう散歩するの、やめちゃったのかしら……それとも、散歩する道を変えてしまったのかもしれない)
そろそろ初夏に差しかかっており、モズ婦人によると城下町ではお祭りの準備でにぎわっているそうだ。カリンは小さい頃に母の手に引かれ、初めて見たお祭りのにぎやかな様子を思い出した。
夜空の下たくさんのあかりが道々に灯されており、それに負けないぐらいたくさんの店と人々がにぎわっていた。カリンは甘い棒付きキャンディーを買ってもらい、それを食べながら広場で踊る人達をながめていた。母親は一緒に踊りたそうにしていたが、足でリズムを刻みながらも、しっかりカリンの手をにぎって離れようとしなかった。
――手、離しちゃだめよ。カリンが大きくなったら、母さんと一緒に輪に加わって踊ろうね。
母さん、とぽろりと涙をこぼしてしまい、カリンはあわててそれを手の甲でふき取った。この事については、もうじゅうぶんに泣いたのだから、もう泣かないように気をつけていたのに。
気を取りなおして、カリンはモズ婦人の住む家へ向かった。
今日は雑貨屋の主人ロッタス氏が村に来る日で、モズ婦人の家で商いをしているはずである。よく手入れされた庭先の玄関に立って扉をノックすると、中から「おはいり」という声が響いた。中に入ると思ったとおり、ロッタスがテーブルに品物を広げていた。
「今日はお菓子をいくつか仕入れてきたよ。もうすぐお祭りだからね」
「お祭りはいつなの、ロッタスおじさん」
するとロッタスはちょっと顔を曇らせると肩をすくめた。
「いちおう予定では、三日後の晩なんだがね。離宮の王子様の容態次第では、たぶん来週か、さ来週に延期されるんじゃないかって言われてるよ」
「王子さま、病気なの!?」
「ああ。けがのせいだよ、きっと。先週はずっと雨が降りどおしだったろう? 戦場で受けた傷ってのは、天気がくずれると悪化するもんさ。なんでもベッドに伏したまま、起き上がれないらしい……噂では熱が高いそうだから、治ったばかりの傷口が開いて化膿しちまったのかもしれんな」
カリンは真っ青な顔で目を見開いた……だからイシュは野原に現れなかったのだ。まさか、ずっと病気でベッドに伏せっていたなんて!