(9)
カリンは、体が半分水に浸かった状態で、イシュの顔を呆然と見上げていた。
イシュに両手を差し伸べられ、カリンの体は湖から引き上げられた。濡れるのも厭わないイシュに、カリンは申し訳なくて腕の中で身じろぐ。
「あの、下ろしてください……」
イシュはまるで壊れ物を扱うように、カリンの体をそっと地面に下ろした。
「久しぶりに抱っこしたよ。昔は、もっと小さかったのになあ」
イシュはひざまずくと、座り込んだまま神妙な顔でうつむくカリンの細い顎をとらえて、そっと押し上げた。まつ毛についた水滴が、イシュの顔を滲ませる。
「もしかして、さっきの僕らの話しを聞いていた?」
「……はい」
「そっか」
「あの」
カリンは涙を乱暴に拭うと、震える唇を開いた。
「私、ユーリウスさんのもとへ行きます」
「魔女さん」
「かならず……かならず、イシュの足を治すお薬ができるよう、ユーリウスさんのお手伝いをします……もし私でお役に立てるなら」
カリンはそこで言葉を切ると、目を伏せて唇をきゅっと噛んだ。差し伸ばされた温かい腕に包まれても、カリンは身を硬くしたままじっと動かない。
するとイシュは感情もあらわに、腕の中の小さな体を強くかき抱いた。
「本当は君を手放したくない……! いつまでもあの野原で、穏やかな日々を送ってもらいたい」
「でも、そうしたらイシュの足は……」
「治らなくても構わない」
その言葉にカリンはぎょっとして、両手でイシュの胸を押し戻した。
カリンは首を横に振りながら、真っ青な顔でイシュを見上げる。琥珀色の瞳は凪いだ海のように穏やかで、全てを受け入れている者のまなざしは、いっそ清々しいくらいだ。
しかし、カリンもここで引くわけにはいかなかった。
「でも、ちゃんと治さないと駄目です!」
「いいの? 足が治ったら、僕は王宮へ連れ戻されるだろう。もう君に会いに、野原へ行くことも叶わなくなる……君はそれでもいいの、魔女さん?」
カリンは心の痛みに顔を歪ませた。ぎゅっと握られた両手首が熱い……まるでイシュは怒っているようだ。手首から伝わる熱が、拘束する腕が、彼の中の独占欲を表しているかのようで……カリンは己の心の弱さに、負けてしまいそうになる。
「……それでも私は、イシュに元気になってもらいたい、です」
カリンは、小さなかすれ声を振り絞った。
すると、握られた両手首の力が、少しだけ緩んだような気がした。
「分かってます……イシュが離宮に住んでいる理由は、足が悪いからだって。治ったらきっと、王様のいるお城へ戻っちゃうんだって」
昔イシュは、足が治ってもそばにいると、約束をくれた。でも、そんなの嘘だとわかっていた。泣きじゃくるカリンをなだめる、やさしい嘘だったのだ。
「だから私、ほんの少しだけ……イシュの足がずっと悪いままだったらなぁって、そんな恐ろしいことすら思ってしまいました。そんなの、本当のしあわせじゃないのに」
「本当のしあわせ?」
イシュの瞳が、わずかにゆらぐ。
「本当のしあわせって?」
「え……」
「しあわせに本当も嘘もあるの? しあわせは心で感じるものだろう。君がそう感じるのなら、それが君のしあわせだよ」
イシュの両手が、カリンの頬をやさしく包みこむ……真摯な光をたたえた瞳が、カリンの黒い瞳をとらえた。
「僕のしあわせも、僕自身が感じることだ」
「あ、あの」
「魔女さんには、僕がしあわせに見える?」
「私……」
「君の目に、僕はどう映っている? 僕はどんな顔している?」
そう言って、イシュはいつもの、やさしく温かい笑顔を浮かべた。カリンの目に、新しい涙がこみ上げてくる。
「笑ってます……」
「うん。それは僕がしあわせをら感じてるからだよ。魔女さんと、こうして一緒にいられることがうれしい。君に出会えたから、笑っていられるんだ」
「だって……」
クシャッと顔を歪ませたカリンに、イシュは腕を緩めて顔をのぞきこむ。
「いろいろ黙ってて、ごめんね」
「私も……いろいろイシュに、話せてない事があるから」
母に教えられたきまりごと。
例えばカリンは、自分の誕生日を誰にも教えたことがない。
昔はそのきまりの根拠を知らなかったから不思議に思ったが、本など読んで追々勉強をしているうちに徐々にその理由がはっきりしてきた。
呪術の基本。相手を呪う際にもっとも重要な情報のひとつが『出生日』……母エリヴェルは、カリンの身を守ろうとしていたのだ。それは逆にカリンの身に危険が及ぶかもしれない、と予感していたことになる。
カリンには言えないことが色々ある。魔法をほとんど教えてくれなかった母親は、ただカリンに身を守る術だけは遺していった。
野原に張られた結界。
毎日切らしてはならない薬草。
言ってはいけないこと。
行っていけない場所。
小さな頃からごく自然に行なってきた、カリンの『当たり前』。
まだ幼くも無邪気だった時分は、そんな秘密を『ないしょごと』と呼んで楽しんでいた。でも大人へと近づくにつれて、秘密を持っていることが辛くなっていくのはなぜだろうか。それとも単に、イシュに隠し事をしていることが辛いのだろうか?
「私、ユーリウスさんの所へ行きます。それで魔法を勉強して、イシュの足を治す薬を作るお手伝いすることを誓います」
「君はそれで……しあわせ?」
「しあわせかどうか、わかりません。でもそうしなくちゃ、私の気持ちは悲しくて不幸のままだから」
「魔女さん……」
「だってイシュが大切だから……大好きだから」
イシュは薄っすらと目を細めると、まぶしそうにカリンを見つめた。
カリンは近づけられた顔に、急に気恥ずかしくなって視線をそらしてしまう。
「目をそらさないで……僕を見て」
「無理です……そんな」
「魔女さん」
「だってイシュは王子様だもん」
ユーリウスの言った通りだ。うれしいはずない。そのうちきっと、そばにいることすら苦しくなってしまう。
「だから私は……」
その言葉が終わらないうちに、カリンの額にやわらかな唇が触れた。
「僕も君が好きだよ、魔女さん」
イシュはそっとカリンを離すと、スラリと立ち上がって背を向けた。風に揺らいで波立つ金糸のような髪が、カリンの目にまぶしく映る。淡い木陰の下で見るその後姿は、どこか触れてはいけない神々しさを感じさせた。その手には、美しくも不釣合いな金の杖。
「来年から淋しくなるな」
「……」
「途中で嫌になったら、いつでも帰ってきていいからね」
しかしカリンは改めて心に誓った……この森でユーリウスとともに、必ずイシュの足を治す魔法薬を作るのだと。それはイシュのためにカリンが『すべきこと』だと確信した。
いつかイシュが、あの金色に輝く杖を置いて、カリンのもとを去っていく日が来ようとも。
(第四部、おわり)




