(8)
湖のほとりに着いたカリンは、放心状態で水辺にしゃがみこんだ。
先ほど耳にした衝撃の事実が、小さく丸めた背に重くのしかかる。頭上に広がるのは綺麗な青空なのに、それすら今のカリンを責めているようだ。
カリンは水面に映る自分の姿を見下ろす。自分の顔に母親の影が重なった時、パシャリと小さく飛び跳ねた魚の波紋でかき消された。
カリンの母親であるエリヴェルは、陽気で楽天的な性格の持ち主だった。若い頃、王宮に召抱えられていたこともある優秀な魔女で、色んな場所へ旅をしたらしい。
カリンは幼い頃から、エリヴェルの武勇伝を聞きながら育ったので、母親であると同時に父親のような存在でもあった。たとえ家事全般はまるで駄目でも、そんなたくましい母を誇りに思っていた。
そのエリヴェルが、西の森の裏山にある渓谷に転落したという知らせを受けた時は、カリンは何かの冗談かと思った。
当時、カリンはようやく十を数えた年齢に過ぎす、村人が唯一持ち帰ったエリヴェルのマントを目の前にしても、よく理解できず実感もわかなかった。ようやくその死を認められたのは、事件から一ヶ月を過ぎた頃だった。
思い返すと、カリンはエリヴェルの遺体を見たわけではない。深い谷底に落ちてしまったという意味は、最早助からないということと同時に、遺体は収容できないという意味だったのだ。絶壁の斜面に引っかかっていたという遺品のマントが、唯一の証拠品だった。
それからしばらくして、カリンはエリヴェルの魔力が、自分から遠ざかってしまった感覚を覚えた。それで母の死を実感した。
「……母さん」
久々に母親を呼びかける言葉を口にして、カリンは奇妙な感覚を覚えた。母が生きているかもしれないと、信じていいのだろうか。
先ほどのイシュとユーリウスの会話を聞いて、カリンは胸の奥が苦しくなる。まさか母が生きている根拠が、母の呪術が解けないからとは。
そしてイシュの足が悪いのは、母のかけた呪いのせいだなんて。
自分の母親は、決して悪い魔女ではなかったはずだ。人を陥れたり、ましてや苦しめたりするような悪い人間ではなかった。そうカリンは信じてきたし、その気持ちは今でも変わらない。
分かっているのに、信じているのに……なぜこんなにも、打ちのめされているのだろう。
まるで体中の血液に、熱い鉛が流され、それが固まって全身が動かせなくなっていくようだ。このままでは恐怖に縛られて、一歩も踏み出せなくなりそうで、たまらなく不安になる。
(私はどうしたらいいの……)
何度も自問自答する。
だが答えは同じ。イシュの呪いを解かなくてはならない。
母の呪術を解く魔法薬を調合できるのは、きっとユーリウスしかいない。そしてその調合には、カリンの魔力が必要なのだ。迷うまでもない。カリンは手伝うべきなのだ。
それなのに、イシュはカリンの身を案じ、心配していた。
カリンは首を振った……自分は心配されるような立場ではない……むしろ憎まれても仕方ない人間だろう。
大粒の涙が零れ落ち、カリンの頬を濡らす。野原でイシュに会えればしあわせと、ただそれだけで嬉しいのだと……そんな風に思っていた能天気な自分自身に、今では嫌悪感で吐き気がする。
カリンは、足元で揺れる白い花に視線を落とした。いつか野原で作った、花冠を思い出す。『しあせな夢をあなたに』と、野原に詰まったしあわせな夢。それが儚く覚めるとき、カリンは一つの決心を固めた。
(ユーリウスさんのもとへ行こう)
そしてイシュの呪いを解く魔法薬を作るために、できる限りの手伝いをするのだ。
そして、いつか薬が完成したら、今度は母親を探す旅に出るのだ。もし母が生きているのなら、母の口からすべての真実を聞きたい。
カリンは自分の考えに没頭していたため、近づいてくる足音に気がつかなかった。
隣の子ドラゴンがふいに鳴き声を上げ、カリンは我に返ると、後方から穏やかな声が聞こえてきた。
「魔女さん、遅いから迎えにきたよ」
「イシュ……」
カリンは振り返るのが怖かった。
顔を見られたくなくて、自分を消してしまいたくて、衝動的に湖に飛び込んだ。
「魔女さん!?」
水中でカリンは泣いていた。涙がどんどん溢れるが、湖がすべて飲みこんでくれる……このまま水に溶けて、無くなってしまいたい、なにもかも無くなってしまえばいい。だが、このままカリンがいなくなってしまったら、イシュにかけられた呪いが解けない。
カリンは自分が何をすべきなのか、はっきり分かった。
この身を捧げるくらい、やらねばならないことがあると、今思い知らされた。
(イシュ、私……私……)
やがて水面から顔を出したカリンは、イシュを見上げてポツリとつぶやいた。
「ごめんなさい……」
「魔女さん、いったいどうして……」
イシュは水辺に屈みこむと、ずぶ濡れになったカリンの顔を覗き込んだ。カリンは心配かけないように、なんとか笑顔を浮かべてみせる。
「服、濡れちゃったから、乾かしてから帰ります。イシュは先に馬車で出発してください……私、後からホウキで追いかけますから」
男性にしては細く繊細な指先が、ポタポタと水滴をこぼすカリンの前髪をそっとすくい上げた。イシュは小さくため息をつく。
「そんな作り笑いしても無駄だよ。魔女さんの笑顔を、これまで僕がどのくらい見てきたと思ってるの」
イシュの泣きたいくらいやさしい声音に、カリンは新しい涙で頬を濡らした。今はただ、イシュのやさしさが苦しかった。




