(6)
ユーリウスは、ざわめく木の葉の屋根に座りこみ、虚ろな目で夜空を見上げていた。カリンに気がつくと、さして驚いた様子も見せずに手招きをする。
「失礼します……」
カリンは握りこぶし一つ分空けて、ユーリウスの隣に腰を下ろした。何を話そう、と考える間もなく、ユーリウスから話題を切り出してきた。
「シェリマ様は、僕のことで何か言ってた?」
一瞬、カリンは迷ったが、それでも思い切って口を開いた。
「ユーリウスさんのこと、心配してるみたいでした」
「……ふーん。ところで君、寒くない?」
ユーリウスは返事を待たずに、繊細な織り目のショールをカリンの肩にフワリとかけた。
「シェリマ様は、僕に王宮へ戻ってきて欲しいんだ。だからああやって、時々訪ねてくる」
「ユーリウスさんは、王宮へ戻る気はないんですか?」
「この森に、僕が一人でいる理由はなんだと思う?」
カリンが首を横に振ると、ユーリウスが小さなため息をついた。
「イシュの足を治す、魔法薬を作るためだよ。もう二年にもなるかな。でも……これが、なかなか難しくてね」
カリンは少なからずショックを受けていた……いつかイシュの足を治す魔法薬を作りたい、と思っていたカリンだが、まさかユーリウスも同じことを思っていたなんて。カリンは抱えたひざに顔をうずめた。
しかもユーリウスほどの大魔導師が二年もかけて、いまだ薬ができない事実が、カリンの心に重くのしかかる。
「イシュの足のけがって、そんなに悪いんですか?」
「まあね。でも君が手伝ってくれたら、治せるかもしれないな」
思いがけないユーリウスの言葉に、カリンは勢いよくひざから顔を上げた。
「お役に立てるならうれしいです。でも私……基礎魔法もまだまだなのに」
「それは……」
ユーリウスは、半信半疑な表情のカリンをじっと見下ろした。
「まあ理由は、いずれ説明するよ」
「……」
「それとも、イシュの足を治したくない? 足が治らなければ、彼はずっと離宮で暮らしていくことになるだろうね……そしてたまに、君の野原へも訪れるだろう。今まで通り、何も変わらない日々が続くんだ」
「……」
「そして、そのまま平穏無事な日々を送れるだろう。彼の足が治らないのは、その平和な日々の代償みたいなものだ」
「そんな……!」
カリンは言葉を詰まらせ、唇を震わせた。
ユーリウスはカリンから視線をそらすと背を丸め、自分の体を抱きしめるかのように、ぎゅっと両膝を抱えた。
「ひとりよがりのしあわせは、周りの人を不幸してしまう。多くの人が、イシュの回復を願っているんだ」
「わ、私だって、イシュの足がよくなりますようにって思ってます……本当です」
「でもけがが治れば、イシュは君のもとを去っていく。君もそれに気づいていて、心のどこかに迷いがある。君の魔力が発揮できないのは、その迷いのせいだよ」
そんな風に言われ、カリンはうつむくしかなかった。ユーリウスの言葉を、心の底から否定出来なかった。
たしかにカリンには、迷いがあった。そしてずっと、心の葛藤に悩んでいた。その気持ちをイシュにも、正直にぶつけてしまった事もあった。
(それで、イシュに……嘘つかせたんだ)
イシュはカリンのために、もうどこにも行かないと、やさしい嘘をつかせてしまった。
「君は心を決めかねて、答えを出すことから逃げている」
ユーリウスはそっけない口調でそうつぶやくと、ひざを抱えたまま夜空を仰ぎ見た。
「まあ……そういう僕はね、王宮から逃げてきたんだ」
カリンは、ユーリウスの青白い横顔を見上げた。ユーリウスの口元が、悲しげな笑みで弧を描く。
「今でもシェリマ様はああやって、僕を王宮へ連れ戻そうとする。あんな美しいドレス姿で、優しい声音で……僕の決意を揺さぶる。僕の気持ちを、あの人は知っているのに。知っててあの人は『僕のために』って、そう言うんだよ。本当に、残酷な人だよ」
カリンはびっくりして目を丸くした。
「好きな人のそばにいられるのに……うれしくないんですか?」
「うれしいわけ、ないじゃないか。あの人は姫君だよ? 王族なんだよ? 君は分かってる? イシュもそうだって……どんなに望んでも、結ばれる可能性は無いって」
「え……」
カリンは凍りついた表情で、夜空を見上げているユーリウスの横顔を呆然と見つめた。
「君はイシュと、どうなりたいの? 気の置けない友だち? それとも兄妹のような関係?」
「あ……あの私は……」
「自分の気持ちばかり優先していると、周囲ばかりか、結局は自分自身も傷つけてしまう。君ももう小さな子供じゃないのだから、それくらい分かるだろう? たとえ彼が望んでも、ずっと一緒にはいられないって……」
そこで突然、ユーリウスが言葉を切った。その表情から、ただならぬ気配を感じ取ったカリンは、ユーリウスの視線の先を追った。
「森の結界に、何者かが侵入したみたいだ……カリン、君は部屋に戻ってなさい」
ユーリウスは宙に向かって、スッと手を差し伸べると、淡い銀色の光を放つホウキが現れた。
「イシュの予想通りだな……もう三つも破られている。相当強い魔力だ」
ホウキに乗ったユーリウスの姿が、フワリと宙に浮いたと思ったら、あっという間に闇夜へ溶けてしまった。なんて速さだろう……カリンはしばらく放心状態で、草むらに座りこんでいた。
やがてカリンは、ユーリウスに言われた通り部屋へ戻るため、ノロノロと出窓をくぐってはしごを降りた。
リビングへ続く扉を後ろ手で閉めると、体の芯から震えが湧き上がってくるのを感じた。
(どうしよう、大丈夫かしら……誰かに知らせた方が……そうだ!)
カリンは客間へ戻ると、自分の手荷物の鞄から小さな封筒を取り出した。そして、中から取り出したカードに向かって、泣きそうな声でささやく。
「ウルカ……ウルカ、聞こえますか?」
カードに描かれた魔法陣に向かって、カリンはウルカの名前を呼び続けた。このカードは北の国へ嫁いだ魔女ウルカからもらったもので、お互い遠く離れていても、カードを通して会話が出来る仕組みになっているのだ。
しばらくの間、カリンが辛抱強くカードに呼びかけていると、やがてぼんやりとした返答が聞こえてきた。
『……どうしたの、こんな夜中に』
「ごめんなさい、ウルカ、寝ていたの起こしちゃった?」
『寝ていたら、今頃あんたの声に気づいてないわよ。実はこっそり新しい魔法陣の実験していたの……リートに見つかるとうるさいからね』
リートとはウルカの夫であり、北の国ゲドガーの第五王子のことだ。かなり規律に厳しい人らしく、自由奔放なウルカがほとほと参っているらしい。
『それで一体どうしたの? 何かあったの?』
「あのね、ユーリウスさんが森に侵入者がいるって! 結界破られたって、それで飛んでいっちゃって……」
『落ち着きなさいって、話がよく見えないんだけと?』
焦りながらも、カリンはなんとか事情を説明したのだが、ウルカはあくび混じりに『放っておいて大丈夫でしょ』と気の抜けた返事をよこすだけだった。
『カリンは知らないかもしれないけれど、アーンシェ国の大魔導師ユーリウスと言えば有名な方よ。結界破りの魔法使いなら、相手にとって不足はないってもんだわ』
「で、でも……ひとりで大丈夫でしょうか」
『相手が魔法使いなら、イシュはもちろん、軍隊呼んだって役に立たない可能性大だし……あんたみたいなひよっこ魔女なんて、もっての他よ』
「べ、別に私が助けに行こうなんて……」
『思ってたくせに。あんた、妙に正義感だけは強そうだからさ。無鉄砲なところがあるって、イシュから聞いているわよ』
「う……」
『余計な事はしないこと。ユーリウスに言われた通り、おとなしく家の中で待っていなさい。いいわね?』
「……はい」
『役に立てないなら、せめて足手まといになるんじゃないわよ』
ウルカの歯に衣着せぬ助言に、カリンはぐうの音も出なかった。足元には、目が覚めてしまったらしいピンクドラゴンが、なぐさめるようにすり寄ってきた。
(足手まとい……そうだよね)
カリンはドラゴンを抱き上げると、その小さく温かい体を両腕でそっと包み込んだ。
(私にできることって何だろう。ううん、そうじゃない)
これまでのカリンなら、ユーリウスの後を追いかけて、がむしゃらに飛び出していったかもしれない。
しかし今のカリンは、闇雲に行動するのではなく、自分が何をすべきなのかと冷静に考えていた。




