(5)
仮に、ユーリウスのもとで魔法の勉強をするとなれば、カリンの住む西の森からここまでは遠すぎるので、通う事はとても難しいだろう。すると、ここに置いてもらうことになるのだろうか。一体どのくらいの期間、ここで勉強することになるのだろう……一年? それとも二年? 魔法の修行が、そんな短いわけがない。
きっとイシュは、カリンのためを思って、ユーリウスに頼んでくれたのだ。学校の勉強も大事だが、魔女のカリンにとって、魔法の勉強が最優先事項だ。それは分かっている……しかしそうなると、しばらくはあの野原へ行くことが出来なくなってしまう。当然、イシュと会う機会も減ってしまうだろう。
カリンは複雑な気持ちで、隣に座るユーリウスをそっと見上げた。すると、その横顔がこわばっている事に気づく。よく見ると、テーブルの下の手がしきりに膝の上でトン、トン、と不規則なリズムを刻んでいて、どこか落ち着かない様子だ。
(どうしたんだろう。やっぱり魔力が消耗して具合が悪いのに、無理しているのかしら)
一方、シェリマは果実酒のグラスを手に、とてもリラックスした様子だった。オレンジ色の灯りの下で蜂蜜色のまつ毛が輝き、こうして見ると本当に綺麗な女性である。
どことなく固い表情のユーリウスに対し、シェリマは緊張を解くような、やわらかい口調で話し出す。
「それで、最近はどうだ。元気か?」
「ええ、まあ」
「食事はちゃんととっているか? お前の一番の悪い癖は、生活が不規則なところだからな」
ユーリウスは頬を赤らめ、視線をさまよわせた。シェリマの口調は柔らかいが、話す内容はまるで軍の隊長が、部下の兵士に話しているようだった。
しばらく他愛の無い会話を続けていた二人だが、次第に口数が減っていくユーリウスに、シェリマは半ばあきらめた様子で、今度はカリンに話題を振った。
「ところで魔女の娘が、ユーリと知り合いだったとはな」
「そのう、昨日、初めてお会いしたばかりです……」
「そうか。ユーリはとても優秀な魔導師だからな。魔法の指導をしてもらうならば、これ以上適任者はいないだろう。王宮の魔法局に籍を置いていた頃は、それこそ第一級魔導師のベイゼル殿に次ぐ大魔導師と、周囲の期待も評判も高くて……」
ガタン、と大きな音を立ててユーリウスが椅子から立ち上がった。その表情は、なぜか酷く傷ついたように真っ青だった。
「僕は優秀なんかじゃない……大魔導師なんて、あなたに呼ばれる資格ありません」
「ユーリ……お前まさか、まだあの時の事を気にして……」
「失礼します」
そう言って、ユーリウスは寝室へと引っ込んでしまった。
後に残されたシェリマとカリンは、思わずお互いの顔を見合わせたが、やがてシェリマが暗い顔つきで手元のグラスに視線を落とした。
カリンはどうしても気になって、おずおずと口を開いた。
「『あの時の事』って、何のことですか?」
「……二年前、ケルベリ地方であった戦での事だ」
「その戦って、もしかしてイシュが足をけがした時の……?」
「ああ、そうだ。同盟を結んでいたガムランが寝返ったことを、ガムラン王家に嫁いでいた私がユーリに内密に知らせたのだ……イシュを、ひいてはアーンシェを守るために」
初めて耳にするイシュとシェリマの過去に、カリンは聞きたいような聞きたくないような、複雑な心境に陥る。知ってしまえば、もう後戻りできない予感がした。
知りすぎるのは良くないことだ、と言ったのは誰だろう……あれは亡くなった母の言葉だったか。
しかし生きていると、知らなくていい事を知ってしまう時もある。だが、知ったら不幸になると分かっていても、知らなくてはならない事もある。
扉の向こう側には、想像できない深い闇が広がっている可能性がある。後から考えてみると、この時シェリマから聞いた話は、そこへ踏み込むという予兆だったのかもしれない。
「本来ならば、私はガムランと命運を共にするところだった。しかし、あのまま下手にガムランに残っていたら、祖国との政治的な取引に利用される恐れがあった。ガムラン側が私を人質にとって、アーンシェを揺さぶるやもしれぬと思ったんだ」
「人質……」
シェリマは小さくため息をついた。
「弟はああ見えて、言うほど冷徹になりきれない甘さがある。唯一、血の繋がった姉である私を、ガムラン王家に嫁いだ身であると、頭で理解はしていても、いざとなったら切り捨てるのに迷いが出る恐れがあった」
厳しい言葉とは裏腹に、シェリマの寂しげな眼差しが、カリンの胸を打つ。
「ほんの一瞬の迷いが、滅びの道へと繋がる。まるで小さな穴が、ダムを決壊させてしまうようにな」
「……」
「そしてユーリは、自らの手で私を救いに行けなかった事に、いまだに負い目を感じているらしい」
「え……」
「ユーリの助けもあったからこそ、私はガムランから無事脱出できたというのに」
シェリマはまだ飲みかけのグラスを押しやると、物思いにふけるような表情でテーブルに頬杖をついた。
「しかしユーリは……あの子はなんでも自分の手でやらないと、気が済まない性格なんだ。強い魔力を持つ稀有な存在ゆえに、小さい頃からずっとひとりぼっちだと信じて生きてきたからな」
「ユーリウスさんは、ひとりぼっちなんですか?」
シェリマは小さく微笑んで首を振った。
「そう思い込んでいるだけだ。あの子の周りには、いつだって理解者がいたのに。むろん弟も私も、その一人だ。だがそれに気づけないなんて、かわいそうな子だ」
「……」
「たった一人の力で出来ることなんて、この世にただの一つだって無い。いつだって、どんなときだって、誰かの支えがあってこそなのに。ユーリはそれを、まだ分かっていないんだ」
シェリマは悲しそうな微笑を浮かべて、そっと目を伏せた。
その夜シェリマが帰ってしまっても、ユーリウスはあいかわらず寝室に閉じこもったままなので、カリンはたった一人で夕食をとった。
食事が終わっても寝るには少し早い時間だったが、他にやることもないカリンは寝巻に着替えて早々にベッドに入った。昼間連れ帰ったピンクのドラゴンは、ベッドの横にしつらえた寝床に丸まり、早々に小さな寝息を立てている。
暗い客間のベッドの中で、カリンは窓の外をながめた。無数の星に混じって、小さな星が一つ、弱々しく輝いている。それを見たカリンの脳裏に、ユーリウスの言葉がよぎった。
――イシュは、僕のたった一人の友達だけど。イシュには、僕以外にもたくさん友達がいるけどね。
イシュがいたのに、どうしてユーリウスはひとりぼっちだって思うのだろう。もしかしたら、戦場へ旅立つイシュの後姿を見て、ひとり取り残された気持ちになったのかもしれない。だってカリンにも似たような経験がある……イシュが海賊討伐のため、カリンに黙って離宮を旅立ったことがあったのだ。あの時のショックは、いまだに忘れられない。
シェリマを自らの手で救えなかった事を、いまだに悔やんでいるのはなぜなのか。
ユーリウスの紅潮した横顔、熱を含んだ瞳……そしてシェリマの前での、あの落ち着きの無い、緊張した様子……と、そこでカリンは「ああ」とため息をついた。
(きっと、好きなんだ)
好きな人だからこそ、自分の手で守れなかったことを悔やんでいるのだ。自分で自分を、許せないのだ。
(かわいそうな子、か……)
シェリマの寂しそうな横顔が、カリンの頭によぎる。このままでは、シェリマもかわいそうだと思うのは、おこがましいだろうか。
カリンはあれこれ考えていたが、やがて知らないうちに眠りについていた。
それから、どのくらい眠ったのだろうか……小さな物音に、カリンははっと目を覚ました。
部屋の中は真っ暗で、窓を見上げると相変わらず星がきらきらと瞬いている。まだ真夜中に違いない。
カリンはベッドから抜けだすと、リビングをのぞきこむ。静まり返った室内を見回すと、どこかの部屋へ続く扉が開けっ放しになっているのが見えた。カリンはその扉に、吸い寄せられるように近づくと、扉の向こうへ体をすべりこませた。
中は納戸のような小さな部屋で、中央にはしごがある。カリンは迷わずそれによじ登ると、小さく開いた出窓から顔を出した。
小さな屋根がついた出口からは、真っ黒な闇の中でさざめく木の葉が、夜の海のように波打っている。まるで闇色に染まった草原のようだ。そして、その真ん中にはユーリウスの姿があった。




