(2)
翌朝。早く目覚めてしまったカリンは、ベッドを抜け出すと、まだ薄暗いリビングにそっとのぞきこんだ。
どうやらユーリウスの寝室は、リビングの奥にある扉の向こうのようだ。静まり返っている様子から、部屋の主がまだ眠っているらしい事がうかがえる。
(どうしよう……朝ご飯、用意した方がいいかしら? それともお掃除が先?)
リビングは昨夜同様か、それ以上に雑然としていた。テーブルの上は、昨夜の残骸であろう空になった果実酒のボトルが転がり、その周りには汚れたグラスやら食べかけのチーズやらが散乱している。
カリンは少し戸惑いつつも、音を立てないよう静かにテーブルを片付け始めた。片付けながら改めて室内を見回すと、とても掃除が行き届いているとは言い難い。
(もしかして他の部屋も、すごいのかしら)
こわごわ台所をのぞいてみたカリンは、今度は別の意味で目を丸くした。そこは予想に反して、空っぽだったからだ。鍋ひとつ、冷蔵庫すら見当たらない。これでは朝食を作るどころではなかった。
「……お腹、減ったの?」
いつの間にか台所の入り口には、ユーリウスが立っていた。まだ白い寝巻姿で、すそが切れた緑色の長いローブを羽織っている。銀色の髪は、櫛目を通す必要がないのだろう、昨夜と変わらずサラサラだった。
「あの私、朝ご飯作ろうと思って……台所使わせてもらっても構いませんか」
「お好きにどうぞ。あ、僕の分はいらないから。それと、食べ物なら、ここにある」
ユーリウスは、床板にはめられた小さな扉を指し示す。カリンはひざまずいて扉を開くと、中から大量の食料が出てきた。
「そこが冷蔵庫。使いたいもの出したら扉は閉めておいてね。閉めるの忘れると、たぶん一時間後にはこの部屋中凍ってしまうから」
そう言い残し、ユーリウスは気だるそうな足取りで、自分の寝室へと引き上げてしまった。
一人その場に残されたカリンは、しばらく床板にひざまずいたままぼんやりとしていたが、やがて朝食に使えそうな食料を見つくろうと、今度はあちこちの戸棚を開けて鍋やらフライパンやら引っぱり出した。
(あの人、きっとあまり食べないから、あんなにだるそうなんじゃないかな……)
カリンはオムレツの卵を割りほぐしながら、ついユーリウスの具合が気になってしまう。昨夜のシチューもほとんど手つかずで、ただ酒のグラスばかり口に運んでいた。
おせっかいと知りつつも、ユーリウスの分のオムレツも作ると、火であぶったパンにバターと蜂蜜をたっぷり塗ったものと一緒にトレーに乗せた。
カリンが緊張しつつ寝室の扉をノックしたら、ややあって扉の向こうから「どうぞ」と、くぐもった声が聞こえてきた。深呼吸をしてから、朝食のトレーを抱えて扉を押し開ける。
「あのっ……あの、やっぱり作っちゃいました。朝ご飯」
天蓋付きのベッドは、こじんまりとした部屋には不釣合いなくらい大きく、プラム色の壁紙とカーテンは、部屋全体を重苦しく見せていた。
白いシーツに横たわったユーリウスは、ロウのように真っ白い顔を天井に向けたまま、掠れた声でつぶやいた。
「朝は、食欲ないんだ」
「でも」
「なんか疲れたな。二日酔いかも」
「……あの、薬を持ってきましょうか」
「薬なんかないよ、作らなきゃ」
「じゃあ私、作ります」
そこでユーリウスは、はじめてカリンに視線を移した。
「君、二日酔いの薬を作れるの?」
「はい。前に、シモンズさんのために作ったことがあります」
「へえ……なら作ってもらおうかな」
「でも」
カリンは一呼吸おくと、勇気を出して言葉を続ける。
「でも、空腹でお薬飲むと、具合が悪くなっちゃいます」
「……僕、お腹空いてないって言ったよね?」
「食欲なくても、お薬飲む前には何か食べなくちゃって、モズおばさんも……」
「モズおばさん?」
「私の近所に住んでいる人で、よくお世話になってるんです」
するとユーリウスは突然ベッドから飛び降りると、カリンの手からトレーを取り上げた。
「テーブルが必要だな」
ユーリウスがふわりと頭を振って髪をひるがえすと、部屋の中央に背の低い小さな丸テーブルと椅子が二つ現れた。カリンは思わず感嘆の声をあげてしまう。
「わあっ、すごい……!」
ユーリウスは冷ややかな目でカリンを見やると、さっさとトレーをテーブルの上に置いた。それから、優雅な動作でガウンをひるがえしつつ椅子のひとつに座った。
「君はそっちにお座り。一緒に食べよう」
「あ……はい」
「その前に、お茶を用意してきた方がいいね。このパン甘そうだから、きっと飲み物が欲しくなるよ」
そう言って「だろ?」と、首を傾げて同意を求めるユーリウスに、カリンは目を瞬いてコクコクとうなずいた。
朝食後、さっそく魔法の指導がはじまった。
ユーリウスがリビングの真ん中で「この部屋を使おう」と言った時、カリンは一瞬『こんなに散らかってて、一体どこで出来るのかしら?』と首をひねったが、その疑問はすぐに解決した。ユーリウスが魔法で、あっという間にリビングを空っぽにしてしまったからだ。
「テーブルだけは残さないとね」
そう言って、唯一残されたダイニングテーブルに両手をついたユーリウスは、カリンが口を開く前に、なにやら呪文を唱え始めた。するとテーブルの中央に、青白い光で描かれた魔法陣が浮かび上がる。
「とりあえず、君の魔法を見せてもらおうか。まずは基本のものから」
「あ、あの……私、薬草がないと」
「薬草?」
カリンは材料、主に薬草が無くては、わずかな魔力も使えない。
ユーリウスは、魔法陣から数種類の薬草を出すと、再びカリンに向かって「どうぞ」と促す。それから午前中は、ずっとユーリウスに指示されるまま魔法を使っていたので、カリンはすっかり疲れ果ててしまった。
お昼に差し掛かった頃になって、ようやくユーリウスは「うん、まずはこれくらいでいいよ」と言うと、あっという間に魔法陣が消え、もとあった家具や雑多なものが再び現れて定位置に戻った。朝食前とほとんど変わらない部屋の様子に、カリンは『なんでわざわざ散らかっている状態に戻すのかしら』と、辺りを見回しながら困惑する。
ユーリウスは、そんなカリンの気持ちを察したのか「この方が落ち着くんだ」と一言つぶやくと、いつの間にか窓辺に現れた大きな箱をのぞきこんだ。
「王宮経由で、仕事の依頼がきたみたいだ」
ユーリウスは、面倒そうに箱の中から書状のようなものを取り出すと、封を開いて中身を読みだす。
「ふーん、ドラゴンね……どうしようかな」
ユーリウスは書状から顔を上げると、カリンを振り返った。
「午後は少し出かけようか。ドラゴンの子って見たことある?」
「ありません……」
「じゃ、決まり」
ユーリウスは手にした書状を放り投げると、あ然としているカリンに「お昼にしよう」と言って、すべるような足取りで台所へと消えてしまった。カリンがあわてて後を追うと、台所では鍋を片手に、何やら考えこんでいるユーリウスの姿があった。
「僕、シチューしか作れないんだ。君、オムレツ以外に何か作れる?」
「簡単なものでしたら」
「じゃあ、昼食もお願いするよ。僕は何でも食べられるから……そうだ、たしか冷蔵庫に蒸し鶏があったな。サンドウィッチは作れる? トマトの入ったやつがいいな」
「はい、作れます」
「ならば、それで昼食は簡単にすませてしまおう。ホウキ持ってきてるよね?」
「はい」
「ちょっと飛ぶけど、君の魔力は持つかな……君がサンドウィッチを作っている間に、僕が何か薬を調合しておいてあげる。出掛ける前にお飲み。そうすれば魔力切れで、後から気分の悪い思いをしなくてすむ」
台所を出て行くユーリウスの後姿を見ながら、カリンは目を瞬いた。
(結構やさしい人なのかも)
冷たい表情に見えたのは、単に表情が乏しいだけ。行動はもちろん、言葉の端々からもカリンを気づかう気持ちが伝わってくる。カリンはふと、ユーリウスの口から、イシュについて聞いてみたい衝動に駆られた。
「あの……」
「ん?」
「イシュのこと、その……昔から知っているんですか」
ダイニングテーブルに屈みこんでいたユーリウスは、ゆっくりと顔を上げて、台所の入り口に立つカリンを見つめた。『余計なお喋りだったかな』と、カリンが不安になると、ユーリウスは
は思いがけずやさしい口調でつぶやいた。
「イシュは、僕のたった一人の友達だよ」
「え……」
「イシュには、僕以外にもたくさん友達がいるけどね」
ユーリウスは再びテーブルに向き直ると、水色に光る液体を空中で操り出す。きらきら光る液体を全て小瓶に移して封をすると、カリンに「はい」と差し出した。
「薬、忘れずに飲むんだよ? お昼ができたら呼んで」
そう言って、ユーリウスは再び寝室に引っ込んでしまった。




