(1)
アーンシェ国の王都カシュターの南に位置する、国境沿いに広がる森の奥。そこに、かつての大魔導師ユーリウス・ダルレの住処があった。
「……いらっしゃい」
玄関に現れた背の高い男は、驚くほど顔色が悪く、あいさつの声は低くぞんざいな印象を受けた。
カリンは不安な気持ちで、隣に立つイシュを見上げる。イシュはいつもの穏やかな微笑を浮かべると「お邪魔するよ」と言ってカリンの手を取り、慣れた足取りで部屋の奥へと進んだ。
緑の蔦に覆われた大木の洞の扉は、おとぎばなしのような可愛らしいのに、一歩玄関に入ると足の踏み場もないほど雑然としていた。どうやらこの家の主人は片付けが嫌いか苦手らしい。
「椅子が足りないな」
イシュは近くの椅子を引き寄せると、積み上げられた本を手慣れた様子で床に下ろし、カリンに座るよう勧めた。カリンは落ち着かない気持ちで、浅く腰を下ろす。
ユーリウスは気だるそうに、部屋の奥で本に埋もれている大きなロッキングチェアーに、ドサリと身を投げだした。
イシュは立ったまま腕組みすると、小さくため息をつく。
「また寝不足なのか、ユーリ」
「僕はいつだって寝不足だよ……いつ寝たかも覚えちゃいない。まあ君も座ったら? そら、椅子だ……」
頬杖をついたユーリウスが、片手をふわりと振ると、どこからともなく美しい絹張りの椅子が現れた。カリンは目を丸くして、その椅子をまじまじと見つめる。
「こういう魔法を見るのは初めて? 小さな魔女ちゃん」
カリンの様子を、虚ろな双眸でながめていたユーリウスは、フッと吐息のような笑いを形の良い唇に浮かべた。カリンは緊張気味に小さくうなずくと、頬杖をついたまま目を細めるユーリウスをそっとながめた。
(本当に、この人とうまくやっていけるかなあ……)
学校が一週間の秋休みになったので、カリンはイシュに誘われるまま、一緒に大魔導師ユーリウスのもとを訪れていた。
ユーリウスはイシュの古い友人だそうで、かつて王宮の魔法局で、筆頭魔導師を務めていたという。
イシュは『とても楽しい、いい奴だよ』と説明していたが、カリンは半信半疑で、あくびを噛み殺しているユーリウスを見つめる。
(いい人かもしれないけど、とても楽しいって、本当かしら……?)
ユーリウスの長い銀髪は、ナイフのように冴え冴えとして冷たく、その表情はどこか冷めたような無関心さが滲み出ていて、とてもイシュの言う『楽しい奴』には見えなかった。また細面の中性的な顔からは、およそ温かみや親しみは、今のところ感じられない。
(この人と、三日も一緒にいなきゃいけないなんて……)
カリンは、イシュが帰ってしまった後、ユーリウスと二人きりになってしまう事を考えて、本気で不安になってしまう。
(ううん、がんばらなくっちゃ。せっかくイシュが、私に魔法を勉強するチャンスを作ってくれたのだもの)
王宮の魔導師だった人に師事できるなんて、イシュの紹介がなければ到底無理だ。普通の魔法使いや魔女にとってはまたとない幸運だと、カリンもよく分かっている。
ユーリウスは、イシュに向けてゆっくりと口を開いた。
「この子、ずいぶん小さくみえるけど、いくつ?」
「十四、もうすぐ十五になるんだっけ?」
「あの、はい……たぶん」
カリンは曖昧な返事とともにうなずいた。するとユーリウスは眠そうな目を伏せる。
「ふーん……確か魔法は独学で、誰かに習ったことは無いって言ってたね?」
「ああ、母親の本を使って勉強しているそうだ……ね、魔女さん?」
「あ、はいっ……」
突然水を向けられ、カリンはあわてて背筋を伸ばした。
(とにかく、三日間がんばらなきゃ。だいじょうぶ、イシュの友達だもの……悪いひとのはずない)
カリンは無意識に爪を噛みながら、そんなことを考えていたので、ユーリウスとイシュの会話はあまり聞こえてなかった。
「僕個人の意見としては、もう少し大きくなってからの方がいいと思う。あんまり小さい頃から指導されると、柔軟な魔力が育たなくなってしまう気がするんだ」
「でも君自身は、もっと若い頃から魔導師に師事していたんだろう?」
「まあね。僕は事情が違うから……」
そこで言葉を切ったユーリウスは、ちらりとカリンを見やった。
「小さな魔女ちゃん、聞いてる?」
「……は、はいっ」
あわてたように顔を上げたカリンの目に、ユーリウスの冷やかな視線がまともにぶつかった。
ユーリウスは目を細めると、薄い唇をかすかに開いて「分かった」と短くつぶやいた。
「ひとまず、今回は預かるよ
「ありがとうユーリ。君ならきっと魔女さんの力になってくれると思った」
「あとは、この子のやる気次第だけどね。さ、そろそろ夕食の準備をするか……暗くなってきたことだし」
その言葉に、カリンは部屋に唯一ある小さな窓越しに外を見た。あまり磨かれていない、曇ったガラス越しに射しこむ光は、すっかりあかね色に染まっていた。
その夜、ユーリウスは奥の客間に、カリンとイシュの分のベッドを用意してくれた。
いきなり今夜からユーリウスと二人きりにならずに済むと知り、カリンはあからさまにホッとした顔を見せてしまい、イシュの失笑を買った。
「大丈夫。心配しなくてもユーリはやさしいよ」
「……はい」
イシュの言葉に、カリンは複雑な気持ちで夕食の席に着いた。森のきのこがたっぷり入ったシチューはやさしい味がして、カリンの緊張を少しだけほぐしてくれたが、それでも斜め前に座るユーリウスになかなか話しかける事ができなかった。
一方イシュは、ユーリウスと果実酒を酌み交わしながら、いつもよりリラックスして陽気な様子だった。だがユーリウスは相変わらず口数少なく、控え目な微笑を見せるだけだった。
それでも二人の間には、どこか揺るぎ無い、誰にも介入できない深いつながりを感じさせた。カリンは、ユーリウスどころかイシュまでも、初めて会う知らない人のように思え、完全に取り残された気分になった。
食事が終えたカリンは、あいかわらず果実酒のグラスを傾けている二人を居間に残し、早々に客間へと引っ込むことにした。
(今日は、疲れた……)
半日かけて、足場の悪い田舎道を馬車に揺られてきたので、カリンの体の節々は悲鳴を上げていた。だが、はじめての場所に、はじめて会う魔導師と、今日一日でいろいろありすぎて、目が冴えてしまい、なかなか寝付けそうになかった。
(明日の朝になったら、イシュが帰っちゃう……どうしよう……)
灯りを落として、窓から差しこむ月の光だけになると、カリンはすっかり心細くなった。部屋の反対側の、イシュのために用意されたベッドを見つめながら、カリンは小さく丸くなる。
やがて眠ることをあきめたカリンは、そっとベッドから起き上がると、薄っすらとリビングの光が漏れる扉の前にやってきた。すると扉の向こうから、二人の会話が切れ切れに聞こえてきた。
「……それで、姉上は何と?」
「知らないよ。果実酒を受け取って、さっさとお帰りになられた」
「馬鹿だな。どうして引き止めなかった」
「ふん……君と違って、ご婦人のあつかいに慣れてないんでね」
ユーリウスの言葉に続いて、イシュの軽い笑い声と共に、椅子をカタリと引く音が聞こえた。
「さてと、そろそろ退散するか……魔女さんはもう寝たかな」
カリンはあわてて扉から離れると、間一髪でベッドに飛び込んだ。
扉が小さな音を立てて開くのが分かり、カリンは必死に寝たフリを決め込んで、体を丸めたままじっとする。
やがてそっと扉が閉まる音が聞こえ、カリンはホッとして再びベッドの上に身を起こして耳をすました。
「よく寝てる。馬車に揺られたから疲れたんだろう」
「本当に泊まっていかないのか?」
「ああ、小さくても女の子だからね……同じ部屋に泊まるのは、やっぱり気がひける」
「僕のベッドを半分貸すけど?」
「君と一緒に? 尚更ごめんだよ、そんなの」
(えっ……イシュが帰っちゃうの?)
カリンは固唾を呑んで、二人の会話に耳を傾けていたが、やがて疲労からか、いつの間にか眠りに落ちていたようだ。
カリンは夢を見ていた。だかそれは、決して楽しい夢ではなかった。
夢の中で、カリンは一生懸命イシュを探していた。でもどこにも見つからず、ずっと探し続けていた……いつまでも、いつまでも。




