(15)
イシュはカリンの手を取ると、その甲に小さくキスを落とした。周囲の人垣がどよめく中、カリンは目を丸くしてイシュの姿を見つめる。
白地に銀色の美しい刺繍を施した長衣に、深い海のように青いマントを身につけたイシュは、いつにも増して王子らしい風格を漂わせている。そのあまりの麗しさに、カリンはどぎまぎしながら視線を泳がせた。
「魔女さん、こっちだよ」
イシュに手を取られたカリンは、夜風を楽しむ人々が集うテラスを抜け、甘い花の香りに満ちた中庭へと誘われた。
カリンは畑ばかりの裏庭しか見たことなかったが、こちらの庭は美しい花が咲き乱れ、月の光を反射して鏡のように光る人工池が、辺りの風景を幻想的に映し出している。薔薇の蔦がからまるアーチ状のトンネルを抜け、白く輝く小石を敷き詰めた道を抜けると、白い大理石でつくられた小さな東屋が見えた。
イシュは、カリンを東屋の中の腰掛けに座らせると、その隣に並んで腰を下ろした。
カリンが隣を見上げると、甘い微笑を浮かべたイシュが見つめ返した。
「思った通り、可愛い」
「えっ」
「ドレス良く似合ってる。それから、その髪も可愛い」
カリンは恥ずかしくなって視線をそらした。澄んだ夜の空気は、熱くなった頬にひんやりと心地良かった。
「ずいぶん楽しそうに踊っていたね。疲れた?」
「いいえ、ちっとも。その、すごく楽しいです」
「そっか……でも、僕はちょっと残念だな」
見上げたイシュの横顔が、ほんの少しだけ憂いを帯びていた。
「この足じゃ、魔女さんと踊れないからね」
「あ……」
「でも、いつか」
イシュの金色の髪が月明かりを浴びて、白い砂丘のようにサラサラと風に流れる。
「いつか、この足が良くなったら……その時は、僕と一緒に踊って欲しいな」
カリンは一瞬言葉を失うと、それからうつむきがちに「はい」と震える声でつぶやいた。イシュは不思議そうに首をかしげると、カリンの顔をのぞきこむ。
「どうしたの?」
「……私、すっごく嫌な子なんです」
カリンは泣くまいと、ギュッと眉を寄せた。イシュは、ますます困惑した様子でカリンの頬を撫でると「理由を聞かせてくれる?」とやさしく問う。
「私、本当は……イシュの足が、ずっと悪いままならなぁって……そう思うんだもの」
「……」
「だって、そうすればイシュは、もう戦争へ行かなくても済むもの。そうすれば……そうすれば、ずっと」
カリンは、あふれる涙を止めることが出来なかった。
「ずっと、あの野原で会えるもん」
「魔女さん……」
イシュはカリンの小さな身体を抱き寄せた。
「泣かないで、魔女さん……もう、どこへも行かないから。たとえ足が良くなっても……」
「嘘、そんなの嘘だもん。だってイシュは……何も言わずに、行っちゃうんだもん……」
「魔女さん」
「もう、どこへも行っちゃやだ……やだよう……」
やっと本当の事が言えた……これが、カリンの正直な気持ち。ずっとずっと、イシュに伝えたかった事。
あの手紙を受け取ってから、ずっと……いや、きっとその前から、初めて野原で出会った時から思っていた事。
野原で会う度に、また来てくれるかしら、次はいつ会えるのだろうと思った。顔が見れた日は嬉しくて、それだけで一日中しあわせになれた。逆に会えない日は、次に会える日が待ち遠しくてしょうがなかった。
楽しい事があれば、イシュに話したくなった。
新しい事を知れば、イシュに聞いてもらいたくなった。
面白い事があれば、イシュにも教えて一緒に笑いたかった。
(ずっと、イシュに会いたい。イシュが大好き)
泣きじゃくるカリンを、イシュは小さな背中を何度も撫でた。
「もう、どこにも行かない……行けないよ。なぜだか分かる?」
カリンが涙に濡れた顔を上げると、その頬にこぼれ落ちた雫を、イシュの長い指がそっとすくい取る。
「君みたいなお転婆な魔女さんは、放っておけない。危なっかしくて目が離せないよ。まさか兵士の目を盗んで船に忍び込んだ挙句、槍のホウキに乗って海賊船に突っ込むんだから」
「だって……!」
「傷だらけになっちゃうし」
「あれはマストから落っこちたから……」
「自分が傷だらけなのに……僕の足の心配ばかりしているし」
イシュは一瞬泣きそうな顔をすると、淡い茶色の瞳を細める。口元は固く結ばれ、何か激しい衝動を飲み込んでいるような表情だった。
「ごめんなさい、私、心配ばかりかけて」
カリンが眉を下げると、イシュは小さく笑ってカリンの身体を軽々と抱き上げ、ひざに乗せた。カリンは真っ赤になりながらも、イシュの腕の中でそっと目を閉じる。
さやさやと風が吹いて、花壇に息づく薔薇の花弁を揺らすと、甘やかな花の香りが空気に溶け込み、辺りはうっとりするような大気に包みこまれる。
やさしい時間は、ゆっくりと流れていった。
やがてカリンは、風に乗って微かに聞こえてくるパーティーの喧騒を耳にしながら、ウトウトと眠りの淵を漂い始めていた。
「魔女さん、こんなところで寝ると、風邪引いちゃうよ?」
「……ん……はい……」
小さなあくびをするカリンを腕に、イシュは微笑みながら吐息を漏らした。
「おやすみ、僕の小さな魔女さん」
(第二部、おわり)




