(10)
シェリマは大きく息をつくと、顔を伏せたまま肩を震わせた。カリンは怒られると覚悟して、ぎゅっと目を閉じたのだが。
「クッ……」
「!?」
カリンが顔を上げると、そこには笑いを噛み殺そうとして失敗したシェリマが、肩をゆらしながら口元を押さえていた。
「まいったな。こんな無鉄砲な魔女の娘にかかっては、振り回されるイシュはさぞかし大変だろうな」
「あ、あの……怒ってないんですか?」
「お前みたいな度胸のある娘は、個人的には嫌いではない」
シェリマは両膝に手を置いて体を屈ませると、柔らかい微笑を浮かべてカリンの顔をのぞきこむ。その笑顔は、イシュにとてもよく似ていた。同時にイシュを思い出してしまい、自然と目が潤んでしまう。
「心配するな。弟は戦いではなく、交渉に向かったのだ」
「交渉?」
「制海権と引き換えに、航路の安全を保障させる。アーンシェの管轄は、ケシア島付近まで広がっているが、海域についてはいまだ曖昧なんだ。今回はっきりと線引きが出来れば、治安の改善も期待できる」
「で、でも、海賊って……大丈夫なんですか」
シェリマはテーブルに寄りかかると、腕組みして口元を引き結んだ。
「弟は兵法もだが、交渉術にも長けている。確かに海賊らは気が短くて荒くれ者ばかりだが、サルガド船のセラーノ船長なら話は別だ。セラーノの船は、このマドレア海でも一、二を争う海賊船だから、奴等との交渉が治安改善の決め手となる」
シェリマの説明は難しくて、カリンは半分も理解できてない気がしたが、何が起こっているか知りたくて、懸命に耳を傾ける。
「とにかく、我々は万が一のための待機部隊だ。交渉が決裂すれば、すぐさま応援に向かうが、そうなると恐らく……」
そこでシェリマは言葉を切ると、カリンから目を逸らす……その横顔にほんの一瞬、苦渋の色が滲んだ。
「いや、悲観的にも楽観的にも、下手な憶測はやめておこう。戦場では何が起こるか分からないから、常に警戒を怠らないようにしなければ」
「……」
「とにかく、しばらくは待機だ。お前はこの部屋で大人しくしてろ」
シェリマは扉の前でチラリと一瞬カリンを見やり、それから部屋を出て行った。その後ガチャリと大きな音が響いたので、カリンははっとして急いで扉の取っ手に手をかけたが……すでに外から鍵が掛けられていた。
(閉じ込められた?)
カリンはしばらくの間、呆然と扉を見つめていたが、ふと反対側の壁に取り付けられた円窓に目をとめた。窓からは、青い水平線が見えた。
カリンはもともと視力が良いが、彼女自身の魔力も相まって、双眼鏡を使う常人と同じように肉眼でも遥か遠くまで見渡すことができた。カリンの視界には、水平線の彼方に停泊する二艘の船が映った。
(もしかして、あれがイシュの乗っている船と、海賊船?)
カリンは丸窓に駆け寄ると、そっと押し開いた。一瞬、強い風がゴオッと吹き付けてきたが、構わず顔を近づける。窓は高い位置に設置されており、小さなカリンは背伸びをしないと、窓から首が出せない。
風に煽られながらも、どうにか首を出して船の胴体を見下ろした。残念ながら、足場は全く見当たらなかった。
がっかりしたカリンは窓を閉じると、テーブルの上によじ登って座り込んだ。ここからなら、窓の外が良く見える……空はいつの間にか白く濁り、青空が消えかけていた。今のところ雨雲は見当たらないが、視界はあまり良くない。
カリンは視線テーブルに戻すと、散乱している書類を眺める。なにやら難しい文字ばかりで、ちっとも読めそうにない。その傍らには、航海地図が広げられていた。
(この船は、今どの辺りにいるのかしら?)
カリンはしばらくの間、地図に描かれた印を指でなぞったりしていたが、ふと顔を上げて窓を見て驚いた。水平線はいつの間にか、濃い霧にすっぽりと包まれていたのだ……これではイシュの船の位置が確認できない。
カリンはテーブルを降りると、再び窓を開いた。
頭上からは、あわただしい無数の足音が響き、兵士の怒声が切れ切れに聞こえてくる。漏れ聞こえてくる会話から察するに、どうやら濃霧が発生したせいで、甲板でもちょっとした騒ぎになっているようだ。
「見ろ、光ったぞ!」
その叫び声に、カリンははっとして水平線に目を向ける。
爆音と共に、チカッと鈍い閃光が霧の中に走り、カリンは思わず窓から飛び退いた。
甲板から響く声と足音が激しさを増す中、カリンは恐ろしさのあまり両手で耳を塞ぐと、その場に小さくしゃがみこんだ。




