(2)
決まり悪さと恥ずかしさでカリンが小さくなると、イシュはすぐに申し訳なさそうにゆっくりと身を起こして立ち上がった。
「いきなり無理を言ってゴメンね。でも、こうして話しが出来てそれだけでも少し元気が出たよ……さ、暗くならないうちに帰るといい。でないと、お母さんが心配するよ」
「……母さんはいません。おととしに死んだから」
「え、じゃあ他のご家族は?」
カリンは身を固くして小さく首を振ると、イシュの顔から笑顔が消えた。
「もしかして、一人で暮らしているの?」
こくり、と無言でうなずくカリンの頭に、温かいものがそっと触れた。顔を上げると目の前にはイシュのいつくしむような、やさしい顔があった。
「えらいね、頑張っているんだ」
「……」
「ね、また会えないかな? 今日みたいに天気が良くて風が吹いていない日は、たいてい散歩に出るから……またこの野原に立ち寄るよ。そうしたら、話し相手になってくれる?」
カリンはイシュの茶色い瞳を見つめ、おずおずとうなずいた。イシュは明るく『約束だよ』と言って、それから野原を出て行った。
しばらくその方角を見つめていたカリンだったが、やがてフードをかぶり直すと、マントのすそを引きずるようにして来た道を引き返した。
「まったく、最近の若いモンときたらなってないね。うちの馬鹿息子はその筆頭だよ」
カリンと同じヴィスト村に住む中年婦人モズは、いつもと変わらぬ切り出しで愚痴をこぼし始めた。
ていねいに掃除された小さな家はこぎれいだが、カリンはほんの少しだけ居心地悪く感じてしまう。それは家のせいというよりも、主にこの婦人との会話によるものだった。
今日も腰痛に悩むモズ婦人のために、特別に調合した塗り薬を届けにきたカリンは、いつものようにキッチンでお茶をふるまう彼女の愚痴につき合わされていた。目の前には、カリンのためだけに切られた木の実のパイがどっかりと置かれている。
「あたしはズユの実はあんまり得意じゃないって言ってるのに。しかもクリームが濃すぎて、あたしみたいな体には毒じゃないか……城下町の有名菓子店で買ったんだかなんだか知らないけれど、せっかく送ってくるならもっと気のきいたモノにして欲しいもんだよ」
「でもモズおばさん、甘いモノ好きでしょ? すごくおいしいから、少しだけ食べてみたら……」
そう言いかけて、カリンはぱちんと口を閉じた。モズ婦人がイライラしたように、でも少し戸惑うようにパイの皿に手を伸ばしたからだ。
「……そりゃ、味見ぐらいしないと失礼だからね。ええ、いくら息子だからって礼儀ってもんがあるぐらい、あたしもよく分かっているつもりだよ」
「……」
「まったく、こんなもん送ってくる余裕があるなら、その分もっと顔を出せばいいのに。ホント気のきかない息子だよ……」
モズ婦人の息子は城下町で商売をしている。まだ独身だが、仕事が忙しいらしくめったにモズ婦人の住む実家に帰ってこないのだ。
憎まれ口を叩きながらも、彼女の口調からなんとなく淋しさを感じるカリンは、たとえ一度始まるとえんえんと続く愚痴でもつき合ってしまうのだった。
「そういや最近、戦場から帰ってきた王子様が離宮で静養してるそうだよ」
「王子さま?」
「ケルベリ地方はここ二、三年ほどアーンシェ国とガムラン領のあいだで国境争いの戦場になってるだろ? ガムランもいい加減あきらめればいいのに。あんな野蛮なヤツラが住んでるちっこい国が、この大国アーンシェにかなうはずないんだよ」
カリンたちのヴィスト村があるアーンシェ国はこの大陸では一番大きな国で、近隣諸国とは良好な友好関係を築いている。しかし近年、大陸を横断する広大な山岳地帯で力をつけてきたガムランの山岳民族が、その領土を拡大しようとアーンシェの国境で暴動を起こすようになった。
戦場は山岳地帯の広範囲へと広がり、その気候や風土に慣れてないアーンシェ軍は思いのほか苦戦を強いられているという。しかし、やはりそこは腐っても大国、このさき半年以内にも戦いは鎮圧されるであろうと言われていた。
「お気の毒なのは、その戦場で指揮してたっていう第二王子様だよ。なんでも戦場でけがをして、体が不自由になっちまったって聞くじゃないか」
「けがって、なんの?」
「ガムランの毒矢に足を射抜かれたらしいよ。かわいそうに。今は離宮で静養中だって聞くけど、あれじゃ一生まともに歩けないだろうって城下町でもっぱらうわさだよ」
「毒矢に足を……」
「もう将来も何も無いね。遠征には出られないだろうし、まだ二十歳過ぎたばかりだってのに、もう隠遁生活に入らなくちゃいけないなんて……若い身空で残念なことだよ」
カリンはふと、イシュの顔を思い浮かべた……世間知らずのカリンでも、彼がどこかしら高貴な生まれの人間であることは分かる。しかも足に怪我をしているのだ。
イシュこそ、その王子さまなのでは、とカリンは思った。