(8)
その夜、カリンはなかなか眠れず、ベッドで幾度となく寝返りを打っていた。
小さな客室は、シモンズの部屋のすぐ隣で、壁を隔てているのにもかかわらず、耳を澄ますと微かにいびきが聞こえてくる。
カリンは先刻会った、シェリマの顔を思い出す。イシュに似た面立ちに、柔らかい眼差し。微笑んだらきっとイシュと同じように、やさしくあたたかな陽だまりみたいな笑顔になるだろう。
それなのに、あんな冷たそうな防具に身を包んで、闇夜をぬって戦場へ向かうだなんて……カリンは説明のつかない焦燥感に駆られながら、国王の言葉を胸の奥でくり返した。
(魔法の言葉、かあ……)
カリンはベッドから半身を起こすと、暗闇の中で窓越しに半分欠けた月を見つめた。
伝えたい言葉がある。でも、それは誰かに伝えてもらうものじゃない。
(自分の口で、ちゃんと伝えたい)
カリンは、本当は怒っていた。無性に泣きたかった。
どうして戦場へ行くことをちゃんと話してくれなかったのか。たった一言でいいから、イシュの口から直接言って欲しかった。
(文句を言いに行くんだ)
イシュの顔を見れない事が、声が聞けない事がつらい。たとえこの先、野原で会えなくなったとしても、このまま別れるなんて絶対に嫌だ。
カリンはあふれる涙を、袖口で乱暴にぬぐう……泣いてる場合じゃない。
カリンはベッドを抜け出すと、昼間の服に着替えた。それから鞄の中身をチェックする。病気や怪我に効く薬草がいくつか入っていたので、そのまま入れておくことにする。
そして鞄の奥から、四つに折り畳んだ王宮内の地図を取り出して広げた。これは出発前にレアスが「いろいろ抜け道があって面白いよ」と、こっそり渡してくれたものだ。レアスの手描きだろうか、ところどころ分かりにくい箇所もあったが、それでも大体の位置を把握するには十分役立つ。
(だしか、北の水門って言ってたっけ)
地図で北の水門の位置を確認した後、鞄から小さなメモを取り出し、一枚ちぎってシモンズ宛の手紙を書いた。内容は黙って出ていく事と、それについてお詫びの言葉だった。
(イシュも私への手紙を書くとき、こんな気持ちだったのかな)
シモンズには申し訳ないと思ったが、時間は限られていた。カリンは鞄を斜めがけにすると、家から持参したホウキを手に、そっと部屋を抜け出した……窓から。
星空の綺麗な夜だった。
ホウキに乗ったカリンは、北の塔を越え、城壁を照らすかがり火を頼りに、北の水門まで飛んだ。
高台にそびえる城の北側は、大陸を横断する大河に面して断崖絶壁となっていて、下方のくぼんだ岩陰に設えたアーチ状の水門は、王宮の地下水路へとつながっている。
自然の防御壁と、その足場の悪さから、水門の外に立つ見張りはいないようだ。これはカリンにとって、とても都合がよかった。
カリンが上空から様子を見ていると、やがて灯りを消した大きな船が、ゆっくりと水門から姿を現した。黒いさざなみが水面に立ち、おだやかな静粛の中を、禍々しい鉄の塊がゆっくりと進んでいく。
(船の後ろの方には、人がいなさそう)
カリンはゆっくりと下降して、船の後方へと近づく。目をこらして見張りがいない事を確認すると、ふわりと音もなく甲板に舞い降りた。灯りが無いまま移動する船内では、暗闇がカリンの姿をうまく隠してくれた。
(どうか見つかりませんように)
カリンはホウキを手にふわり、ふわりと浮き上がるようにして足音を消しながら歩き、どうにか見張りの目をくぐり抜けて、地下の貯蔵庫らしき部屋にたどりつくことができた。
(ここに隠れて、朝が来るのを待とう)
夜が明ける頃には、船はきっと海に出てしまっているはずだ。勝手に乗船して怒られるだろうが、理由を話して一生懸命謝ろう。
カリンは箱や樽が積み上げられた物陰に身を寄せると、極度の緊張感から解放されたせいか、あっという間に眠りに落ちていった。




