月の輝く夜に 3
刹那の空白と静寂。それを打ち破るように乾いた破裂音が空間に響く。その音に一瞬怯み、俺は頬を引きつらせて目を閉じる。痛みは……どうやらまだないようだ。この音が男のナイフによるものでないとすれば、一体、今ここで何が起こっているんだ。
目をそっと開けると、目の前にあったナイフがいつの間にかなくなっていた。そして視線を移し、あの男が、どこか遠くの方を見ている事に気づいた。
「何だ…………てめぇ」
俺を見下していた時とは違う、唸るような声を男は上げる。男に首を押えつけられているせいで、俺は男が誰と喋っているのか全く分からなかった。
「……いきなり何だとは随分な言い方だな。だったら言わせてもらうが、傍から見れば、貴様は大分物騒な事をしているように見えるが?」
「は、てめぇの方がよっぽど物騒なもんぶっ放してんじゃねぇか。誰だかわかんねぇけど、大人しく……」
ドゥン。
再びあの乾いた破裂音が響く。それと同時に、俺の首元を掴んでいた男の手が素早く引っ込められ、そのまま男は大きく後ろに跳躍していた。
「大人しく、なんだ? 引っ込めとでも?」
「……いや。たった今、最優先事項はお前になった」
体を起こし、俺は周囲を見渡して必死に状況を把握しようとする。うっすらと輝く月光に照らされた男に、そして姿が見えないもう一つの声。まったく事態が飲み込めない。というより、どうして自分がこの場所に居るのかも理解できなかった。
「いきなり……何だってんだよ……」
渇き切った唇から、思わず狼狽の声が漏れる。解らない。解る筈がない。背筋に嫌な汗が流れる。――悪寒。言葉で表現するなら、それがおそらくもっとも適したもののはずだ。
「嬲り続けて、良い声で鳴かしてやるぜ」
目の前に居た男が大きく跳躍する。そのスピードは神速。先ほどと同様、男の影を視認するのがやっとだった。
「……出来損ないが。やれるものならやってみろ」
一瞬、空中で大きな影が交錯する。そして響き渡る、甲高いような、濁ったような衝突音。草木のざわめきと夜の帳を貫き、その音は何度も、何度もこの公園に響いた。
――また、この感覚……。
先程から心の奥の、それよりずっと奥の方で、何かが俺に訴えかけるように、激しく流れ続けている。悲鳴にも似たその物質はまるで、この光景の先に何かがあるかのように、俺にそれを見るように促すように、――俺に目の前の存在を訴えかけていた。
――急かされているのか? 俺は……。
幾度となく交錯する二つの影を追いながら、俺は呆然とそんな事を思った。なぜそう思ったかは解らないが、どういう訳かそれが当然の事のようにも感じたし、当たり前の事だと思った。ただ一つ分かる事と言えば、俺の心の中で、少しずつ何かが溶け始めたという事だった。
次の瞬間、目の前に何かが勢いよく転げ回った。あの男だ。ここから見れば男の体は、先程よりもずっと泥や埃でボロボロになっている。心なしか息も荒い。まさかあの一瞬で、あそこまであの男はやられたのか? だとすれば、あの男にここまでのダメージを与えた見えない声の主は、一体どんな化け物なんだ?
「ちっ……。どうしてこの俺が」
ボロボロになった男は息も絶え絶えに口を開く。焦燥のせいか、男に先程までの余裕はない。いつの間にかナイフもその手にはないし、俺を掴んでいたその手も微かにだが震えていた。
「……積み重ねられた経験も、飛び抜けた才能も、運さえもないお前に、最初から勝機などない」
男の目の前に、あの声の主が静かに姿を現す。再び月に雲が掛かり、その顔はよくは見えない。だが、その姿の感じと雰囲気は、まるで男の威圧感など貧弱に思えてしまうほどの強く、強大なものだった。
「んだと!」
声を荒げ、男は再び声の方に向かって突進する。しかし、その甲斐もなく再び男は見えない誰かに突き飛ばされ、痛々しく地を転がされた。ボロボロになった上着にはさらに泥がつき、その頬が土と埃で黒く染まる。その姿は、まさに今さっきまでの俺の姿。見えない脅威に慄き、恐怖に声すら出なくなった、正真正銘の敗者の姿だった。
――凄い。
声しか聞こえないはずなのに、その存在感がまるで目と鼻の先まで迫ってくるような感覚に襲われる。傍から見ている俺ですらこう思うんだ。恐らくあの男は、これより数倍の威圧を感じているだろう。
「……若き人間よ。黒き力に魅せられる前に、努力を重ねろ。力を磨け。それからでも、染まるのは遅くない」
あの声の主が、下を向いて震える男に向かって口を開いた。
「……黙れ」
「他人を超えたいなら、努力と工夫で超えろ。貴様のその力は、人間ごときが欲望のために使っていいものじゃない」
「黙れって言ってんだろ!」
ドゥン。
目の前の闇に向かい、男が叫んだその瞬間、再度破裂音が公園に響く。そして、その破裂音が消えるか否かのタイミングで、男がゆっくりと脱力していく。まるで布団にでも寝そべるように、男はその体をゆっくりと大地に預けた。
まるででたらめな展開に、俺はただ唖然とするしかなかった。倒れた男が死んだかも分からないし、どうしてこの男が倒されたのかも分からない。ただ一つの事実として、この目の前に倒れている男は、これ以上俺に危害を加える事が出来ないほどボロボロになっている事は確かだった。
――終わった……のか?
倒れた男を見つめ、俺は大きく息をついた。しかし、勿論というか当然というか、動悸が治まる気配はない。とりあえず大きな危険は去ったような気はするけど、まだこの公園の中には、その危険を大きく上回る危険と成り得るかもしれないものが、はっきりと存在しているからだ。
「そうだ。その意気で、努力を重ねればいい。闇の眷属になるには、まだまだ早い」
倒れている男の先から、先程のあの声が聞こえる。まるで俺の事など眼中にないように、すぐそこで倒れている男を見つめているように思えた。
「…………そこの少年」
「うわ!?」
いきなり声をかけられ、俺は思わず驚きの声を上げる。そして恐る恐る視線を横に移すと、そこにはあの声の主の体の一部と思われるものが飛び込んできていた。
膝下まである黒いロングコートに、何処かの国の特殊部隊が履いていそうな黒っぽいブーツが外灯の不定期な点滅に合わせて鈍く光る。男だと思うが、それにしては何となく線が細い気がした。
「災難だったな」
「え? あ、はい」
急に気の抜けたような目の前の男の声に、俺は俯いたまま返事をする。ていうか、あんな衝撃的な展開をたった一言、災難だったで片付けた男に、俺は何となく拍子抜けしてしまった。
「ん……。殺されかけたのに、いやに気のない返事だな」
「そりゃ、殺されかけたんですから……」
「ん? そんなものなのか?」
――殺されかけた男に、何求めてんだよ。
死の恐怖から開放され、ようやく俺の頬が緩む。完全に危険が去った訳ではないのに、何故だろう。この人は、なんだか大丈夫なような気がした。
「――とにかく」
俺の思考を遮るように、目の前の彼が口を開く。そして俺はその声を聞くと、引き寄せられるように声の方へ顔を向けた。
「ここでの出来事は、君は見なかった事になる」
トン。
腹部に軽く、そして柔らかい衝撃が走る。そこで寝入っている男の、あの強引な首への衝撃とは訳が違う、心地が良くて、変な言い方だけど、とても気持ちのいい感覚。その柔らかな衝撃に、不意に俺の意識が遠退いていった。
「な……」
いつの間にか曇り空からは月が顔を出し、公園には穏やかな月の光が降り注ぐ。そしてその美しい月を背景にその男は――いや、銀色の長い髪を靡かせる少女は、空に輝く月のように優しく俺を見つめていた。
吸血鬼だった少年を片付けながら、銀色の髪の少女は大きくため息をつく。今倒したのは、また直接には組織に関係のない“ハーフ”の吸血鬼だった。そしてこれでは、何体倒しても上の組織には辿り着かないだろう。
「片付いたのか?」
漆黒の闇から、小さな影が飛び出してくる。その影の正体は、新東都空港で少女と一緒にいた、あの人語を喋る黒猫だった。
「ああ。終わった。だが、それともう一つ別の仕事が増えてしまった」
銀髪の少女は目を細め、先程気絶させた少年の方を向く。日本人の平均ぐらいの身長に、少し茶色がかった癖のある髪。ハーフに襲われていたのを偶然助けた少年なのだが、家に送ろうにも住所も名前も分からず、途方に暮れてとりあえずベンチの上に放置したのだ。
「ここで寝かしておくのも酷じゃしの。とりあえず駅にでも運べばよかろう。あそこならこの子の知り合いが通るかもしれん」
黒い猫はそう言うと、ひょいとベンチに飛び乗り、男の腹の上に静かに腰掛ける。さっさと運び、さっさと片付け、この少女と猫は、早急に目的の人物と接触しなくてはいけないのだ。それが彼らの最優先事項、そして、それこそが彼らの悲願であるのだから。
「それにしても、悪運の強い男じゃのぉ。まさに寸での所で助かった、という感じじゃの」
猫の笑う声に、少女も肯いて答える。吸血鬼に会うだけでも稀有なのに、それを狩るハンターとの戦いにも巻き込まれ、なおかつこの少年は生き残ったのだ。この少年の所業は、もう偶然というより、奇跡と言った方が語弊がないだろう。
「うん……」
二人が話していると、不意に少年が寝返りを打って猫の方を向く。少年の頬には少し土が付いて汚れてはいるが、それを加味しても少年の顔は整っている方だ。そしてその少年の顔に、思いがけず静かに月の光が降り注いだ。
「!?」
そのぼやけた少年の顔を見た瞬間、猫は心の中に、何か懐かしいものが込み上げてくるのを感じた。それは、決して遠くない過去の、決して遠くない人物の影。そしてそれがゆっくりと少年の顔と重なり、流れる水のように一つになっていく。猫は自分自身の感覚――吸血鬼としての感覚でそれが何なのかを理解した。
「? どうか?」
少年の顔を見た猫の目つきが変わっているのを、少女も何となくだが感じ取り、少女は猫の顔と、そして少年の顔を覗き込む。だが少女には、どうして猫がこの少年を見て感慨に耽っているのかは、全く分からなかった。
「…………はは。これが偶然なら、神様は本当にいる事になるの」
運命なんて野暮ったいものは信じない事にしている猫だったが、さすがにこれは運命というものを信じざるを得なくなってしまったようだ。
――久々に、懐かしい顔付きを見たの。
……その理由は至って簡単。目の前で寝ている少年と、今ここで不思議そうにその少年を見つめている娘が、まさかこんなにも意外で、そして何よりも運命的に出会ったとは、全く予想もしていなかったからだった。
「父上?」
「この子を家に送ろう。この子……いや、この葛城信介の家なら、お前が渡されたメモにしっかりと書いてあるはずじゃ」
止まっていた歯車が動き出すのを、猫は感じ、そしてゆっくりと天を仰いだ。
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