月の輝く夜に 2
運命的な出会いというものは、案外突然にやってくるものだ。
それが、生涯深く付合っていく事となる人物なら尚更そうじゃないだろうか。
……勿論その出会いが、いいものかどうかは別として。
頭の奥の方から、波のような、もしくは林のざわめきのような音が聞こえてくる。体は……どうしてだろう。まったくというかほとんど動いてくれない。
「ようやく、お目覚めだな」
暫くの静寂の後、あのどこかで聞いた覚えがある、頭に響いていた声が聞こえる。憎悪を剥き出しにしたような、怨恨をそのまま言の葉にしたような、あの身の毛もよだつような声だ。
こうして何かを考え始めると、俺はいつの間にか頬を地面につけている事に気付く。それは少しだけひんやりとしていて、これが土というのを忘れてしまうほど心地よいものだった。
「ん……」
「よがってねぇで立てよ。まだ借りを半分も返せてねぇんだからよ」
ぼやけたビジョンの中に、一人の男のシルエットが浮かぶ。視界の大半を占める闇黒の夜空に溶け込むような、誰かの黒い影かとも思ったが、目を凝らしてみれば、それが若い男の姿だという事だけは、ぼーっとした頭でも何とか理解する事が出来た。
「…………誰?」
「誰……か。それは、俺がお前に聞きたい事だ」
男のシルエットが一瞬笑ったように見える。この邪悪な声の主は一体誰だ。俺は回らない頭を必死に回転させ、もう一度目を凝らして男を一瞥した。
心持ち高い身長に、後ろの外灯の点滅にあわせて光る茶色く短い髪。そして妖しく輝く男の目の奥には、どこかあの声に似た禍々しい感じがあった。
「だが」
男が再び言葉を紡ぐ。それと同時に、この空間が押し潰すくらいの圧迫感が、まるで重石のように俺にのしかかった。
「お前の名前に、すでに興味は失せた。一時はお前の名を知って、学校中の晒し者にしようとも思ったけどな」
男の瞳の中に、微かに俺の記憶がちらつく。頬の痛み。そしてこの声、この瞳……。はっとして思い出したその時、俺は驚き余って思わず息を呑んだ。
「お前! 四季の……」
言葉と同時に、俺の意識が一気に覚醒する。そうだ! 俺は刺された女性を近くの建物まで運んでいて、急に頭の中に声が響いて……。だとしたら、どうして俺はこんな場所に居るんだ?
周りを見渡し、俺はゆっくりと体を起こす。どこかの公園のようだが、どこの公園かは分からない。ただ、俺の横たわっていた場所の周りを取り囲むように伸びている雑草の様子を見れば、ここがどういう所で、どれほど人目につかない場所かという事は何となく察しがついた。
「俺の名前、わかんねぇだろ? ……俺もそうだ。お前の学年も、クラスも、……名前すらわかんねぇ。……うぜぇよな。そんな名前も何もわからねぇ奴に、思いっきり殴られるのは。なぁ? しかも狙ってた女の前でだぜ? 思い出すだけでも吐き気がする」
頭に響くような男の声に、俺は少し眉を顰める。俺の目の前の男は、間違いなく俺が殴ったあの男だ。だけど、同時に、あの男ではないような気さえする。どうしてだろう。目の前の男は、明らかにこの間の男ではなかった。
「何、……で」
「おっと」
男が俺の言葉を遮り、再びあの視線を向ける。口元には、……笑み。まるで俺を嬲るのを楽しむように、まるで俺を甚振るように、その憎悪の瞳を俺に向けた。
「一つずつ説明してやるよ。まずはどうしてここにいるか、だろ? 答えは簡単だ。俺がお前の近くを通っていた適当な女を刺し、岬四季と離れさせる。それでお前を気絶させて、ここに運んできたってわけさ。何となく覚えがあんだろ? あの場で殺しても良かったんだが、それじゃお前が助かっちまうかも知れねぇし、何よりお前を甚振れないからな」
簡単に殺すと言い切った男の言葉に、俺の背中からは冷たいものが流れる。……恐ろしいなんてレベルじゃない。これじゃまるで、本当の殺人鬼じゃないか!
足の震えが、いつの間にか自分でも分かるぐらい大きなものへとなっている。怖い。……怖い、怖い、怖い。後ろを向いて走り出して逃げたいのに、それすらも叶わないほど俺の体は冷たく凍てついていた。
「……怖いか?」
――そんなの、当たり前じゃないか。
言葉に成らない声が、心に木霊する。圧倒的な威圧感、存在感、圧迫感、そして言い様がないほどの恐怖感。この全てがまるでどろどろとした、液体のように混ざり合い、俺の小さな小さな心に流れ込んでくるような、そんな気がしてならなかった。
「あの時のような威勢を張る元気すらないか? それとも俺が怖いのか? ……まぁどっちでもいい。今のお前に何を言っても、およそ半分も届かないと思うしな」
空に昇る月を隠すように、灰色の雲がゆっくりと動いていく。昼間の雨露が浮いて静かに光る公園の草木も、灰色に染まった夜空の下で怪しくちらつく外灯も、今は声を潜めてただひたすらに俺の心の声を聴いているように思えた。
「話は終わりだ。ていうか、もう話すのも飽きた。名前も聞く気はねぇし。ここらでさっさと殺しちまうか」
男が一歩、大きく俺の方に向かって踏み出す。そして気付けばまた一歩、男は俺の方に歩みを進める。俺は動かぬ足を懸命に引きずり、男から離れようともがくように足を動かした。
一瞬にして干上がった唇が、微かに汗で濡れる。言い知れぬ恐怖。男の右手には、何時の間にか鈍く光るナイフが握られていた。きっとあれで、あの女性を……。そこまで考えて、俺の思考はゆっくりと停止する。これ以上考えたら、絶対に俺はこれから起きる苦痛と向き合わなくてはいけなくなるだろう。
「おいおい。別に抵抗してくれたっていいんだぜ? 簡単に死んでもらっちゃ、こっちだって面白くないからな」
男の冷笑が、悪魔の囁きのように耳にこびりつく。これは……罠だ。相手に背を向けて逃げるのは得策じゃない。かと言って、刃物を持っている相手――あの憎悪の塊のような男に飛び込む勇気はない。だから、ここは誘いに乗っちゃいけない。俺は今すぐにでも動きたい衝動を必死に抑え、その場に止まった。
「……はは、もう自分がどうしていいのかも分からなくなったか。まぁいい。動かねぇならそれはそれだ」
言葉と同時に、男が大地を蹴る。風を切って走る音、草を踏みしめる足音。その全てが混じりあったその刹那、俺は一瞬のうちに男の姿を見失った。
「!?」
後ろから急に押し倒され、俺は声を出す暇もなく再び大地に頬を擦り付ける。そして首元には男の鋭くとがった爪が、痛みとともにゆっくりと俺の肌にのめり込んできた。
「……これでもまだ、男らしくないって言えるかよ?」
首元に突きつけられる、冷たく鈍い感覚。それは間違いなくナイフの感覚。――そして死の感覚。それを冷静に把握した俺の心に、再び何かがゆっくりと流れ込んできた。
「……終いだ。後悔とかはあの世でしてくれ。名前も知らない、憎いお前」
突きつけられた刃に、月の光がうっすらと反射した。