Bloody beat 4
「……どうなってるのよ」
込み上げる怒りの捌け口を見つけられず、二条薫は眉を顰めて頭を抱えていた。
神居北斗市内、天枢町の駅から十分ほど歩いた公園のベンチ。どうしたら良いか分からずに彷徨い続けた彼女は、つい数分ほど前からこの公園のベンチに腰を下ろし、そして尽きる事の無い溜め息を吐き続けていた。
ベンチの隣のゴミ箱には、数日前からあの男に繋がらなくなった携帯電話と、そして最早無用の長物となったポラリスビルのセキュリティカードが捨ててあった。どちらももう既に持っていても仕方が無い。そう思った彼女は半ば腹いせのようにそれをゴミ箱に放り込んだのだった。
――連絡もつかない、奴の居るビルには入る事もままならない。奴の拠点なんて分かるはずもないじゃない……!
先日の工場の一件で、彼女のロメオに対する怒りは頂点に達していた。元々いけ好かない奴だとは思っていたが、流石に捨て駒にされたとなれば腹の虫が収まらない。そうして数日前、居ても立ってもいられなくなった彼女はロメオへの報復のために、勇み足で趙の病室を後にしたのだった。
……しかし、待っていたのは非常な現実だった。
ロメオが携帯の連絡に出なくなったのは事件当日から知っていた。それはいい。元から期待はしていない。
問題は自分の突き落とされた、現在の立場だった。先ず最初に、今まで平然と入れた場所に入れなくなった。ポラリスビルに始まり、組織から提供された貸し倉庫と集会所、挙句の果てには自宅のマンションすらも解約されていた。これではもう、ロメオへの報復などそういう話ではない。彼女は追う手段どころか、自らの生活すら完全に失われたのだ。
「……」
彼女はポケットから煙草を取り出すが、既に一本も残っていない事を思い出すと、そのまま隣のゴミ箱に空き箱を放り込む。如何なる手段を講じたのかは分からないが、彼女の銀行口座はとっくに封鎖されている。財布の中にある金も最早スズメの涙ほどだ。とても煙草なんか買っている余裕はない。
――早く何とかしないと……これじゃあ……。
とにかく現状を打破したいとは思うものの、如何せん良い方法が思い浮かばない。彼女はまさに万策尽きた状態だったのだ。
「……見つけた」
うな垂れていた彼女の近くに、何時の間にか誰かが立っていた。彼女は徐に声のした方に顔を向けると、そこには見知った男の顔があった。
「古賀君……か。何か用?」
さも鬱陶しそうにそう呟くと、二条は古賀茂から視線を逸らす。古賀とはあの廃工場での一件以来、今日まで全く連絡を取り合っていなかった。一般市民を巻き込んであれだけ大事にした作戦なのだから、あの廃工場に居た古賀や英は十中八九、協会の日本支部に拘束されたものだと彼女は考えていたからであるが、なるほど噂に違わず古賀という男は悪運だけは強いらしい。
「何か用じゃねぇ。あの作戦の後、目覚めたら辺りにゃ吸血鬼協会の連中ばっかりで、必死こいて封鎖網を掻い潜って集会所に辿り着いたらもうそこはただの空き家だ。それ以来、趙さんやあんたから全く連絡もない。まるで意味が分からねぇよ。どうなってんのか、説明してもらおうか」
二条の態度が気に入らなかったのか、それとも自分が捨て駒にされた事にようやく気付いたのか、彼は込み上げる怒りを吐き出すように、激しい剣幕で捲くし立てた。――気持ちは分かる。自分も捨て駒にされ、その上大切な仲間も救う事すら出来ない生活に追い込まれたのだから。そう思うと、彼女は皮肉交じりの笑みを浮かべた。
「……何が可笑しい?」
「別に。それよりも、英藤子は無事なの?」
二条の質問に、古賀は何か言いたそうな表情を浮かべるが、結局言葉を飲み込んで返答する。
「一応は、な。あの場所から逃げる前に何とか連れ出して、今は俺の家に居る。……最も、ずっと部屋に篭りっ放しでろくに会話も出来なくなっちまってるがな」
「そう。彼女には悪い事をしたわ」
「悪い事をしたって……まぁ、良い。そんな事より、今度はあんたが話す番だぜ?」
ポケットから煙草を取り出し、古賀は徐にそれを銜えて火を付けた。彼女は紫煙がゆらゆらと立ち上る様をしばし見つめると、些か眉を顰める。
「……あんたはまだ、引き返せそうね」
「? 何か言ったか?」
「特に何も。そういえば今の状況について聞きたかったんだっけ?」
彼女の問いに古賀は小さく頷く。彼女はその様子を見ながら少し考え、そして何かを決心したように一度だけ頷いた。
「先ず今の状況だけど……。そうね、簡単に言えばチームは解散ね」
「なっ!?」
驚きを隠せない古賀を制し、彼女は再び言葉を紡ぐ。
「今後の葛城信介に関する作戦は、全て私達のチームとは別のチームが引き継ぐらしいわ。そういう事で、貴方も晴れてお役御免ってわけ」
「しかし……」
「まだ何か聞きたいようだけど、これは作戦の前から決まってた事なの。貴方の納得出来ない気持ちも分かるけど、これは上が決めた事だから」
話を終えるとすぐに彼女は立ち上がると、俯いたままの古賀の横をすり抜け、公園の出口へと歩き始める。
「あっ、それと今後は何か連絡があるまで自宅で待機しててね。勝手に動かれるとこっちも色々と困るからさ」
――ま、連絡なんて一生来ないと思うけど。
心の中でそう付け加え、彼女は振り返らずに手のひらをふらふらと振った。きっと自分達は捨て駒だった事を伝えた所で、彼はどうする事も出来ないだろうし、上手く事が運んだとしても暗い未来が待ってるのは必然だ。だからこそ彼女は出来る事なら彼には今までの日常に戻って欲しかったし、何よりそれが今まで自分のために利用してしまった古賀にしてやれる、彼女なりの罪滅ぼしだったのだ。
「……自宅待機って……それじゃああのニヤケ面の神父は何で……」
ふと、彼女の足が止まった。
古賀が言った“神父”という言葉が、彼女に彼女の中のある一人の人物を思い起こさせる。自分自身を隠すために張り付いた笑顔を浮かべ、信仰心の欠片もないくせに牧師服を身に纏い、そして……奥底で値打ちを測っているようなあの瞳。彼女の知る人物で、“ニヤケ面の神父”なんて、そいつしか思い浮かばなかった。
間髪入れずに彼女は振り返ると、つかつかと古賀に歩み寄り、古賀の筋肉質な両肩を掴む。
「あんたロメオを見たのっ!? 何処でっ!? 何時っ!?」
目を見開き、彼女は必死の形相を浮かべて古賀にそう問い詰める。彼は今まで見た事もない彼女の様子に狼狽したようだったが、彼女はそれに構う事すら忘れ、必死になって肩を揺すり続けた。
「おっ、落ち着けよっ!」
「……っ」
力任せに両手を肩から引き剥がされ、思わずもう一度掴みかかろうとするが、古賀が自分の豹変に狼狽している事に気付き、彼女はようやく平静を取り戻す。――そうだ。古賀君に現状を知らせたくはないし、何よりここで焦っても何にもならない。彼女は自分にそう言い聞かせると、逸る気持ちを抑えて口を開く。
「……ごめんなさい。ちょっと色々あってその神父を捜しているの。それで出来れば貴方に神父と何時、何処で会ったか、覚えてる範囲でいいから教えて欲しいんだけど……」
表情を強張らせていた古賀だったが、彼女が落ち着いた様子を見せると、気を取り直して口を開いた。
「覚えてるも何も、さっきの事だよ。駅前の通りを歩いてたら急に現れて、伝えたい事があるから夕方頃、神居北斗総合病院に来いってだけ言われて……」
古賀が言い終わるのを待たず、二条は何も言わずにその場から駆け出す。後ろの方から何か叫び声が聞こえたような気がしたが、彼女はそれを無視して腕時計に目をやる。時間は四時半。神居北斗総合病院は、此処から走れば三十分で着くはずだ。ロメオが何時まで居るかどうか分からないが、夕方なら少なくとも待てばやって来るだろう。しかし、
――神居北斗総合病院って……。
彼女には一つ、気になる事があった。それはロメオが指定した場所である、神居北斗総合病院の事だ。彼女の記憶に間違いがなければそこには、今も意識不明で眠り続ける、大事な仲間が居るのだ。
「……ロメオっ!」
頭に過ぎった最悪の事態が、彼女の身体を更に前へ前へと進めた。
************
神居北斗総合病院。
数日前にこの病院に担ぎ込まれ、生死の境を彷徨った趙雲海は、身体を包む優しいまどろみを感じながら、静かに窓の外を流れる雲を眺めていた。
彼の両腕には、付け根から指の先まで仰々しい包帯が巻かれている。痛み止めの麻酔のおかげなのか、それとも無茶をしすぎたつけなのかは分からないが、彼には両腕の感覚はなかった。
彼が目を覚ましたのは、つい先刻の事だった。
吸血鬼協会のエースハンター、“二艇拳銃”から辛くも二条を救い出した彼は、二条の車に乗って直ぐに痛みで気を失い、そして長い長い夢を見た後、気が付いた彼は病院のベッドの上に居た。
どれほどの間寝ていたのだろう。カレンダーの日付は数日後だと告げているが、彼はどうにもそれが信じられなかった。貧しさからニホンに渡り、協会に家族を殺され、そして薫と出会い……。そのどれもがまるで夢のようで、何処からが現なのか――。彼は視線の先を飛ぶ小鳥を目で追いながら、ぼんやりと考えていた。
「そろそろ、時間ですか」
ベッドの脇から声が聞こえた。何となく聞き覚えがあると彼は思ったが、しかし、未だ目覚めたばかりで頭が混乱している彼には、それが誰の声なのか全く見当がつかなかった。
「しかし、貴方方が本当に“銀狼”相手に生き残るなんて、夢にも思いませんでしたよ。結果はどうであれ、ね」
遠くの方で、夕方の五時を告げるチャイムが鳴っている。何処で聞いたかさえ覚えていない、そんなメロディなのに、彼には何故か懐かしく思えた。
「さてと……ようやくですか」
そんな呟きが聞こえた刹那、病室のドアが乱暴に開いた。続いて聞こえる、肩で息をするような荒い呼吸。こんな何もない病室に、誰がそんなに急いでやって来たのだろう。
「おやおや。古賀茂かと思ったら……貴方ですか。二条さん?」
「趙から離れろっ!」
病室に木霊するような大声を聞き、趙は視線を入り口の方に向ける。其処には、自分達と組織を繋ぐロメオ・ハーミットと、彼にとって唯一無二の存在である、二条薫の姿があった。
「ははは。急に声を荒げてどうしたんです? 二条さん。それに此処は病院です。お静かになされた方が宜しいかと思いますが」
「……貴様っ!」
激昂した彼女が、ロメオの胸倉を掴み上げる。だが、ロメオには全くと言っていいほど焦る様子はない。寧ろ彼女の怒り狂う様を、楽しんでいるようにさえ見えた。
――……ああ、君はそうやって直ぐに感情を表に出す。駄目じゃないか、少しは自分を抑えないと。癇癪を起こしてもしょうがないよ。
彼女は出会った頃からずっと直情的で、それでよく彼女の妹と喧嘩をしていた事を彼は思い出す。そしてその度に、一番年上の彼は、まるで妹を宥めるように彼女を諌めていたのだ。
「手を……離していただけませんか?」
「どの口が言う、この下衆がっ! 私達を捨て駒にしてっ!」
「それについては否定はしませんよ。貴方がもっと“使えた”なら救いの手も差し伸べたでしょうけど」
彼女の変わらぬ怒声に、ロメオは依然として笑みを浮かべている。その様子に耐え切れなくなった彼女は、張り付いたような顔を引っぺがそうと、もう一方の手を振り被った。
「っ!?」
拳を振り下ろそうとした瞬間、彼女の身体に恐ろしい悪寒が走る。一瞬の戸惑い。そしてそのまま、彼女は動けなくなった。
先程の喧騒が嘘の様に、病室に静寂が広がる。コチコチと、自らの役割に忠実な時計の音を聞きながら、彼は突然動かなくなった二人を見守っている。頭の片隅で、途方もない何かが叫んでいるが、目覚めたばかりで夢心地の彼には、それが何なのかどうしても分からなかった。
「どうしたんです? 殴らないんですか? 二条さん?」
神父の姿からは想像もできないロメオの悪魔のような誘いに、彼女は思わず唾を飲み込む。殴る寸前に彼女が見つけたのは、どんな時でも決して外さない深緑の手袋に包まれている神父の右手。そして、その右手は慈しむように優しく、躊躇いもなく命を奪い取るような手つきで、横たわる彼の身体に添えられていたのだった。
彼女は戦慄した。もし、感情のままロメオを殴っていたら――。そう思いながら彼の方を向くと、彼女は思わず胃の中のものをもどしてしまいそうになった。
「どうやら、殴る気は失せてしまったようですね」
ロメオはそう言うと、彼に添えていた右手で胸倉を掴んでいた彼女の手を払う。彼女も既に心が折れたのか、それに力なく従った。
「せっかくの復讐のチャンスだったのに、残念でしたね。ニジョウさん」
今度は彼女の手を掴んだロメオが、嘲笑を崩す事無く立ち上がる。
彼女の手首を握るロメオの手から、原初の光が零れ落ちていた。先程まで彼を狙っていた死神の鎌は、今はギラギラと妖しい光を放って彼女に向けられる。こうなってしまっては、最早彼女に為す術などなかった。
「なぜ殴らなかったんですか? 殴ろうとした瞬間、貴方は何を考えたんですか?」
彼女の耳元に顔を近づけ、ロメオはまるで小さな子供でも諭すような口調でそう囁く。じわじわと、心を抉り取るロメオの声に彼女の心は次第に恐怖に溢れ、発作的にロメオの右手を振り払おうとしたが、
「質問に答えてくださいよ、ニジョウさん。何を考えていたんですか? 憎い憎い、自分達を嘲り続けた男に復讐する事と、一体何を天秤にかけたのですか?」
力強く握られたロメオの右手を彼女は振り払う事が出来ない。しかし、彼女はそれでも何とかこの右手から逃げ出そうと身体を揺すった。
「貴方は貴方の為すべき事もせずに、一体何を恐れているんですか? それは本当に大事な事なんですか?」
「それに、貴方は私に捨て駒にされたと喚いていましたが、少なくとも私は貴方にチャンスは与えましたよ、今回も、今までも」
「!? それはっ!」
言葉を返した彼女に対し、ロメオは続けて呟く。
「それは? それはなんですか? あの状況では、誰かが死んでいたからとか? 自分のために、他の誰かを犠牲にしたくなかったとか、そういう事ですか? せっかく家族を取り戻すチャンスだったのに? それでも他の誰かが気になりますか?」
「私、私は……」
「虫がいいと思いませんか? 何も捨て去らないで、何かを掴もうとするなんて」
「……貴方は私を、人を道具のように扱う卑劣漢だと思っているでしょうが、自分のお粗末な倫理観を周囲に押し付けて、そのくせ自分の幸せを欲する貴方の方がよっぽど卑怯ですよ?」
打算と利用という形でしか何かを得られない吸血鬼の世界において、何の犠牲もなく手に入れられるものなんて存在しない事は、彼女も良く分かっていたはずだった。だからロメオの言葉に反論するなんて出来るはずもなく、彼女は言葉に詰まって俯く事しか出来なかった。
「……私は」
項垂れ、意気消沈している彼女の様子をしばらく眺めていたロメオは、不意に今までずっと保っていた笑顔を剥ぎ取り、そしてそのまま無理矢理彼女の身体を壁へと叩き付けた。
驚いた彼女は目を丸くしてロメオの顔を覗く。
そこには、今までの人生の中で最も禍々しい、悪魔の瞳があった。
「……っ」
「図星なんだろ? ……クソアマっ!」
今までに見た事も聞いた事も無い、そんなロメオの姿。常に能面を貼り付けていた男の、その本性を目の当たりにした彼女は、背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
「捨て駒にされただのキャンキャンほざいてるがな、俺は目標を捕まえるチャンスは腐るほどやったはずだぜ? 使い捨ての道具だってくれてやっただろ?」
「チャンスもあった、道具もあった、だのにテメェは失敗した。分かるか? 失敗した原因はな、テメェがクソみてぇに弱ぇからと、それとだ、部下だの目標だの下らねぇもんに負い目を感じたからなんだよ、ゴミクズ。テメェはな、捨て駒にされても文句は言えねぇんだよっ!」
言葉も言い終わらぬうちに、彼女の頬に痛みが走る。そして、力任せに胸倉を引き寄せられると、彼女はそのまま病室の入り口の方に放り投げられた。
「っ!」
「それに、利用されるって事は、テメェも最初から分かってんだろ? だったら状況が最悪っつーのは当たり前だろ。だったら捨て駒どうこう言う前に、余裕もねぇのに形振り構った自分の責任じゃねぇか。カオルさんよ?」
彼女は顔を上げる事が出来なかった。ただ無力感だけを、彼女は感じていた。同時に、彼女は自分が今まで何をしていたのか、どうしてこうなってしまったのか。ただそれだけを永遠と考えていた。
「……はっ、もう喋る気力もねぇか。……まぁ、いい」
ロメオは自分の胸元に手を入れると、内ポケットの中から無造作に札束を掴み、彼女に投げつけた。
「……あっ」
「ラストチャンスだ。三日間の猶予をくれてやる。それまでに葛城信介を捕まえろ。方法は問わない」
札束を拾い上げた彼女は、一度だけ趙の方を見て、そしてロメオを睨み付ける。だが、しばらくしてそれが無駄な事だと悟った彼女は、脇目も振らずに外へと飛び出していった。
************
長い長い、夢を見ていた。
柔らかな風が吹く、草原の真ん中。今にも落ちてきそうな青空から視線を下げた先には、五歳くらいの女の子と、その小さな手を引っ張って前に進む、同じ歳ぐらいの男の子の姿があった。
少女の胸には、色褪せた人形が抱かれていた。所々縫い目が解れて、片目を既に失っているが、少女はそれを全く気にしている様子はなかった。きっと彼女にとって、それは大切な宝物なのだろう。
――あの子らは知らない。彼らが目指すその先には、非情な現実が転がっている事を。
彼が心の中でそう呟いた瞬間、世界が暗転する。次に彼の目に映ったのは、真っ暗な列車の中で身体を寄せ合う、先程の少年少女の姿だった。
少女の兄らしい少年は、自分の身体に寄りかかる少女に必死に何か叫んでいるが、どうやら少女の方はそろそろ終わりが近いらしい。四六時中離そうとしなかった、母の形見の人形を抱く力もないようで、暫くすると、少女も人形と同じように息をしなくなった。
それをじっと見つめていた彼の瞳から、一筋の涙が零れる。二十年程前、彼は目の前の少年の瞳で、妹の最後を看取っていた。その時と同じ瞳で、彼は確かに泣いた。
彼が頬を拭うと、再び場面は変わっていた。今度はもう少し後の、彼が風見家の人々と出会った時のものだった。
穏やかな顔をした男に肩を抱かれている少年の前には、二人の女の子の居た。
男勝りで、負けん気の強い姉と、そんな姉の後ろに隠れる引っ込み思案の妹。そんな対照的な二人を見比べながら、彼は照れ隠しに一度だけ笑った。
それが彼、超雲海と、風見薫との最初の出会いだった。
幼い頃に両親を殺され、貧困の中で妹を失った趙は、死に物狂いで毎日を生き抜き、そして紆余曲折の末、当時の日本支部の支部長、風見小太郎に拾われた。
最初はまた今までの生活のように、出身や今までの経緯を槍玉に挙げられ、虐げられるのではと心配していた彼だったが、風見家の人間は、彼に本当の家族のように接してくれた。彼は、そんな優しい風見家の人間を、心から愛するようになった。
しかし、風見家の使用人として、彼が生きるようになってから数年後、事件は起こった。
その日、闇に乗じてやって来た闖入者は、次々と風見家の人々の命を奪っていった。ある者は首の骨をへし折られ、またある者は鋭利な刃物で一突きされ、夜が明ければ、家の中に居た闖入者を除く全ての人間は、動かぬ骸と化していたのだった。
あの朝の事を、彼は忘れた事などなかった。偶然の外出に助けられた彼と薫は、冷たくなった家族の身体を抱き、声が枯れるまで泣き叫んだ。愛する家族が死んでゆく、疫病神のような自分を呪いすらした。
――……。
その後の事は、目を開けなくとも彼は思い出していた。家族を殺した相手のバッグに、“ノーブルブラッド”という組織が絡んでいた事、殺害現場の死体の数が、その日家に居た人間の数と合わなかった事。そして、あの引っ込み思案の次女が、実はまだ生きていると分かった事。
気が付くと、いよいよ場面は最近のものになっていた。
光の届かない路地裏の壁に寄りかかっている狐面の男。すれ違い様、その男に彼はそっと一枚の紙切れを手渡す。初めて握った時は、あんなに小さかった手が、今はこんなにも逞しくなったのかと彼は思いつつ、そっと路地裏から離れる。今度の作戦では、きっと誰かが死ぬ事になる。だけれども、それが彼女であっては決してならない。だから、だから……。
――薫を、頼むぞ。
************
「……ようやくお目覚めですか」
「……ああ」
目を開き、彼は視線だけロメオに向ける。恐怖は、ない。あるのはしてもし足りない、この男への怨嗟だけだ。
「ニジョウさん、いや、風見さんはもう行きましたよ」
「そうか」
短くそう言い、彼は視線を視線を窓の外に向ける。すっかり日は落ちて、空の上には慎ましやかな月が昇っていた。
「何か、言い残す事は?」
遠いようで近い場所から、ロメオの声が聞こえる。彼は一度、大きく深呼吸をした。
「地獄で先に待ってるぜ、クソッタレ」
彼の意識は、そこで途絶えた。
就職活動やら卒論やらで長らく休止してました。
一応更新再開だけど、もしかしたら筆休めするかも。