Bloody beat 3
「……遅い」
お昼の一悶着からかれこれ三時間強。一先ず洗濯物を片付け、晩飯の下ごしらえをして家を出て来たのがついさっき。俺はもう一度時計を確認すると、深い溜め息を零した。
時間は既に四季の指定した時刻を過ぎ、もうすぐ五時十五分になろうとしている。一応忘れてはないかと彼女の携帯に連絡はしてみたが、待っても帰ってくるのは留守電の機械的な声だけで、結局そのまま今に至っていた。
――流石に、そろそろ呼び鈴でも押した方が良いかも。
隣のセシルさんは四季を待つのにすっかり飽きたのか、壁に寄りかかって欠伸をしている。このままだと、本当に冗談とか抜きにしてセシルさんは眠ってしまうかもしれない。四季も四季で約束の時間を忘れているのかも知れないし……うん。とりあえずチャイムで呼ぶだけしてみよう。
そう思って呼び鈴に手を伸ばすと、不意に四季の家の玄関が開く音がした。俺はその音で、呼び鈴にかかっていた指を離す。
「ごめんっ! セシルちゃんっ! 随分待たせちゃったね」
「ん。大丈夫だ、気にしないでくれ」
「俺は全く無視か……って! おおっ!」
先程の玄関の方から聞こえた音の正体はやはり四季だったようで、しかしその姿は、普段の四季からは全く想像出来ない、全くもって夏らしい浴衣姿であった。
――……時間が掛かっていたのは、このためか。
薄い青色の下地、水辺の花を思わせる白い花のプリントに、艶やかな桃色の帯紐。これだけで何時もよりも三割り増しで四季が可愛いと思ってしまうのだから現金なものだ。
「どう? 信ちゃん、セシルちゃん! 我ながら結構良い感じだと思うんだけど」
まじまじと見ながらそんな事を考えていると、四季は悪戯っぽく微笑んでそう言う。そして彼女は袖を掴むと、その場で一回りして見せた。
「おう。中々似合ってると思うぞ」
「ん。私は着物というものを初めて間近で見たが、君に良く似合っているな」
「へへへ。それじゃあ早速会場に参ろうか、御二方!」
そう言って彼女は前を向くと、軽やかなステップで歩き始める。俺とセシルさんは一度顔を見合すと、何時の間にか先の方に行ってしまった四季を追った。
************
「おぉ。やっぱ人が多いな……」
四季の家から歩いて十五分。道中、何やかんやと他愛の無い話をしていたが、祭り会場の川原に到着すると、その会話が聞こえないくらい人や音が溢れ返っていた。
――地域の小さなお祭りだからって楽観してたけど……。案外集まるもんだな。
「あちゃー。完全に出遅れたみたいね」
苦笑いを浮かべ、四季がそう言う。どうやら彼女の言う通り、俺達は丁度祭りのピークにぶつかったようで、遠くに見える矢倉の周りには、それなりの人数が居るみたいだ。
「こればっかりはしょうがないな。時間帯が時間帯だし」
「それもそうだね。まぁ、人混みは覚悟の上だし、それに寂れた祭り会場なんて面白くないもんね!」
「うむ。俺も人混みは嫌な部類だが、それもある意味祭りの醍醐味だからな」
昼間は俺もあんな事を言っていたが、実際この場に来てみると気分が大いに高揚するから不思議だった。きっとこれは祭りの魔力みたいなもんなんだろうが、今はどうでもいいような気がする。ていうか、深く考えるのは野暮ってもんだ。
「あれ? セシルさんは?」
それじゃあ早速という所で、さっきまで隣に居たセシルさんが居ない事に気付く。辺りを見回してみるが、それらしい姿はなかった。まさか、逸れた訳じゃないとは思うが……。
「四季、セシルさんが居ないんだが……」
「セシルちゃん? さっきまで一緒だった……あっ!」
何かを見つけた四季は、不意に今まで俺達が居た入り口の方を指差す。その先には、呆然と矢倉の方を見つめているセシルさんの姿があった。
「セシルさん、どうかしたの?」
「……」
迷子ではなかった事にとりあえず一安心し、俺はセシルさんの方に駆け寄るが、セシルさんは俺の方に気付いていないのか、話しかけても依然として視線を動かさなかった。どうしたのだろう、何だか再び不安になった。
「あの……セシルさん?」
「……ん? ああ、信介君か。どうした?」
心配になってセシルさんの顔を覗き込むと、ようやく俺の方に気が付いたのだろうか、セシルさんが何時の調子で俺に向かって口を開いた。その表情は本当にハッとしたようなもので、俺と四季から離れてしまった事に気付いていなかったみたいだった。
ていうか、何か気になった事でもあったのか。機微な変化に敏感なセシルさんの事だから、もしかしてまた吸血鬼が近くに居るとか……。
「あの……セシルさん? ひょっとして近くに危ない気配でも?」
遠くの方で待っている四季の方を一度確認すると、俺は小声でセシルさんにそう尋ねた。文化祭のケースもあるし、考えたくもないが、もしまたこの人混みで吸血鬼が襲ってくるなら、それなら一刻も早くこの場を離れなければ。
「いや、何となく懐かしい感じがしてな。ん。それで思わず見入ってしまっただけだ」
しかし、俺の心配とは裏腹に、セシルさんは穏やかな表情でそう言った。どうやら、セシルさんは別に吸血鬼を気にしていた訳ではないようだ。
「ああ、そういう事だったのか。ちょっと冷や汗かいちゃったよ」
思わず拍子抜けしてしまった俺は、額の汗を拭いながらセシルさんに返事をする。そうか……懐かしいのか。やっぱり、祭りのこの雰囲気は万国共通なのかな?
「ん。悪かったな、信介君。とりあえず、彼女を待たせるのも忍びないし、そろそろ私達も行こうか」
そう言いながらセシルさんは俺の肩を叩いて四季の方に向かって歩き出す。肩を叩かれた瞬間、セシルさんが珍しく楽しそうな表情を浮かべているような気がして、俺は思わず口元を緩めた。
「もぉー信ちゃん遅いよ! 祭りが終わっちゃうでしょ!」
四季に追い着くと、誰に言われるでもなく俺達は中心の方へ向かう。遠くから漂う美味しそうな匂いに鼻腔を刺激されたのか、その足取りも思いの外軽快だった。
「そんなに焦るなよ四季。祭りは逃げないからさ」
普段よりもテンション高めの四季は、文句の割にはニコニコ顔で、まるで子供のようにはしゃいでいた。
「焦らずにはいられないよっ! この年この日この時間っ! 今年の祭りは今しか楽しめないんだよっ!」
「それは分かるけど……」
そうこうしているうちに、俺達はようやく祭りの中心部に辿り着く。中心部は中央の矢倉から八方に伸びる明かりを吊るしたロープのせいか、夕方にしては明るく、そしてあの祭り特有の雰囲気を醸し出していた。
「おおっ! あれはイカ焼きに焼きそばにクレープっ! それにチョコバナナまでっ!」
「ん。とても良い匂いだな。私もあのあんず飴という食べ物には興味がある」
申し合わせたように四季とセシルさんが頷き合い、待ってましたとばかりに出店の方に向かってゆく。しかも、決まって食べ物のある所ばかりで、俺は思わず呆れて溜め息を吐いた。
「さて、どうする? 一、浴衣姿がプリティー過ぎる四季ちゃんの方に向かう。二、何だか良く分からないが自分の服を着ているセシルさんの方に向かう。ちなみに、三つ目の“フラグをクラッシュして一人で別の場所に向かう”という選択肢はバッドエンドまっしぐらだから気をつけろ」
「……何だその恋愛シュミレーションゲームみたいなフローチャートは。ていうか、たかが一人で別の場所に行っただけでバッドエンドとか鬼畜もいい所だ」
俺は振り返り、意味不明な選択肢を提示した張本人、蒼井賢治に向かってそう言い放つ。何を勘違いしているのか、異様に爽やかな笑顔が不可解この上ないが、当の本人はそんな事を気にする事なく俺に手を振った。
「よっ! 信介。久しぶりだな」
「おう、久しぶり。登校日以来だったな。元気にしてたか?」
偶然の再会……というと何だか気持ち悪いのだが、とりあえず俺も賢治に返事をする。何となく知り合いに会いそうな気はしていたが、まさか賢治と会うとは予想だにしなかった。
というのも、賢治は学園のある魁皇町から電車で数十分の場所に住んでおり、クラスでは一緒に居る機会は多いが、学校外でこうして会うのは結構珍しいケースなのだ。勿論、祭りだから遊びに来たのかも知れないが、それにしちゃ連れが居るような雰囲気じゃないな。
「そういえば、お前の家ってこの辺じゃないよな?」
「いやいや信介、祭りは其処に住む地域住民だけのものじゃないぜ?」
「まぁ、それはそうだけどさ。休みの日に遠くの祭りに顔出すなんて、お前も祭りが好きだなぁって思ってよ。他に誰か一緒なのか?」
「他に誰かってお前……」
何かを言いかけた賢治の視線が、急に俺の後ろの方へと向けられる。俺もつられて振り返ると、丁度四季とセシルさんがそれぞれ己が好みの食べ物をその手に戻って来た。
「おーっす、四季ちゃん。それと久しぶり、セシルちゃん」
「あっ、賢治君っ! 遅いよー、来ないかと思った!」
「ん? ……ああ君は、信介君のご学友の」
賢治は四季とセシルさんに手を振ると、そのまま鼻を鳴らして俺の方に向き直る。その一部始終で、俺は何となく事の成り行きが理解出来た。
「という訳だ、信介。俺はお前に美人二人を独占されるのを許せるほど、大きな器も余裕も持ち合わせちゃいないのさ!」
「……それで、こんな所まで態々鼻の下伸ばしてやって来たって訳か」
「ふふふ。実際、隠れファンが多い四季ちゃんの浴衣と文化祭でお会いした“フォーリンエンジェル”ことセシルちゃんがこの目で見れるんなら、例え地獄の業火の中だって行くのが男ってもんだろ?」
「そのまま地獄の裁きを受ければ良かったのに」
傍から見なくても気持ちの悪い笑顔を浮かべながら、賢治は俺にグッと親指を立てる。しかも二人には聞こえないような小声ならまだしも、堂々とこんな変態的な発言をするもんだから尚更性質が悪い。ていうか、こいつ本当に頭のネジが一本ぐらい飛んでるんじゃないか?
「まぁまぁ、信ちゃん。せっかくの祭りなんだからって呼んだのは私なんだし、大勢で遊んだ方がやっぱり楽しいじゃない。それに信ちゃん、休み中はずっと家に居たんでしょ?」
「そうだよ、信介。休みに入ってからお前を遊びに誘っても全然来なかったし、この前の登校日の時だって一人で先に帰っちゃったろ? 最近付き合い悪かったから、俺は結構心配してたんだぜ?」
「……うーん」
そう四季や賢治に言われると、確かに最近は色々あって付き合いが悪かった気がする。廃工場の一件もあったし、何より久しぶりにゆっくり出来るからと一日中ゴロゴロしていた日もあったし。そうなると、目の前の賢治や四季、もしかしたら他の奴らにも色々と心配させていたのかな……。
「にしちゃ、女性関係は大分ご盛んだったように見えるけどな。だから正直今日は、悔しいからお前のハーレムを邪魔しに来た」
「いやー、信ちゃんスケベー」
「……」
だけど、やっぱり賢治君と四季は俺が思い描いていた通りの奴らで、俺はああ、みんなそこまで心配はしていなかったんだと、心の底からそう思った。
「はいはい、それじゃあ世間話はこれくらいにして、賢治君も合流した所で、早速出店巡り再会!」
「そうだね四季ちゃん。こうしているうちにも、俺達の祭り、いやっ! 俺達の青春の終わりは刻一刻と近づいてる訳だからね!」
「その通りだよ賢治君っ! 我々はこの青春という掛け替えの無いシャングリラを、余す事無く遊び尽くす義務があるのだ!」
そう言って四季が元気良く手を振り上げると、調子の良い賢治も加減と人の目も気にせずに大きくガッツポーズをする。俺は何と言えば良いのだろう、お前達に。絶対にやる気のベクトルが間違ってる。
「……」
そして一方、さっきから静かなセシルさんといえば……。
「……ん。これは歯について少々食べづらいな」
どうやらこの場所に、俺の味方と成り得る存在は居ないようだ。
************
――これは……案外ハードだな……。
祭りの中心から少し離れた川沿いの土手に腰掛け、俺は頬流れる汗を拭った。
賢治と合流してから俺達は、矢倉の周りを何度も往復し、食い物から定番の金魚すくいや射的など様々なものを堪能し、気が付けば、空の色はすっかり暗闇に染まっていた。
矢倉の周りでは、六時半から始まった盆踊りがそろそろクライマックスを迎えようとしている。幼い頃から聞き慣れている祭囃子の小気味良い太鼓のリズムに合わせて人々の踊る姿を見ていると、俺は柄に似合わず何だか感傷的な気分になった。
「ふぅー食べた食べた。もう何にも食べられないよ」
俺の隣に座った四季が、満足そうな顔を浮かべて腹鼓を打つ。彼女の横には今まで彼女が食した食べ物の容器が積まれており、彼女がどれだけの量を食べたのかを物語っていた。
「私も物珍しさも手伝って大分色々なものを食べた。流石にもう私は出店巡りは遠慮したいな」
もう一方の隣に腰掛けるセシルさんが、俺越しに四季に相槌を打つ。見ていると、この短期間で二人は大分仲良くなったように見える。まぁ、そもそも四季は人見知りしないし、セシルさんも人怖じするような性格じゃないからな。
「ははは。セシルちゃん、もう出店は回らないよ。そろそろ祭りも終わりだし、今からはいよいよ感動のフィナーレってとこかな」
そう言って賢治は腕時計を確認すると、ちらりと遠くの方に目をやる。その視線の方を追っていくと、成る程、向かいの岸で花火の準備をしているようだった。
「そういう意味じゃここはベストポジションだね。近くだと見づらいし、町の方に戻るとビルに隠れて見えないし」
「俺達の家の近くからだとマンションが邪魔で見えないな。昔は家からでも見えたんだけど」
「俺の家はそもそも遠すぎて論外だ」
「ん? 待ってくれ。君達の話している事が良く分からないのだが」
怪訝そうに尋ねてきたセシルさんに俺達は振り向いた。
「ああ、ゴメンセシルさん。花火の話だよ」
「ハナビ?」
そう答えた俺の顔を見ながら、セシルさんはますます訳が分からないと眉を顰めた。
「そうか。花火ってよくよく考えてみたら日本語だな。日本名の花火のままじゃ、ひょっとしたらセシルちゃんに伝わらないんじゃないか? えっと、花火って英語でなんて言えば良いんだっけ? ビューティフルボムか?」
「……賢治君。例えネタだったとしてもビューティフルボムはないよ。直訳したら美しい爆弾だし。常識的に考えてファイヤーフラワーでしょ」
見兼ねた二人が思い思いの助け舟をセシルさんに出すが、悲しいかな船がセシルさんに辿り着く事はきっとないだろう。仮にこれでセシルさんが分かったとしたら、それは寧ろセシルさんが凄い。
「……セシルさん。花火はファイヤワークスの事だよ」
「ああ、なるほど。それでビューティフルボムとファイヤーフラワーか」
そういえば、セシルさんって確かに日本語は流暢に話せるが、たまにこういう風に特定の名詞や日本語独特の言い回しなんかが分からない事がある。そりゃセシルさんにとっては外国語なんだからしょうがないが、それは俺にとってセシルさんが外国人なんだと実感する数少ない瞬間でもあった。
「やっぱりやるな信介。この俺が認めた男だけはある」
「そうだね。伊達に勉強が出来る訳じゃないって事ね」
「もうつっこむ気すら起きないから何も言わないけどさ、それよりも花火は何時始まるんだ? さっきから一向に始まる気配がないんだが」
俺に言われて賢治は時計に目をやると、そろそろだな、と一言だけ呟く。すると次の瞬間、俺達のはるか頭上から大きな破裂音が数回に渡って木霊した。
「おっ、始まったな」
賢治は立ち上がり、腕を組んで半ば仰け反るように夜空を見上げる。周囲を見回すと、他の祭り客も賢治のように咲き誇る一瞬の花を見逃すまいと、固唾をのんで空を見守っていた。
辺りが少しずつ静かに成り始めたその時、一筋の白線が煌く星の海に流れ込んでいく。途端、夜空の更に上に昇った小さな蕾が一気に花開き、鮮やかな花弁と突き刺さるような音をこの町に注いだ。そして会場から零れる感嘆の声の収まりを待たず、新たな光の茎が再び漆黒の土壌へと伸びていった。
「……綺麗」
隣の四季がポツリとそんな言葉を漏らす。彼女の瞳は夜空に浮かぶ花火に照らされ、七色の虹のように輝いている。普段では全くと言って良いほど見る事のない彼女の姿に、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
――……やっぱり、来て良かったな。
可憐に花開く花火が、その轟音と共に俺の今までのストレスや疲れを一瞬にして吹き飛ばしてゆく。いや、きっと一人でこの美しい花火を見たとしても、心はきっと潤わなかっただろう。隣に賢治や四季、そしてセシルさんが居たからこそ、俺はこうして何物にも代え難い、満ち足りた気持ちに成れるんだ。
願わくば、この幸福が少しでも長く続いて欲しいと、俺は心の底からそう思った。