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Bloody beat 1

 男には、生まれ持っての宿命みたいなものがある。


 それは人によっては知らぬ間に通り過ぎるものだし、また違う人にとっては越えられない壁として一生立ちはだかるものでもある。しかし、それは形や大きさこそ違えど、誰しもに平等に訪れるものあるし、総じて心の価値を試すものだ。

 それはどう足掻こうと、決して逃げられる代物ではない。第一、逃げればそれだけの報いはある。かと言って、そう易々と乗り越えられる代物でもない。乗り越えられずに悩むからこそ、宿命と呼ぶに相応しいからだ。


 男には、例え負けると分かっていても、闘わなければならない時がある。


 ************


 渇ききった心が、深い深い甘美を求めて身体中を這いずり回る。それは脈々と流れる血液の隅々まで蔓延り、彼女を暗黒の世界へ疾走させる。理性が利かないのが野生ならば、今の彼女は当にそれなのだろう。鋭く研ぎ澄まされた双眸はギラギラと輝きを増し、獲物を求めた牙が闇夜に煌めく。

 彼女の足元には、首筋に二つの奇妙な刺し傷を残した若者が倒れていた。まだ息はしているが、微かに瞬きする瞳は何処となく覚束なかった。彼女は若者には目もくれず、漆黒のカーテンに包み込まれた町の空に飛び込んでゆく。人の姿をしているが、その動き一つ一つは人で在らざるもののそれであり、まるで獰猛な野獣の如き彼女は、次なる獲物を探して夜空を闊歩した。


 ――……血が足りない。新鮮な血が……一刻も早く“私”を満たさなければ。


 彼女、セシル・フレイスターは、吸血鬼を狩る事を生業とする、吸血鬼ハンターである。

 年齢は十七歳、性格は冷静だが熱しやすい。そして、腰まで伸びた銀色の髪と、サファイアを想起させる青色の瞳が特徴的な絶世の美人であり、現在は長期に渡る護衛を目的として最果ての地、ニホンに父親のアルフレッド・フレイスターと共に滞在している。

 そんな彼女が、どうしてこの神居北斗市内、天枢町の夜空を駆け回っているかと言えば、答えは簡単である。吸血鬼ハンターでありながら自らも吸血鬼である彼女は、使ってしまった力を取り戻すために、人の、それも若くて新鮮な血を欲しているのだ。

 普段は力をセーブしている彼女は、格下相手の戦闘ならば本来の力を使わなくとも何の事はなく、身体能力だけで十分過ぎるほど何とか成っていたのだ。それ故に血を吸う事が疎かになっても一向に問題ではなかったし、彼女自身もさして重要だとは考えていなかった。

 だが、今回の場合は違っていた。格下だと思われていた敵の予想外の善戦によって、身体能力だけではどうにも出来なくなり、そこで思わず彼女は本来の力を使ってしまったのだ。

 元々、吸血鬼の持つ力はセーブしても完全に消費を抑えられる訳ではなく、加えて長い事吸血をしなかった彼女にとって、この戦闘で消費した血の力は大きな誤算だった。吸血鬼にとって新鮮な血液の摂取とは、人間で言う鉄分の摂取に等しく、それ無しでは須く死に至る。圧倒的な力を持つ吸血鬼にとって、それは唯一の弱点であった。


 ――流石に、贅沢は言っていられないな。


 ネオンの隙間を縫うように駆け抜け、彼女は一本の電柱の上で制止する。彼女の視線の先に映るのは、三十歳を過ぎたくらいの女。笑ってしまうくらいに不用心だ。

 この時間にもなれば、昼間に比べて圧倒的に外を歩いている人間の数は減る。更には暗がりで、人通りの少ない道を通る輩など、数えるほどしかいないだろう。繁華街ならまた話は違うだろうが、生憎此処は地方の一都市だ。それほど選べる自由はなかった。


「……っ」


 刹那の空白の後、彼女は中年の男に向かって滑空する。銀色の髪を後に引き、獲物に肉薄する梟のような姿で、彼女は一瞬で夜の世界を切り裂いた。


「っ!?」


 空白すら与えず、梟は舞い降りた。そして次の瞬間には人間の女の口を抑え、鈍い妖光を放つ牙を女の首筋に突き立てた。

 途端、女の首筋から数本の赤い血液が噴出する。赤い流れは首筋から肩や胸を伝い、女の服を少しずつ赤く染めてゆく。女は、何が起こっているのか、どうして首筋から血が流れて来ているのかも分からず、事態を解せないまま、ただただ事の成り行きに身を任せるしかなかった。

 彼女の身体が、筆舌に尽くし難いほどの充足感で満たされていく。骨の髄まで染み渡り、その一滴一滴を体内に取り込む度に普段の自分を取り戻してゆく。そして、彼女はようやく抑えていた女の口から手を放すと、口許から零れる赤い雫を拭った。


「……力が大分戻ったようじゃな? セシル?」


 夜の暗闇の向こうから、低い男の声が聞こえる。その声に彼女は反応し、踵を返して振り返った。

 彼女が振り返った先に居たのは、夜の暗闇に溶けた黒い一匹の猫。その黒猫は一歩ずつ彼女に近づき、そして彼女の前で腰を降ろした。


「父上か? 居たなら居たと言ってくれ」


 彼女は黒猫を一瞥し、まるで誰か他の人間に話すように口を開いた。すると、黒猫は彼女の瞳を見つめ、見た目の鳴き声とは全く違う、男の声で返事をした。


「居たも何も、ワシはついさっきお前を見つけたんじゃよ。この町に充満する、酷い血の匂いを辿ってな」


 人間の言葉を話す黒猫。彼もまたセシル・フレイスターと同じく、裏の世界に生きる吸血鬼であり、同時にセシルの実の父親である。彼の名前はアルフレッド・フレイスター。外見こそ彼はただの黒猫ではあるが、その実は吸血鬼協会のエースハンターだ。訳あって普段は黒猫の姿をしているが、彼が必要性を感じた時に限り、その容姿は本来の人型に戻るのである。


「……」


 黒猫の言葉に、彼女は微かに眉を顰める。そして直ぐに彼女は鋭い眼光を黒猫に向けて口を開いた。


「お言葉ですが、父上。私がこんな余計な手間を掛けたのは、貴方の命令通りに不用意に外に出た葛城信介を護衛したからですよ?」


 彼女は顔には出さないが、それでも半ば怒りに近い感情を彼にぶつけた。元はと言えば、アルフレッドが葛城信介の全く状況を理解出来ていない提案を二つ返事で了承し、愚かにも敵の勝手知ったるお庭のような場所に、非力な人間の男を差し向けたのがそもそもの原因であろうと、彼女はそう考えていたのだ。


「その点については、お前には迷惑をかけたと思っておるよ。……まぁその分、成果はあったようじゃ」


「成果、ですか? お言葉ですが父上、今回は確かに完全体の吸血鬼と闘いましたが、恐らくあの連中は、今回の一件で切り捨てられるような気がします。恐らく上には繋がらないとは思いますが」


 彼女の言葉に黒猫は肯く。――“ノーブルブラッド”。彼はその反吸血鬼協会の組織の事を鑑みて、確かにあの連中なら、幾度となく失敗した組員を始末する事ぐらい、何の躊躇もなくやるだろうとは思えた。奴等のボスはそれぐらい用心深い奴だ。彼女の言う通り、今回闘った相手が再び姿を現す事は先ず有り得ないだろうし、個人情報を調べた所で結局無駄骨になるだろう。だが、それすらもアルフレッドにとっては、最早過ぎた事に成りつつあった。


「それはもう良い。第一に、例えそいつ等を捕まえられて情報を吐かせたとしても、良いとこ“グラストンベリーの邪教徒”の名前だけじゃろう。奴は確かに組織の中堅じゃが、その先の中核の部分に辿り着けなければ話にはならん」


「それでは、成果とは何です? 私には今回の一件で、それを肌で感じる確証がありません」


 納得のいかない彼女の顔を見つめ、アルフレッドは視線を逸らして空を見上げる。そして気を取り直すと、彼は夜空を見つめながら、静かに言葉を紡いだ。


「……信太郎の倅は、やはり信太郎の倅じゃったよ。それも、才能は親父よりあるかも知れん」


 短くそう言い切ったアルフレッドは、感慨深く溜め息を吐く。だが、その溜め息とは裏腹に、彼はこの町の夜空のように落ち着いており、寧ろその瞳は、誇らしさのようなものが見え隠れしていた。


「初めて話した時は、嫁さんの方に性格が似ていたから正直不安だったが、今日見た限りではそれも杞憂だったようじゃ。信介の力は間違いなく覚醒しつつある。これなら、早いうちにアレを渡せるじゃろう」


「……」


 表情を曇らせた彼女は、それを悟らせないように視線を背ける。しかし、意を決して彼女はアルフレッドの方を振り向くと、はっきりとした口調で言った。


「……父上。私はこれ以上、葛城信介を不用心に行動させるのは反対です」


 思わぬ彼女の言葉に、アルフレッドは思わず視線を彼女に戻す。彼女はアルフレッドの言葉を待たず、再び口を開く。


「確かに、あの“マスターオブノーテゥング”の力を受け継いでいる信介君が覚醒すれば、私達には願ってもない戦力になるでしょう。しかしそれを待つには、あまりにも時間の猶予がなさすぎる。それに、戦場で人間を護衛しながら闘うのは相当な負担になりますし、かと言って彼の力の危険性を考えれば、連中の手に落ちるのだけは何としても避けたい。……ですから、父上。“ノーブルブラッド”の連中を倒すつもりなら、信介君を安全な場所に匿って、私達だけで闘わなければいけないのではないでしょうか?」


 確かに、葛城信介の護衛という任務は紛れもない事実であり、出来る事ならば彼女だって彼の護衛をしなければいけないとは思っている。だが実際には、協会の要注意人物である葛城信介の護衛はあくまでニホン支部と本人の手前、体裁を立てるために吐いた詭弁であり、本来の任務である“ノーブルブラッド”の殲滅に支障を来たすのであれば、そんな虚偽の任務は放棄しても致し方ないと考えていたのだ。

 そして同時に、彼女は話しながら現在の頭痛の種である、葛城信介の事を考えていた。彼は頭は良いくせにバカ正直で頑張り屋、おまけに不器用という本当に今時珍しい性格の持ち主で、恐らくその性格のせいで何時かは彼女達の任務に致命的なミスを生じさせるのではないかと、彼女はそう思っていた。彼の事は嫌いじゃないが、それとこれとは話が別であり、出来る事ならなるべく早く別の護衛に彼を任せた方が、その方が今までよりもずっと確実に連中を始末出来るはずだ。


「ふむ。セシルが考えている事は、よく分かった」


 今まで彼女の言葉に口を挿まず、静かに話を聞いていたアルフレッドは、一度だけ首を縦に振った。


「ワシも、それは穴が空くほど考えたよ。態々信介を巻き込むより、自分達でノーブルを倒す事も考えてはみた」


「……それじゃあ、お分かりになっているのに、敢えてそれをしないと言う事なのですか?」


 怪訝な表情を浮かべ、彼女はアルフレッドに食ってかかる。しかし、アルフレッドはそんな彼女のとげのある言葉ももろともせず、そうだと一言短く肯定した。


「ワシらが信介をあの男から遠ざけた所で、起こるして起こるものを防ぐのは無理じゃろうさ。それ以前に、信介はあの男の倅じゃ。たった一人、自分しか居なかったとしても、きっと彼は闘い始めるよ」


「それなら尚更、私達は一刻も早く連中の息の根を止めなければならないんじゃないでしょうか? そのために、私は信介君の護衛という任務はこれからの闘いに邪魔になると思いますし、それに人間の彼がたった一人でも闘うと思うのでしたら、その前に同族である我々が先に連中を始末する事こそが、それが協会の吸血鬼である我々の使命なのではないでしょうか?」


 セシルの言葉に、アルフレッドは曖昧に返事をする。確かに彼だって協会の吸血鬼である以上、戦闘に関しては吸血鬼の足元にも及ばない人間に、吸血鬼との闘いを強いるのには大きな抵抗があった。況してやそれが、かつて心を許した友人の息子となれば、その気持ちは殊更強いだろう。しかし――


「……セシル。俺達がどんなに強かろうが、他人の運命を肩代わりする事なんて出来ないだろう。例え彼の相手が俺達の同族で、信介とは圧倒的な力の差があったとしてもな」


 アルフレッドの口調が変わる。普段の訛りのひどいものは消え去り、彼が本来の姿の時に見せるあの口調だ。その声を聞き、セシルの表情は一瞬強張った。


「それにな、お前はこれからの闘いでは信介は邪魔になると言っていたが、俺は全くそんな事は思わないな。いいか、セシル。才能というものは、命の危険を孕んだ状況を経験する事でより早く開花するものだ。実際に瀬戸際を渡り歩いて、自らの恐怖と幾度となく闘って、そうやって自分の力に閃くものだ。お前にだって、そんな経験は少なからずあるだろう?」


 不服そうな顔を浮かべるセシルは、アルフレッドの言葉に迷いながらも肯く。運命なんて胡散臭いものは信じられないが、しかし、彼女はこれ以上アルフレッドにものを言っても、彼は頑として意見を変えないだろうと思っていた。


「まぁ、今すぐ納得しろとは言わないさ。これからどうなるかなんて、神様にしか分からない事だろうしな」


「……しかし、父上には彼が覚醒するという、そういう確信があって仰っているのでしょう? 私は一向に見当がつきませんが」 


「確信も何も、信介は覚醒せざるを得ないさ。


…………なんせ連中のボスは信介の両親を葬った、正真正銘の宿敵なんだからな」


************


 小さいの頃の俺は外で遊ぶよりも、家で黙々と読書をするのが好きな、どちらかと言えば内向的な性格だった。

 どうして読書をするのが好きになったのかは憶えていないけど、とりあえずあの頃の俺は両親が死んでしまったその孤独を紛らわせるために、ただひたすらに本を読み続けたんだと思う。

 確かに本を読んでいる間はつまらない現実からは遠ざかったし、自分が孤独である事を忘れられたから、幼い俺の逃げ所としては、これ以上の場所はなかったのだろう。もう少し大きくなって、それが現実逃避だと気付いても俺の逃げ場所としての読書への熱意は揺るぐ事はなかったし、少なくともそれに気付いてからはその事実すらも忘れるために、一層俺は読書に熱中していた。


 彼女と出会ったのは、そんな俺の読書熱中時代の、それも最盛期での事だった。見るからに目付きの悪いスーツ姿の大人の人に手を引かれ、その人の後ろに隠れながら幼い俺の方をじっと見つめている姿を、俺は今でもはっきり覚えていた。


 そして彼女もまた、俺と同じような境遇だった。


 彼女の場合は母親だけだったが、それでもその痛みは絶大である事を俺は良く分かっていたし、その痛みは自分一人じゃどうしようも出来ないくらい深い事も、俺は長い長い読書生活で理解していた。

 だからという訳じゃないが、彼女とは家が近所という事もあって、毎日一緒に学校に通っていた。最初は俺の後ろの方で黙ってくっ付いているだけだったが、時間が経つとそれなりに会話も生まれ、距離も縮まり、そして気付いてみれば彼女は俺の横で屈託なく笑うようになっていた。


「……」


 俺は目の前に座って、必死に夏休みの宿題と格闘している岬四季みさき しきを眺めながら、ふとそんな事を思い出した。今の元気そうな彼女を見ると、出会ったばかりの頃が嘘のように見えるから不思議だ。


 三日前に起きたあの廃工場の一件は、後日帰宅したアルフレッドさんとセシルさんの話によれば、日本の吸血鬼協会支部の方で速やかに処理され、利用されていた人間達も無事保護されたらしい。それを聞いた俺は一先ず安心し、そして同時に四季の後輩の子は吸血鬼とは無関係だった事で、そこでもう一度安堵したのだった。

 そして、兎にも角にも先ずは四季に連絡だと考えた俺は昨日の夜に電話をしたところ、どうやら彼女は単に親と喧嘩して家出をしただけだったらしく、一週間くらい前に既に家に帰っていたらしい。道理で見つからない訳だと思ったが、そもそも四季もその事を知ったのはその日の部活の時だったようなので、俺は深く言及しなかった。

 そして今日。これと言ったやるべき事もなくなり、多分に暇を持て余していた俺は、とりあえず夏休みに入ってから全く手つかずだった宿題を片付けるべく、クーラーの利いた表の喫茶店の方に居た。無論、俺の部屋にはクーラーなんてご大層な贅沢品は設置しておらず、かと言って居間に居ればセシルさん達が居て集中出来ないので、ここは勉強に最適と言えば最適なように思える。まぁ、客が居なくなった途端に叔父さんが世間話をしてくるのを除けばだが。


「信ちゃん、ここと、ここと、ここが分かんない」


「どれどれ……って、このページ全部じゃねぇか!」


 しかし、そんな快適な勉強場所にも、思わぬ落とし穴があった。それは俺が勉強を開始してから数時間、一息吐いてコーヒーでも飲もうかと思った頃だった。

 真夏のアイスコーヒーの破壊力は絶大だなぁと感慨に浸りつつ、じりじりと太陽に照りつけられている外を眺めていると、不意に視線の先に見覚えのある女の子が見えた。その少女はもう暑くてどうしようもないのか、明らかに気だるそうな表情を浮かべ、覚束ない足取りで喫茶店の前を横切ってゆく。

 その少女こと四季の家は確か、四季の親父さんの岬さんの意向でクーラーのような贅沢品家の類は置いていないから、恐らく彼女はそんな灼熱地獄の家から抜け出して、クーラーの利いた近くの図書館に涼を求めて向かっているのだろう。

 まぁ確かに、あの家で昼間は勉強出来ないなと思いつつ、俺はアイスコーヒーを口に流し込む。そしてもう一度、真夏のアイスコーヒーの破壊力は絶大だなぁと感慨に浸りつつ、炎天下の外の方に目を移すと、


 窓の外で、汗だくの女の子がコーヒーを飲む俺を恨めしそうに眺めていました。


「えーっとな、先ずこれとこれをエックスで括って……」


 そんなこんなで俺を見つけた四季は、まるでそれがさも当然のように俺の座っていたテーブルの向いの席に腰掛け、図書館でやるはずだったという数学の宿題を開き、先程のように俺に答えを聞いてくる。この一連の流れの中で、もし仮に俺に拒否をするタイミングがあったとすれば、俺は恐らく迷う事無くその拒否権を行使したのだろうが、どうやら彼女には俺の思考もお見通しのようで、俺が彼女に勉強を教えるという構図を、彼女は拒否権を使わせる事もなく、ものの数分で作り上げたのだった。


 ――何と言うか……恐るべし、幼なじみ!


「……んで、最後にこれに最初の式を代入してだな……」


「おっ、見知った顔だと思ったら、四季ちゃんじゃないの。何か飲んでく?」


「あっ! おじさん久し振りっ! それじゃあ私もコーヒー! ミルクは多めで!」


「……同じようにこれでビーの値も分かるから……」


「アイスでいいかい? ちょっと待っててね。あっ、そうだ。昨日買った美味しいケーキがまだ残ってたはずだから、それも一緒に出してあげるよ」


「うんっ! お代は信ちゃんと一緒にしておいて!」


「……ちょっとお前等待てぃ!!!!」


 堪忍袋の緒が切れた俺の声に、二人は一瞬驚いて俺の顔を見るが、再び顔を見合せて談笑を始めた。叔父さん好みのレゲエのリズムに乗って、二人の楽しい笑い声が俺の耳に届く。まるで、俺の存在など忘却の彼方に消え去ったかのように――


「……って! こんな事で忘却の彼方に消え去ってたまるか! ていうかあんたら人の話を聞けぃ!」


「……何だよ信介、またそんなにかっかして。お前は此処に勉強しに来たんじゃないのか?」


「そうだよ信ちゃん。騒いだら他のお客さんに迷惑だよ?」


「他のお客さんも何も、此処には叔父さんと四季と俺しか居ないでしょうが! それに四季、頼むから宿題という認めたくない現実から目を背けないでくれ! それと叔父さん! 勉強の邪魔とは言わないが、あの残ったケーキは俺の分だ!」


 そもそも四季は本当に夏休みの宿題をやる気があるのだろうかと、そんな疑問すら抱いてしまうほど彼女の宿題は進んでおらず、ぶっちゃけ今日始めたばかりの俺より遅いってどういう事って感じだ。叔父さんに至ってはもう完全に仕事だるいって顔して呆け切ってるし、とりあえずあんたら外に出て歯ぁ食い縛れっ!


「ケーキぐらいで怒るなよ。そんなんだからお前、ほら、あれだよ、あれになっちゃうんだよ」


「おじさんの言う通りだよ、信ちゃん。そんなにケーキが食べたいなら、私の半分あげるから、ね?」


「ほらほら信介、お前がケーキ如きでムキになるから、四季ちゃんに余計な気を使わせちゃったじゃんか。ゴメンな四季ちゃん、本当に信介があんな奴で。それでも、何時までも友達で居てやってな」


「誰があんな奴だっつうかあれってなんだよ! 幾らなんでも不明瞭すぎんだろ! ていうか四季がケーキを食べるのが既に決定事項なのか!?」


「……信介。確かにケーキはお前の分だ。それは認める。……だけどな、俺は目の前に現役バリバリの可愛い女子高生が居たのなら、自分の出来る限りの最高のサービスをその子にしたいと思うし、俺はそういう奴であり続けたいと心の底から思っている。例えそのサービスはお前のケーキであったとしても、な。男のお前なら……分かるよな?」


「分かんないし分かりたくもないしこの先分かる事は決してねぇからそんな屁理屈! ていうかカッコつけても結局それ全部叔父さんの下心でしょうが!」


「信ちゃん……私は、同世代の息子が出来たとしても、そこに愛があれば問題ないと思う」


「お前も意味分からねぇから! どうして今の会話でそういう結論に行き着いた!? そして叔父さんも肯くな! 叔父さんが肯くと妙にリアルで怖いから!」


「なぁ……信介。ここまでお客さんが来ないのって正直まずくないか?」


「何気にお客さん来ないの気にしてたのか!」


 俺はとにかく、ありったけの思いとツッコミをぶつけるが、きっとこの二人は柳に風、馬耳東風、右から左で全く聞いちゃいねぇんだろう。もう良い。この二人を引き合わせると何時もこれだ。俺のペースなんてあったもんじゃない。


 ――あんた達はそんなに俺をいじめて楽しいのか!


 もう半ば諦めて、自分の宿題に没頭しようと決めた俺は、既に飲み干したグラスの中の氷を口に頬張り、それをガリガリ噛みながらまだまだ真っ白に近いノートに目を落とす。これ以上あの二人に関わってると日が暮れちまう。


「ねぇ……信ちゃん」


 ようやく周りが気にならなくなった頃、叔父さんとの話も一区切りついたのか、四季が俺の顔を覗き込んで来た。俺はまた分からない所があるのかと、視線を四季の方に移した。


「本当にありがとうね。……私の後輩探しを手伝ってくれて」


 急にしんみりした口調で、四季はそう言った。


「何だよ急に。礼なら昨日電話口でしてもらったし、それに俺だって結局見つけられなかったんだから、大した事はしてないぜ?」


「それでも、せっかくの休みなのにわざわざ天枢町まで行ってくれたんだしょ? 見つからなくたって、大した事はしてると思うよ」


 また叔父さんは余計な事をと、カウンターの方をちらっと見るが、今は他のお客さんの対応で忙しくなったらしく、叔父さんはせかせかと注文されたサンドイッチを作っていた。俺は視線を四季の方に戻すと、うぅんと唸って頭を掻いた。

 確かに、四季には天枢町に捜しにいっていたのは伏せていた。勿論、四季に変な気を使わせたくなかったていうのもあるが、実際の所は四季の後輩が一連の吸血鬼の騒ぎに巻き込まれたかも知れないと思ったからだ。無関係な四季を吸血鬼に関わらせたくないし、それ以上に俺のワガママに四季が巻き込まれるのは絶対に嫌だった。だから、俺は今回の天枢町探索は、終始四季には教えなかったのだ。


「まぁ……そりゃ、散歩のついでって奴だよ。ちょうど欲しかった本があったし」


「ふーん、散歩ねぇ……。出不精の信ちゃんがねぇ……」


「何だよ、その疑ってますって目は。通りの本屋になかったからだなぁ」


「ふーん。天枢町って、何回も通わないといけないくらい本屋さんってあったっけ?」


「ちょっ! ていうか、叔父さんまた……!」


「やっぱり、何回も行ってくれたんだ」


「……あっ」


 カマをかけられた事に気付き、俺は思わず声を漏らしてしまった。その様子を見て、四季がふっと微笑む。


「見かけたらでいいって言ったのに。それとも、そんなに私とデートしたかったの?」


「……いや、四季が俺を頼るのは、大抵一人で困ってる時だからさ、出来るだけ力に成りたかっただけだよ」


 お前とは一応幼なじみだからな、と一言付け加え、俺はバツが悪くなって四季から視線を逸らす。本当は四季に吸血鬼の事を追及されるのが嫌だったのが本音だが、四季の力に成りたかったのも嘘ではない。俺はそう思って再び四季の方を向くと……


「ううぅ……信ちゃんっ!!」


「のわっ!!」


 半分泣きながら、いきなり抱きつかれた。


 ――いやいやっていうか!! お前何時の間に俺の横に移動したんだっ!


「このぅ! 愛い奴めっ! 愛い奴めっ!」


 小さい胸が俺の身体にぶつかっている事も全く気にせず、四季はもうただがむしゃらに俺に抱きついて離れない。それより、例え冗談でも女の子がみだりにこんな事しちゃいけません!


「大丈夫! 失敗したけどちゃんとデートはしてあげる! そうだよ! 大事なのは結果じゃない! 過程だよ!」


「分かった! 分かったから! とりあえず落ち着け! 恥ずかしいから!」


 必死の抵抗空しく、彼女は何のお構いなく俺の頭をガシガシと撫でる。こんな時に変な話だが、本当に加減を知らない所は岬さんそっくりだ。


「……やれやれ。本当に我が甥は、女の子には不自由しないようで」


 遠くでそんな声が聞こえたような気がしたが、とにかく今はこの暴走娘引っぺがす事だけを考えよう。……いや、考えなければ。


************


「……」


 騒がしい喫茶店の中を、向かいのマンションの屋上から男が冷やかに見つめている。

 屋上の貯水タンクの上に立つ男に、不思議に気が付く人間は居ない。その男はまるで自分が影であるかのように、自然と魁皇町の街並みに溶け込んでいた。


 男の顔には、白いキツネの面が付けられていた。


 キツネ面の男が一度動く度に、周囲の風がざわめく。決して強くはないが、決しては弱くはない風。それは男の周りを廻る様に、流れては消え、そしてまた流れては消えていった。


「……」


 男の周りの風が一瞬その強さを増す。視線の先には、喫茶店のマスターの顔。穏やかな笑みを浮かべているその表情が、一度だけこちらに向いたような気がしたが、男は気にせずにその喫茶店の中を見つめ続けた。


「……」


 男の視線は今度は、喫茶店の端に座る少年の方に向かう。知り合いらしい少女に抱き付かれ、やや疲弊したような顔をしているが、その顔は間違いなく男が捜していたものだった。


 ――目標の姿を確認しただけでも、今日は収穫だったな。


 男はそっとキツネの面を取り、少年の姿をしっかりと目に焼き付ける。男の表情は太陽で霞んでよくは見えないが、どちらかと言えば葛城信介に近い年齢の若さを持っていた。

 不意に男の周りの風が強さを増す。其処だけ局地的に竜巻でも起こったかのように、男の姿が掻き消える。そして次の瞬間には、男の姿は風の向こうに消え去っていた。

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