月の輝く夜に 1
夕方になっても、昼から降っていた雨が止む事はなかった。
幾千もの白線の束が、絶え間なく景色を横切り、そして消えていく。梅雨入り間近だから何となく警戒はしていたが、それでも急に降られるとやっぱり鬱屈とした。
今朝の天気予報では夜まで持つと言っていたが、それは見事に大外れだった。叔父さんが洗濯物を取り込んでくれていればいいのだが……いや、それより今は何としても傘を手に入れなくては。
「うわー。マジかよ」
バッグの中を必死で探すが、やはり目的の物は見当たらない。この前鞄を整理した時に、そのまま折り畳み傘を入れ忘れたのかもしれん。
しかしまいった。これじゃ自宅までの三十分、何の遮蔽物もなくこの身を冷たい雨に晒す事になる。そしたら、まず間違いなく風邪を引く。中間テストが近いこの時期に、それは正真正銘の命取りと言うものになるだろう。それだけは何がなんでも避けなくては。
「信ちゃん。一緒に帰らない?」
俺が下駄箱の前で呆然と空を眺めていると、後ろの方から四季の声が聞こえた。その手には俺が今欲している、携帯用には少し大きい折り畳み傘が握られていた。
「あれ、今日部活じゃないのか?」
「テスト前だから、今日は部活は休み。そういう信ちゃんだって今日は早いじゃん」
「まぁ、俺の下校が早いのはそういう訳じゃないけどな。普段通りだ」
しかし、ここで四季に会えたのは好都合だ。傘がない俺にとってこれほど頼りになる人間は今の所いない。そういう訳で俺は、手を合わせて四季に頭を下げた。
「四季、頼む! 家までお前の傘に入れてくれ!」
「折り畳みでいいなら、はい」
そう言うと四季は、案外あっさりと持っていた折り畳み傘を俺に差し出した。それを受け取り、口をポカンと開ける俺。
「え? いやその、お前の奴だろ? これ?」
案外あっさりと傘を貸してくれた四季に、少し戸惑いながら傘を返そうとしたが、四季は笑って首を振り、肩から下げたバッグに手を入れた。
「もう一個持ってるから大丈夫だよ。信ちゃんは変にとろいから、傘忘れるなぁと思って持ってきてた」
「そ、そうですか」
俺の行動パターンを計算し、あまつさえ俺の失敗を見抜いて確実にフォローする四季に、俺は感嘆を通り越して戦慄していた。そして恐るべし、長年の腐れ縁。どっかの王道恋愛小説なら、このシュチュエーションで俺は間違いなくTKO負けを喫していただろう。
――頬に、奴の右ストレートがかすったぜ……。
「信ちゃん?」
「何?」
「今、萌えてたでしょ?」
「……」
もうこれ以上、俺から言葉が出る事はなかった。
スニーカーの踵を正し、四季に借りた少し大きめの傘を差す。傘に落ちる雨の雫の音が、なんとも心地よかった。俺が歩き始めると、俺の隣にとことこと四季が追いついてくる。
「しかし」
「最近は運がいいんだか悪いんだか分からねぇ」
校門を過ぎた辺りで、俺は四季に聞こえるぐらいの声で言った。
「運って?」
四季は聞き漏らさず、すぐさま俺の方を向いて返事をした。
「彼女の誤解が解けたと思ったら殴られたり、約束をすっぽかされたかと思ったらそいつの危機を救えたり……今日だってそうだ、傘を忘れたと思ったら、四季が二本持っていてくれたりとか」
こういうのを、世の中では悪運が強いというのだろうか。にしても、最近はそれがすごく顕著に現れているような気がする。
――まぁ、元々運がいい方ではないんだけどね。
「うん。最初のは別として、運がないのより全然いいじゃん」
「そりゃ、そうだけどさ」
確かに、最終的に良い方向に事態が転がっていってくれるならそれに越した事はない。だけどこういう運の悪さは、厄介なもので持続するものだ。これからの事は分からないが、やはりこういう事が続けば人間不安に思うのも必至だろう。何となく根拠のない不安があった。
学校からの坂道を下り、大きな通りに出る。雨のせいか、人通りも疎らだ。歩いているのは買い物帰りのおばさんや、俺達のような学校帰りの学生ばかりだった。
「でも、きっと大丈夫だよ。信ちゃんって、自分が思ってる以上に何とかしてるし」
交差点で信号を待っていると、おもむろに傘を傾けて四季が言った。
「んー。そんな感じでいいのかな」
「いいんだよ。……それに」
信号が変わり、歩行者の信号が青になる。四季は俯いて歩き始め、俺も無言でそれに続いた。
「? それに?」
「それにさ……」
横断歩道を渡り、俺が四季の方を振り向こうとした、その時だった。
「きゃああああああぁぁぁ!!」
言葉にならない女性の悲鳴が、雨の音を切り裂いて通り一面に響き渡る。俺はとっさに足を止め、辺りを見回す。そして今さっきまで歩いていた向こうの歩道の先で、一人の女性が顔に両手を当てて叫んでいるのを見つけた。
俺は四季に目配せし、すぐに来た道を戻る。そして女性の所に駆け寄ると、女性の腹部からは真っ赤な液体が静かに広がっていた。
「大丈夫か!?」
力無くその場に倒れかけた彼女を支え、俺はゆっくりと彼女を座らせる。女性の腹部を見てみると、まるで刃物に切りつけられたかのような大きな切れ目から、止めどなく血が流れていた。
――事故じゃない。急所に、しかもこんなに正確に鋭い傷跡が出来るわけがない。どう見たってこの傷は、誰かの故意によるものだ!
「四季!」
俺の言葉に四季は頷き、その場に傘を置いて四季はすぐに電話を取り出した。事件かどうかは後回しだ。それより一刻も早くこの人を病院に運ばなければ。
「どうしたんだ!」
元々は人通りの多い交差点だ。すぐに周りから大人達が集まってくる。中には野次馬もいるが、今来た男なら頼りにしてよさそうだ。
「分かりません! 叫び声が聞こえたんで来てみたら、腹部から血が……」
すでに女性は意識を失っている。外見からして、大学生かそのぐらいの年齢の人だろう。俺は彼女に雨が当たらないように傘を握り直した。
「とりあえずここは雨が強くてまずい。近くの建物まで彼女を運ぼう! 君、そのまま手伝ってくれ!」
女性の身体を支えていた俺に、先程駆けつけて来た男が叫んだ。俺は無言で頷き、女性の身体を支えながらそっと持ち上げた。
「信ちゃん!」
救急車を呼んでいた四季が俺の方を向いた。
[救急車は?」
「すぐに来るって! だからすぐに応急処置しないと!」
持ち上げた女性を運ぶために、サラリーマン風の男は女性に肩を入れ、俺に歩くように促す。俺は四季に頷いてみせると、片手を塞いでいたバッグを手渡した。
「これからこの人をそこのコンビニまで運ぶから、救急車が来たらそっちに行くように言っとい
てくれ!」
「分かった!」
何時の間にか集まっていた大勢の野次馬を退かし、俺と男は歩き出す。此処からなら二十秒ほど歩けばおそらく目的地に着くはずだ。女性の腹部からは、今もどくどくと濃い血液が流れている。迷っている暇はない。
きっと大丈夫だ。出血してまだそれほど時間は経ってないし、救急車だってすぐ来る。だから死ぬはずなんてない。そう自分に言い聞かせ、俺は女性を半ば引きずるように歩いた。
目の前に、目的地であるコンビニエンスストア見えてきた。もう少しだ。あそこに行けば何かしらの応急処置が施せる。
『……絶対に、殺してやる』
「!?」
頭の中で、急に声が響いた。どこかで聞いた事があるような、そんな聞き覚えのある声。低くてフラットでそして静かだが、何かをひどく激しく憎んでいる、そんな感じの男の声だった。
濡れそぼった前髪を拭い、俺は辺りを見渡した。周囲にいるのは野次馬や、俺達や野次馬を冷ややかに見つめている通行人だけだ。きっと聞き間違えだ。そう思い、再び俺は前を向いた。
『絶対に殺してやる』
やっぱり聞き間違いじゃない! 今度ははっきりと聞こえた。俺はもう一度辺りを見渡し、この声の主を探す。そして、女性を運ぶ俺を静観している名前も知らない通行人の、その中の一人に俺はふと目が止まった。
――なんだ……この感覚。
その男に感じる、何とも言えない不愉快な感覚。見た目の印象は同年代ぐらいだし、身長だって大きめだがそれが特出している訳でもない。どう見たってただの通行人のはずだ。しかしどうしてもこの男の感じが、あの頭に響いた声の感覚に似ているような、そんな考えが頭から離れなかった。
「あの」
俺達の数歩後ろから着いて来ている野次馬の方を向いた。
「どうした?」
野次馬の一人が俺の近くに歩み寄る。俺はその男を一瞥すると、意を決して口を開いた。
「この人の肩、お願いします」
そういうと彼女の肩から身を外す。男は何か言おうとしたが、俺が身を引くと結局何も言わずに女性に手を貸した。
野次馬をすり抜け、俺は急いで四季の所に向かう。あの不愉快な感覚が確かなものならば、それはまず間違いなく誰かに向けた殺意だ。だとすれば四季が危ないかもしれない。今もあいつは、あの交差点で一人で待っているはずだ。
ワイシャツが雨で濡れ、中に着ていたティーシャツまでぐちゃぐちゃになっている。スニーカーだってびしょびしょだ。こりゃ、連休中に洗濯しなければいけないな。不安を紛らわすように、俺はそんな事を考えていた。
『……そんなに急いで、何処に行く?』
急な声と共に、鈍い衝撃が俺の首筋に走る。足元がもつれ、目の前が静かに暗転した。そして薄れゆく意識の中で、俺は二つの事に気付かされる。
一つは、さっき頭の中に響いた声の感じが、昨日殴った男のものに似ていた事と、
そしてもう一つ。……あの女性に傷を負わせた犯人が、まだこの近くに潜んでいた事だった。