The absurd 1
重機械が大量に置かれた部屋に逃げ込んでから数分後。全力疾走をして悲鳴を上げていた俺の身体は次第に落ち着きを取り戻し、ようやく一息吐いて今後の事を考えていた、当にその時だった。
この部屋を覆うガラスの向こうに、先程までは右往左往に走り続けていた吸血鬼もどきが、どういう訳だか少しずつこの部屋の周りに集まり始めていた。それも一人や二人ではない。まるでこの建物に居た全ての吸血鬼もどきを集めているが如く、時間が経つ毎にその数を少しずつ増やしていたのだった。
――もしかしてこの場所……ばれてるのか?
確かに多少ガラスのせいで見つかりやすいが、上の沢山ある小部屋と違って此処は見渡すには物が多過ぎるし、照明の明かりも付いてはいない。
もっとも、それだけ此処は逃げ込む事を予想しやすい場所なのかも知れないが、それでもこの短期間でこの人数の集まり方はおかしいし、例え一階に俺が居る事が分かっていても、此処に入る時は近くに吸血鬼もどきは何処にも居なかったのだ。
だから何と言うかこれは、此処の部屋に俺が居る事を予測して、人海戦術で此処を覆うように包囲しようと考えているというか、寧ろそれでしかこの状況は説明出来ない。
色々と考えている間にも、今も続々とガラスの向こうには吸血鬼もどきが集結し始めていた。その様子を見ながら、俺は大きな溜め息を吐く。文化祭の時といい今回といい、何かどんどん敵が厄介な奴になって来ているような気がする。叔父さんには大層な事を言ったけど、こんな感じだと本当に心が折れそうだ。
――だけどまぁ、やるしかないんだろうけどさ。
自分が撒いた種ではないが、誰かの尻拭いでもない。元を正せば顔も思い出せない親父のせいなのかも知れないが、この世に居ない人間に責任の所在を追求したってそんなもんはしょうがない。だからこれは、誰の問題でもない俺の問題だ。俺が歯を食い縛って取り組まなければいけない俺の問題だ。
「…………よし」
状況を整理しよう。自分が今置かれている状況だけでなく、これからどう状況が動いていくかも含めてだ。此処にセシルさんは居ない。俺が戦わなければならない。敵に背中を見せて逃げるだけでは、もうどうしようも出来ないんだ。
腰に付いている銃には弾が入っているが、何発入っているかは分からない。替えのマガジンもあるが、果たして銃の撃ち方も知らない俺が直ぐにマガジンを交換出来るかは甚だ疑問だ。それ以前に発砲出来るか、敵に当たるかって話だし、この銃を完璧に当てにする事は出来ない。
しかし、当てに出来なくとも、これが格闘技の経験も抜群の身体能力もない俺が行える唯一の攻撃手段なのだ。さっき倒した吸血鬼もどきの様子から考えれば、残念ながら威嚇の効果は得られそうにない。だから仮に銃が撃てても、敵や状況を考えなければ直ぐに無用の長物に成り下がる。
腰から銃を引き抜き、震える手で俺はそれを握る。生気を持たない銃が俺の体温を奪うが、今から自分の運命を委ねる武器をずっと腰にひっ付かせておく訳にもいかない。勿論、それは逃げるためのではなく、闘うための一手としてだ。
俺は高鳴る鼓動を抑えようと、大きく息を吸う。ガラスの向こうの吸血鬼の数はあれから増えてはいない。という事は、そろそろ向こうも動くはず。俺はもう一度握られた銃を見つめると、そこで息を吐いた。
――吸血鬼もどきは……恐らく吸血鬼の特殊能力。
バスに乗ったままずっと動かない奴ら、ガラスの向こうの大量の吸血鬼もどき。普通の人間や今までの吸血鬼とは異質な雰囲気を漂わせるこいつらは、恐らく前にも聞いた吸血鬼の使う特殊な力の影響を受けていると考えても良いだろう。
それに加えて俺が隠れている時に聞いた古賀ともう一人の会話から、先程まで工場の中に居たのは古賀ともう一人だけで、そしてその古賀ではない方の吸血鬼が吸血鬼もどきに関係する能力を持っており、更にそいつが工場周辺に残っているなら、その吸血鬼が吸血鬼もどきのブレーンという、ある程度の予測が立てられる。
――狙いは、ガラスの向こうの吸血鬼もどきじゃなくて、ブレーンたる吸血鬼本体だ。
吸血鬼本体を倒せば、そいつの能力の影響を受けている吸血鬼もどきの動きは止まるはず。そして向こうは俺が武器を持っている事は恐らく分からない。つまり、俺の前に吸血鬼が現れたその瞬間が俺に与えられた最大のチャンスという訳だ。
ガチャン!
俺の思考を遮り、扉が大きな音を立てて開いた。続けてなだれ込むように廊下に居た吸血鬼もどき達が押し寄せる。俺は重機械を背に立ち上がると、肩越しに奴等の本体である吸血鬼を捜した。
一言として言葉を発せず、吸血鬼もどき達は蜘蛛の子が散る様に部屋の中に広がってゆく。この部屋は横にも縦にも広いが、きっと俺の居場所なんてあっという間に見つかってしまうだろう。俺は背負っていたバッグを地面に下ろすと、音を立てないように少しずつ死角から死角へと移動した。
「……違う……これも……あれも違う」
壁を背にし、俺は重機械の合間から吸血鬼もどき達を観察する。俺と同じような学生、少し歳を重ねた白髪混じりのサラリーマン、中には明らかに堅気ではないような風貌の奴も居た。しかし、そのどれからも本当の吸血鬼が放つ、体中にねっとりと絡みつく禍々しい悪寒を感じない。そのどれもが建物のあらゆる所から感じたあの薄い匂いで、この中にはそれらしい者は見当たらなかった。
――此処には居ない。もどきが俺を捕まえたのを確認した後にでも来るつもりなのか?
……落ち着け、落ち着け、落ち着け。もっと良く観察するんだ。大勢と言ってもたかが十数人、見極められない事はない。感覚だけに頼るな、もっともっと分かりやすく、シンプルな方法があるはずだ。
「……!」
重機械の合間から、一体の吸血鬼もどきと目が合った。一瞬、俺の心臓が止まる。生気を感じないその瞳の男が迷う事無く俺の方に近づき始める。銃を使うか? それとも……。
即座に辺りを見渡し、俺は何か他の手を考える。吸血鬼の匂いが薄いこの男は本体ではない。それにまだちゃんと銃の使い方も把握出来ていないし、今は撃てない。ざっと周囲を確認すると、この部屋の突き当りに上へと続く階段と、その階段の先に扉があるのを確認した。
他の吸血鬼もどきに見つかる事を覚悟し、俺は躊躇う事無く走り出す。距離は此処からだと随分あるが、迷っている暇も時間も余裕もない。それに吸血鬼相手の鬼ごっこならもう二回も経験している。来るなら来やがれだ。
足元に転がっていたダンボールを飛び越え、先程目が合った吸血鬼もどきの制止を振り切り、俺は数多の重機械を避けながら走り続ける。ちらっと周りを窺えば、部屋中の吸血鬼もどきがまるでホラー映画のゾンビのようにわらわらと俺に向かって来るのが見えた。どうやら俺の動きを予測して行動するのは出来ないようだし、唯一ゾンビと違うのは俺に向かって来るスピードだけだ。
「らぁっ!!」
横から飛び出して来た吸血鬼もどきの顔面に銃底を思い切り叩き付け、俺はそれでも止まる事無く無我夢中で走り抜ける。そしてようやく階段まで辿り着いた。後ろを振り返れると、今俺が殴った吸血鬼もどきなど構う事無く後ろからぞろぞろと他の奴等が押し寄せて来ていた。立ち止まる余裕はない。俺はそのまま後ろを相手にせずに階段を昇り始めた。
手すりに捕まり、二段飛ばしの要領で俺は階段を駆け上がってゆく。速く、速く。上へ上へと歩みを進める。そして階段を昇り切り、踊り場に到達すると、間髪入れずに扉のドアを捻った。
――やっぱ、そうは問屋が卸さねぇか。
しかし、二階へと続いているはずのそのドアは、右に捻ろうが左が捻ろうが、ガチャガチャと腹が立つ音を立てるだけで全く開く気配はなかった。畜生と、俺は思い切りドアを蹴飛ばす。だが、それでも開かないもんは開かないんだ。俺は猛る気持ちを抑えつつ、今度は今駆け上がって来たばかりの階段の方を向いた。
現在、吸血鬼もどきの先頭は階段の中腹辺りに居る。それでも、此処まで来るのにもう十秒も掛からないだろう。拙いな。このままじゃあ本体の吸血鬼を倒す前に俺がこのまま捕まっちまう。
「……しゃあねぇな、あんまりやりたくはなかったんだが」
幸い、この階段は人一人が通れるくらいの幅だ。色々と危ない方法なんだろうけど、それでも背に腹は代えられない。俺は銃を腰に仕舞って階段まで引き返すと、昇って来る最初の吸血鬼もどきを見据えた。
先頭の吸血鬼もどきが、階段の頂上付近へと到達する。そいつの体型は長身で痩せ身。勢い付けてぶっ飛ばすには丁度良い感じだ。
後ろに下がって軽く勢いをつけ、俺は思い切り階段に向かって突進する。次の刹那、俺の横半身に鈍い衝撃が走る。身体からぶつかった感触から分かる様に、俺がぶつかった吸血鬼もどきは驚く声も上げずに大きく後ろに身体を反らし、そしてそのまま転倒する。続けてその後ろ、その後ろと、続いて来ていた吸血鬼もどき達が将棋倒しのように倒れてゆく。
――これならっ!
倒れて身動きが取れなくなっている吸血鬼もどき達に躓かないように、俺は今度は階段を駆け下る。途中、俺の足を掴んできた奴も中には居たが、俺は強引に身体を動かしてその拘束を振り解いた。
しかし、そう都合よく全員将棋倒しになった訳ではなかったようで、階段の下にはまた別の吸血鬼もどき達が階段を昇り始めていた。それも、昇り始めて来ている奴等は倒れている奴等よりも数が多い。加えてこの位置ではもう体当たりをするにも勢いなんて付けられそうになかった。
咄嗟に俺は考えを巡らし、そして階段の手すりを跨いで一階へと跳躍する。着地した瞬間、踵から太腿の辺りに痺れにも似た電気が走ったが、それでも一番上の踊り場から飛ぶよりかは幾分かは衝撃は少なかっただろう。
さらに幸運な事に、どうやらこの部屋に入って来た吸血鬼もどきは全て、この階段に集中しているようで、しかも此処からならほとんど何の障害物もなく扉へと突っ切れる。俺は横目で階段近くの吸血鬼もどき達を一瞥すると、直ぐに走り始めた。
「しかし、こんなに大勢の人間を、一体どうやって操ってるんだ?」
俺の推測では、この吸血鬼とも人間とも違う吸血鬼もどき達は、吸血鬼の持っている特殊能力の影響を受けた普通の人間だ。そう考えられるのは単純な理由からで、俺が吸血鬼を意識しなければ分からないくらい匂いが薄い事と、文化祭の時の化け物とは違って動きに大分個人差があるって事だ。
文化祭の時とは明らかに性質は違う、後ろの吸血鬼もどき達。それが仮にその正体が人間だったとしたら、その人間達をどうやって吸血鬼は操っているのだろう? こんな大勢の情報を一人で統括してまとめて命令だしてなんて、アナログじゃ到底無理じゃないだろうか?
階段の方を振り返り、もう一度吸血鬼もどき達の様子を確認する。俺を追って来ようとしている、その意思は感じる。だが、その動きにはどうにも違和感を感じてしまう。普通仲間が倒れていたら、せめて手を貸すまではいかなくとも心配する素振りをするような、そんなマイノリティな奴だって居るはずだろう。しかし、奴らにはそれが居ない。まるで目標しか目に映っていないかのように、全員が全員似たような行動しか取らないのだ。
――……当に、“生ける屍”だな。
だが、今は後ろの連中の正体を気にかけている余裕はない。現在の最優先事項はこの連中を操っていると思われる吸血鬼を最低限特定する、出来ればぶっ飛ばす事だ。神経を研ぎ澄まして匂いに集中すれば、まだ廊下の方にも匂いがして来る。まだ他に吸血鬼もどきが居るはずだ。その中に吸血鬼は絶対に居る。
……そう考えている内に、だんだんと外の匂いが濃くなり始めて来た。どうやら後ろの連中は第一波、もう一陣くらい後に控えているんだろうか?
足を止め、俺は後ろに気を配りながらガラス張りの向こうに人影が居ないか確認する。吸血鬼もどきは……居ない。隠れているのかも知れないが、その可能性を警戒するより今は一刻も早く此処を出た方が良い。俺は自分に言い聞かせると、再び走り出そうとした、その瞬間だった。
「!?」
生暖かい風が、俺の頬を撫ぜた。その風に乗って来た、今までの吸血鬼もどきとは比べ物にならない粘着性のある感覚。この感覚は古賀ではない。古賀の感覚はもっと熱を持っていて、身体に刺さるような感覚だ。それに文化祭の時の吸血鬼とも違う。あのバスに乗っていた奴とも違う。第一バスに乗っていた奴からは強い匂いを感じなかった。だとすれば、答えは一つだ。
――工場に居るもう一人の吸血鬼。
腰から銃を取り出し、俺はそれを強く握る。走りっぱなしだったにも関わらず、背中に流れる汗の一つ一つの感触が冷たく感じる。此処にはセシルさんやアルフレッドさんは居ない。頼れるのはこの手に持った冷たい塊だけ。そう思うと、俺の銃を握る右手はブルブルと震え始めていた。
「……畜生! 止まれ、止まれよ」
言う事を聞かない右手を奮い、俺は自分に言い聞かせるようにそう言う。震えは全身へと広がり、遂には足の爪先にも及んでゆく。……怖い。どうしようもなく怖い。後ろの吸血鬼もどきだって気にしなくちゃいけないのに、今はこの吐き気を催す悪寒が堪らなく怖かった。
「……貴方、葛城信介よね?」
「っ!」
突然の声に、俺の呼吸は止まる。恐怖によって今まで俺を支配していた震えが止まり、代わって耐え難い硬直が俺を襲う。そして直ぐに俺の脳内に“吸血鬼”という単語が過り、そしてその言葉で俺はようやく現在の状況が理解出来た。
僅かに動く首を上げると、其処には見慣れない学生服を着た、一人の少女立ち尽くしていた。セシルさんよりもずっとずっと長い艶やかな黒髪に、太陽の光を一切浴びていないような色素が少ない白い肌。一見すれば、何処にでも居るような文化系の女の子だが、その瞳は虚ろに澱み、体中からは邪気を孕んだ名状し難い存在が滲み出ていた。……間違いない。こいつが吸血鬼だ。
「……此処には貴方しか居ないから、返事をしなくても分かるよ?」
魔性の声が耳に届く。俺の存在を確かめるように、その声は俺に触る。俺は恐怖で返事をする事も出来ず、ただただ握っていた銃を扉の方に向けた。
「はぁ……はぁ……」
自分の心臓の高鳴りが、まるで俺の身体の動きを阻害するかのように胸の中で踊る。震えが止まらない。しかし、後ろの吸血鬼もどきが追いついていない今が一番のチャンスだ。此処で引き金を引かなければ、今度はあっという間にピンチに舞い戻る。
朧げな足取りで、吸血鬼は一歩ずつ俺へと歩みを進める。一歩一歩、吸血鬼が歩く度にそのゼリー状の恐怖の塊は俺の足元まですり寄り、言葉にならない悲鳴を俺に抱かせた。
「お前が、お前が後ろの連中を操ってる吸血鬼か?」
恐怖を打ち払うように、俺は吸血鬼に問いかける。そのおかげか、身体の強張りは多少解け、ようやくある程度の余裕が生まれた。だが、当然それは微かなものであって、俺の緊張を完全に解くものではなかった。
「……」
何も言わずに吸血鬼が肯く。当たり前だと言いたげに、虚ろな瞳が真っ直ぐ俺を射抜いた――拙い。うっかりしてるとこいつに呑まれちまう。いや、それが向こうの狙いなのかも知れない。そう思うと、俺は半ば強引に引き金にかけた指に力を込めた。
「!?」
しかし、引き金は俺の指に手向かい、予想していた破裂音も衝撃も全く生み出そうとしてくれない。銃の引き金は、こんなに固いものなのかと思うくらい、引き金は微動だに動いてくれなかった。
――何で! 何で動かないんだよ!
呪詛の言葉を吐きたくなるくらい、銃はいじらしく俺の手で沈黙を保っている。だがそれでも、動いてもらわなければ、動いてくれなければ話にならない。そうでなけりゃ、このまま本当に終わりになっちまうじゃねぇか!
「……やっぱり、そんな銃を使わければいけない貴方は、ただの人間」
途端、俺の背中に何十キロもの衝撃が圧し掛かる。予想だにしない衝撃に俺はそのまま押し倒され、受け身も取れずに胸を固いコンクリートに打ち付けた。
目の前の吸血鬼は動いていない。しかし、俺の背中に、頭に、そして両腕両足に、沢山の手が伸びて来る。女のものではない、男の手。それは目の前の吸血鬼のものではなく、階段で撒いたはずだった吸血鬼もどきのものだった。
しまったと思った頃にはもう遅かった。立ち上がろうと身体を動かしてみるが、何人もの力で抑えつけられたその身体は腕の一本動かすのもままならず、動かしても直ぐに抑えつけられてしまう。何とか左腕の肘から先までは動かせるが、それでもこの絶望的な状況には何ら変わりなかった。
「畜生っ! 放せよ!」
必死に声を上げるものの、吸血鬼もどき達は依然としてその表情を変えず、吸血鬼の命令に忠実に俺の身体を抑えつけている。一瞬、俺の右肩を掴んでいるもどきの目と目が合い、俺は思わず息を飲んだ。そいつは何処にでも居そうなサラリーマンの姿をしているのに、まるで操り人形のように意思を感じさせない瞳で、ずっと俺の顔を見つめていた。
「……その人形達に、何を話したって無駄」
幼さが残る女の声が俺の耳に届く。顔を上げると、其処には俺を上から見下ろした、あの吸血鬼の姿があった。
「無駄って……」
吸血鬼の意外な言葉に、俺は思わず声を漏らす。話しても無駄だって、それって一体どういう事なんだ。
「やっぱり、この人間達を操ってんのはお前か! お前の命令で動いてるんだろ!?」
俺の質問に、女は再び声もなく首を縦に振った。そりゃそうだ。この建物には俺の知る限り他の吸血鬼は居ない。それは分かる。しかし、それだけではどうもこの吸血鬼の能力に疑問が残るんだ。それに、女の言っていた人形って言葉が気になる。人間を侮蔑してそう呼んでいるのか、それとも別の意味が其処にあるのか。
だが、そんな事が分かった所で、この最悪の状況は依然として変わらないのは確かだ。事実、今俺が動かせる身体の場所は、左腕の肘から先と右手だけ。そしてよりにもよってこの人数に抑えつけられてる訳で、正味俺一人の力じゃどうしようもならないのは確かだった。
「……もうすぐ、貴方を迎えに別の吸血鬼が来る。このままその人形達に抑えられていても良いなら、そのままでも良いけど、もう抵抗しないなら解放しても良い」
生気が感じられない瞳で俺を見下し、吸血鬼は冷静にそう言った。抵抗しても無駄なだけ。女は俺にそう言いたいようだ。まぁ、確かにこの状況じゃ、抵抗するだけ無駄ってもんだけど。
「随分と余裕かましてんな、吸血鬼。ていうかよ、その選択肢はどっちにしたって結果は同じじゃねぇか」
「……貴方がこの状況を脱するのは不可能だから、結果が変わらないのは当然。だけど、過程は変わる。私はその人形達を完璧に制御出来る訳じゃないから、下手をすれば人形達は貴方の骨を折ってしまうかもしれない」
冷たく言い放った吸血鬼の顔を俺は睨みつけ、舌打ちをする。ふざけてろよ。関係ない奴らを散々利用して、何が骨を折ってしまうかも知れないだ。
「性質の悪い冗談としか聞こえないな。後ろの連中はどう考えたってお前に指示されて動いているようにしか見えないぜ? 大体、脅すんならもっとマシな事言えよ」
「……捕まえるだけのプログラムなら入力するのは簡単だけど、私の力じゃ力加減までは制御出来ない」
「? プログラム?」
頭に大量の疑問符が浮かぶ。捕まえるだけのプログラム? 何を言っているんだこの吸血鬼は? 人間を動かすために、こいつはコンピュータでも使ってんのか?
意味の分からない事を言われ、声を失っていた俺に吸血鬼は再び口を開いた。
「……貴方の言う通り、その人形達は元は確かに人間、命令しているのも私。だけど、今は私が指示した大まかなプログラムで動いている。それ以外の事柄に関しては考えが及ばない……それだけの事」
淡々とそう言い切り、女はゆっくりとうつ伏せに抑えつけられている俺の方に近づいてくる。一度だけ、女は横目で俺の方をちらっと見たが、直ぐに視線を俺の上のもどき達の方に変える。そして俺の目の前までやって来ると、其処で不意に視線を落としてぼそぼそと何か呟き始めた。
何を言っているんだと、女の顔を覗き込もうとするが、俺が辛うじて見えたのは女の首の辺りまでだった。一体、この女は何をしようとしているのか。怖いというより寧ろ歯痒い気持ちで俺は唇を噛み締めていると、突然女の右手が俺の左肩を抑えていた男の方に伸びていった。
また突然の事だった。俺を拘束していた左肩にかかっていた重しが急に和らぎ、続いて大きな音を立てて何かが崩れ落ちる。その音に俺は一瞬驚き、顔を強張らせたが、幸いにも身体の何処にも痛みは走らなかった。
「……貴方の左腕を抑えていた人形の思考をクリアした。これは、私が再びプログラムを入力するまでもう動かない。貴方がもう抵抗しないというなら、これと同じように全員の思考をクリアする。繰り返すけど、私の制御はこれが精一杯だから、このままだったら本当に貴方の骨は折れてしまうかも知れない」
俺の前に立っていた吸血鬼の言葉。先程の会話で俺が内容を理解出来なかった事を、こいつは自分の行動によって説明しようとしたのだろう。つまり、骨を折るかも知れないというのは脅しではないという事だ。
女は俺の返答を待っているのか、その後は何も言わずに数歩後ろに下がって俺の方をじっと見つめている。どうやら、先程の説明は俺に対する最後通知だったようだ。このまま意地を張って痛みを堪えているか、それとも観念して大人しく迎えの吸血鬼を待つか。女が言いたいのは、どうやらそういう事らしい。
「……一つだけ質問させてくれ」
だが、一つだけ解せない事があった。その疑問は一見、現状には全く関係ないかのように思えたが、しかし、どうしても俺はその疑問を解決したいという気持ちに駆られ、思わず言葉を発していたのだった。
俺の言葉に、女は無言で肯いて見せる。身体の自由が利かないせいでこいつの表情までは見てとれなかったが、何も言わないという事は話しても大丈夫なのだろう。俺はそのまま間を置かずに口を開いた。
「お前が――今お前が思考をクリアしたっていう人間。こいつはこの後どうなるんだ?」
俺はその時、横で倒れているだろう吸血鬼もどきと化していた人間の事で、此処に来る時にバスの中に乗っていた他の人間達の事を思い出していた。まるで生気のないようなあの人間達は、ひょっとしたら今こいつが思考をクリアしたっていう人間と、同様か、若しくは似たような事をされたんじゃないだろうか。そういう考えが頭に過り、同時にその考えから、また新たな疑問が沸き上がったのだ。
――俺を捕まえて用済みになった人間達は、これからどうなるんだ。
緊急事態なのに、妙にその事が頭から離れなかった。あの正気を失っている人間達が、俺を自分の役割を果たしてしまったら、一体どうなってしまうんだろう。それを考えていると、どうしようもない不安が心を縛り付けた。
「……妙な事を聞くんだね。それはさっきも言った通り、私が再びプログラムを入力――」
「そういう事じゃねぇ。プログラム云々を抜きにして、こいつはこれからどうなっちまうかって聞いてんだ」
女の言葉を遮り、俺は強い口調で言う。口調は女を叱責するような感じの声だったが、俺の本心はもっと違う事を考えていた。それは、セシルさん達が初めて俺の家で一緒に住むと言った時や、文化祭の吸血鬼騒動の時にも考えていた事でもあり、同時にそれの答えは、場合によっては、俺が最も聞きたくなかった“俺のために生じた不幸”の事だったのだ。
「……分からない。人形はそのままなら何も考えられないから、そのままだったらきっと死んでしまうと思う」
……だが、女の俺の質問に関する答えは、俺が予期していた、出来れば聞きたくはなかった返答だった。
まるで自分とは関係ない事のように、女は何の憂いもなく、ただ漠然と俺の質問にはっきりと答えを返した。その答えが、俺に考えるだけでも吐いちまうような事を考えさせる。俺やセシルさんを欺くために配置された、バスの中の意思無き人間達。あのまま動かない事を考えると、彼等はもう不幸にも役目を果たしてしまい、ずっと放置されてしまうのではないか。そして、俺を抑えている吸血鬼達もこのまま役目を果たしてしまえば、バスの中の人間達と同じ運命を辿るのではないか。
――役目が終わるって事は……。
二つの事柄が合致したその時、体中から、どっと冷汗が流れた。胸から込み上げてくるものもあった。吸血鬼の恐怖とは別の、もっともっと恐ろしい恐怖の感情が心にどくどくと流れる。――……死ぬ。俺を捕まえるために、見ず知らずの人間が死ぬ。それも何十人も。
そう考えてしまった俺の手から、徐々に力が抜けていった。既に俺の体温を奪って温まった鉄の塊さえ俺は握る事が出来なくなるくらい、自然と力が抜けてゆく。そして気が付けば、まるで悪い夢の続きを見ているかのように、俺は俺に対する身体的な支配を手放していた。
「……今度は、こっちの質問に答えて。貴方が抵抗するっていうなら、このままでも良い。でも、抵抗しないっていうなら、拘束を解いても良い」
ぼんやりと床を見つめていた俺に、女は遂に痺れを切らしたのか、俺の顔を覗き込むようにそう訊ねてきた。顔を上げてその女の顔を見つめれば、やはりそこにあるのは虚ろな瞳と禍々しい存在感。そう言えば、初めて定本に会った時も、こいつのような目付きをしていたっけ。
一方的な与奪権と圧倒的な暴力を伏せ持った、よくよく考えてみれば卑怯とも思えるようなそんな威力を持った瞳だと、俺は漠然と考えていた。例え絶対的な法律や慣習を持ってしても、誰しもが逆らえないのが天災。吸血鬼は、当に存在そのものがそれなんだろう。吸血鬼にとって、人間が何人犠牲になろうが――弱者が死のうが自分の目的さえ達成出来ればそれはどうでも良い事なんだろう。だからきっとこれからも吸血鬼達は自分の目的のために人間を利用し、その度に奴等のために数え切れないほどの人間が死んで行くんだろう。それが悔しいが、弱者淘汰の自然の摂理ってもんなんだ。
「……質問に答えて。貴方が抵抗しないというなら、私も、他の吸血鬼も、貴方に乱暴はしない」
再び女の声が聞こえる。視界の上の方で、どうやらずっと俺を見つめていたらしい。荒い息をしながら、俺は視線を下に向けた。
女の言う通り抵抗しないならきっと、俺を抑えている人間達から俺を解放してくれるだろう。そしてもしかすれば、俺を迎えに来た吸血鬼だって、こいつ等のボスだって、俺が理解を示して抵抗しなければ、俺に暴力を振るわないかも知れない。向こうは俺が知っていると思っている、親父の持っていた情報の事だって、正直に俺が知らない事を伝えれば、ひょっとしたら俺を解放してくれるかもしれない。
そうなれば、もうセシルさん達が俺を護衛する必要だってなくなるし、吸血鬼達だって俺を狙う必要がなくなる訳だから、今まで通りの生活に、ささやかな普通の高校生活に戻る事が出来るだろう。毎朝叔父さんが起きる前に起きて朝食を作って、時間ぎりぎりになったら学校に行って、学校に行ったら賢治とまた馬鹿騒ぎをして、下校の時には四季と一緒に帰って。
「……俺は」
意図せず俺の口から言葉が零れ落ちる。このままこの目の前の恐怖に屈伏してしまった方が、その方が絶対に良いに決まってる。そうした方がずっと、俺の今までの生活にずっと近いはずだ。その方がずっと、俺の望みにずっと近いはずだ。
あんな大層な事を言った俺の事を叔父さんは軽蔑するかも知れないが、それはしょうがない事だ。例え叔父さんから軽蔑されたって、セシルさん達から軽蔑されたって、……関係ない人が死んだって。
――それで……それで。
「…………それで良い訳がないだろ!!」
心に溜まった蟠りを、俺はありったけの気持ちと共に吐きだした。
頭で考えていた邪推を、俺はありったけの感情と共に吹き飛ばした。
何もかも追い出した後で、俺はようやく算段とかそういうのとは関係ない、自分の気持ちを見つける事が出来た。それは至ってシンプルな感情だったが、たった一つのその感情だけで、俺の身体と心は直ぐに手放した自分自身の力を取り戻した。
――例え天災だって自然の摂理だって、こんな不条理を許せるはずねぇだろ!
「!?」
バスの中の人間だって、俺を追っかけて来た奴らだって、俺と同じように、そのほとんどがきっとささやかでも幸せな生活があったはずだ。それを手前一人の勝手な目的のために利用して、それで使い捨てのゴミみたいに扱って。そんな理不尽、絶対に俺は許せるか!
「ふざけんなよ、吸血鬼! 何がプログラムだ! 何が人形だ! 人間はてめぇの道具じゃねぇんだ! てめぇ一人のために、勝手にしていいもんじゃねぇんだよ!」
「そ、そんな事言ったって……!」
右手で眠っていた銃を再び握り直し、俺は窮屈な左手を地面に押し付けて力の限り身体を起こす。目の前の吸血鬼が何かを言ったようにも思ったが、そんなもんは今の俺には全く聞こえなかった。……どうでも良いんだ、もう。脅しや警告なら、そんなもんを聞く気なんて更々ないんだから。
力を込めた分、少しだけ俺の身体が浮き上がり、俺は今度は銃を握りながら右手を地面に押し付ける。歯が軋む事も気にせず、身体が浮いた所で無理矢理右膝を付いた。俺の両肩を抑えていた人間達が、遂には抑えきれなくなって立ち上がる。その瞬間、俺の上半身が一気に解放された。
「お前が望まなくたって、俺は抵抗してやる。お前等が一方的に誰かを傷つけるなら、俺は命に代えてだって抵抗してやる!」
「……っ」
女は俺の言葉を聞くと、直ぐに先程のように俯いて何かを唱え始める。だが今度は先程よりも早く顔を上げ、思考をクリアした人間に近づき、倒れている人間の頭に右手を置いた。
その人間は再び女にプログラムを入力されたのか、置き上がって間もなく俺の方に近づいて来る。そして迷う事無く俺の両肩を掴むと、そのまま俺の両肩に体重をかけた。
――……っく!
踏ん張った両腕を圧し折るように、圧し掛かった男の体重が俺の背中に食い込む。銃を握っていた右指が地面に擦り付けられ、酷い痛みが拡がっていた。ガタガタと奥歯が震え、俺は一瞬意識を内に投げ出しそうになる。しかし、こんなんじゃまだまだ俺の心までは折れはしない。そうだ。このままこんな最低な暴力の前に屈伏する訳にはいかないんだ。
絶え間ない苦しみに悶えながら、俺は必死に現状を維持しようと更に両腕に力を入れる。だが、これ以上は身体が言う事を聞かず、次第に掌が汗ばんで来た。……駄目だ。このままじゃあさっきの状態に逆戻りだ!
――何故、銃を使わない?
「……!?」
銃を握っていた右手を見た途端、俺はふとその言葉が頭に木霊した。俺はどうして、今更になってもこんな簡単な事を忘れているのに気付かなかったのか。
俺は銃を撃てない。撃った事がないから、それはそうだ。では、銃の使い方を知らない俺は、どうすれば銃を撃てるのか――簡単な事だ。この右手に持った鉄の塊を使って研究すれば良い。ありったけの知識を使って、ありったけの記憶を頼りにして、少しの応用と一度の実践で銃が使えるようにしてしまえば良いんだ。
それは一見、無謀な事かのようにも思えたが、どういう訳だろう、あながち無理な事でもないような気もする。まぁ、そりゃそうか。これまで嫌というほど吸血鬼達には不可能な現象を見せつけられたんだ。そう考えりゃ、記憶と知識と思考を使えば銃の使い方を理解する事ぐらい、人間の俺にだって出来ない事ではない。
「……だったら、簡単じゃねぇか」
分かってしまえば、後はやってみるだけだ。記憶の隅々まで意識を集中し、これまで俺が憶えている“銃”に関する情報を整理する。その中で、俺は更に要らない情報を排除し、残った情報と、これまで実際に誰かが銃を使っていた場面を思い出した。
直ぐに思い浮かんだのは、セシルさんが吸血鬼に銃を向けた場面。それは数えるほどしか記憶にないが、たったそれだけの事に後は合理的な考えを加えれば、この銃の扱い方をおおよそ理解出来る。後は、これを実践するだけだ。
上半身を支えていた両腕を少しずつスライドさせ、左手の親指を銃のグリップ付近に添える。先ずはこれだ。俺は先程銃を撃てなかった大きな原因である銃のセーフティを外す。だけど、これだけではまだ足りない。後もう少し、もうちょっとだけ身体を動かさなければ……。
「……いい加減にっ!」
突然視界の外で、吸血鬼が叫び声に近い声を上げた。俺は一瞬それに気を取られ、その声の方に視線を向ける。するとその直後、声の主である吸血鬼は虚ろだった瞳を憤りの色に染めながら、今も尚両手で体勢を維持している俺の方へと歩み寄っていた。
「そんなに骨を折られたいなら、私がっ!」
声を荒げ、女が俺の左腕に向かって足を振り下ろす。次の瞬間、俺の左腕の関節に、凄まじい痛みが走り、俺は思わずずっと噛み締めていた口を開き、苦痛の声を漏らした。同時に身体は支えだった左腕の力を失い、一気に右側へと重心が逸れてゆく。俺は必死になって身体の重心を左に傾けようとするが、それでも勢いは止まらず、遂には唯一の支えだった右腕も内側へと滑り込み、俺の身体は再び冷たいコンクリートに押し付けられた。
「んっ! ぐああ!!」
俺の身体を抑えていた人間達の体重が一気に身体に圧し掛かり、挟まれた左腕に更に想像を絶する痛みが走る。それでも、操られた人間達が俺から離れる事はない。そのままの勢いで俺に覆い被さり、最後には俺の視界は上に乗った人間によって覆い隠された。
「……私は、私は警告したはず。そのままだったら、骨が折れてしまうかもって……」
暗黒の中で、女の言葉だけが俺の耳に響く。誰のものかも分からない腕が俺の身体の至る所にしがみ付き、俺を地獄に引きずり込もうとでもするかのように離れなかった。
真っ暗な視界の中で、俺は大きく息を吐く。左手を握り、まだ動かせるだけの感覚がある事を確かめる。しかし、それでもやはり痛みは相当に大きい。腕の方は動かすだけで背中の方にまで痛みが走る勢いだ。
そこで俺は考える。もしあの時、俺が吸血鬼に屈伏していたら、恐らくこんなに気だるい熱を持つほど身体は疲れず、この左腕の尋常ではない痛みは生まれなかっただろう。もしあの時、吸血鬼に屈伏していたら…………この右手の中に、希望が生まれる事は絶対になかっただろう。とりあえず、俺はこう考える――小さい代償の割には、笑っちまうくらい簡単に突破口が見いだせた、と。
「……もう選択肢なんて、こうなってしまったら、選択肢なんて」
「…………選択肢? そんなもん、もう選ぶべくもねぇだろ」
俺が恋い焦がれていた音が、操られていた人間達の身体を貫いた。
とりあえず、更新を待っていてくれた方本当に申し訳御座いません。
本当なら一月の下旬にでも投稿は出来たんでしたが、丁度良い場所で区切る事が出来ず、気が付けば普段の二倍以上の文字数になってしまいました。
次回の更新はちょっと私事が立て込んでしまい、三月過ぎ頃になってしまいそうです。
感想、評価お待ちしています。