My Fair Lady 5
数多の放物線が彼女の身体を覆う。灰色の空。泡沫の夢を見るように、彼女はそれを見つめている。身体に残る鈍い痛みに、彼女は苦痛の顔を浮かべる事はない。怒りを内包した冷たい冷たい身体を起こし、彼女は前を見据えた。
「……弱ったな」
雨に濡れる事も気にせず、セシル・フレイスターは長い銀色の髪を掻き上げる。今まで一緒に居た、自分が守るべき男を乗せたバスは、既に彼女の視界の中から消えている。行くべき場所は何となく分かるが、それが何処にあるのかは全く見当がつかない。今立っているこの道を真っ直ぐ行けば良いのか、それとも山間に出る道を探すべきなのか、彼女は決めあぐねていた。
――大体私は、信介が人探しに行く事には反対したのだ。それを父上が勝手に……。
あの少年の事は嫌いではない。彼女とはそもそも生きる場所が違う人間の男だが、何処にいても必要な事、努力を絶やさないという事の大切さをあの少年は知っている。況してや万事に置いて努力を続けられる者など、この世界には数えられる程しかいないだろう。そういう所は彼女も認めているし、それが葛城信介という人間の大きな長所だとも思っていた。
しかし、それが時には大きな短所になる事も、セシルは良く知っている。自分の出来ない事、自分には縁のない事にまでその努力が及んでしまう場合、それはただの容量の無駄遣いとしか言い様がないし、その後に大きく傷付くのは彼自身だからだ。今回の場合が当にその典型で、事情は分からないでもないが、少なくとも悪いのは彼ではなく彼を狙う吸血鬼であり、相手も彼よりは段違いに身体能力に優れた吸血鬼だ。だから彼女は人捜しくらいなら自分一人に任せて欲しいとも思っているし、葛城信介という男がどうしてそこまでその攫われた少女に責任を感じるのか全く見当がつかなかった。
――及ぶべくもない相手に噛み付くのは、良くとも蛮勇としか言い様がないぞ、信介。
ポケットの中からヘアゴムを取り出し、彼女は濡れそぼった髪を一つに纏め、そして圧迫感の強いスキニ―デニムの裾を膝上まで破る。此処に居ても埒が明かない。幸い、バスの中にある彼の荷物にはアレが入っているし、こういう事態を想定してアルフレッドも待機していた。元より、セシルには焦りなどない。彼女は静かに息を吸い、身体を大きく屈め、前傾姿勢になる。それは陸上競技におけるスプリンターの姿にも似ていたが、寧ろその姿は、四足歩行で草原を疾走する狼の姿を彷彿とさせた。
鋼の筋肉が一気に収縮し、溢れんばかりの力が彼女の身体を前に進める。速度は四十キロに迫る勢いで、辺り一面の風景が代わる代わる変化してゆく。彼女の頬に纏わり付いていた水滴が後ろへとすり抜けてゆき、新しい雨の雫が生まれる。常識という枠では捉えきれないほどの圧倒的なスピードで、彼女は更にスピードを加速させていった。
「……やはり、あの吸血鬼だけではないようだな」
ひたすら遥か前方に見える山々だけを睨み、セシルはそれでもスピードを緩めない。しかし、彼女の野生の本能にも似た第六感が、微かな他の吸血鬼の感覚を彼女に伝える。歴戦の戦士であるセシルには見知った感覚だが、彼女はその感覚を敢えて無視して前に進む。頭の何処かでは、迫り来る吸血鬼にこの内なる激情の一端をぶつけようと考える自分も居たが、彼女はそれを苦もなく押し殺す。葛藤するほど余裕がないというより、彼女にとって他の吸血鬼が居る事は予測の範囲内であり、どうするかは既に分かり切っていた事だったからだ。
常人を遥かに凌駕する速度で走るセシルの後方から、一台のスポーツカーが雨に紛れて彼女に近づいてくる。スピードは六十キロ前後という所だろうか。スポーツカーはセシルを横から追い抜くと、そのまま速度を落として彼女の前に停車した。
セシルはゆっくりと速度を落とし、スポーツカーの前で立ち止まる。そして大きく息を吐くと、腰から銃を抜き、すぐさま銃のセーフティを解除した。
「私が到着するまで仕掛けて来ないと思ったが……どうやら一匹、気が早い吸血鬼が居たようだな」
「こっちにも色々と事情があるのよ、“二艇拳銃”。マジに私達の本拠地でやってあげてもいいけど、時間と手駒が限られている以上、そんなリスクを背負うほどこちらも余裕があるとは言えないのよね」
スポーツカーの運転席から一人の女が降りてくる。短く切り揃えられたショートカットの黒髪に、紺色のレースブラウスとある程度余裕を持たせたホワイトジーンズ。少し垂れ目で黒目が大きいその瞳からは、明らかな異質さと敵意が窺える。彼女は後ろ手で車のドアを閉めると、腰に手を当ててセシルの方を睨みつけた。
「あまり知らない顔だな。日本の吸血鬼か?」
「ご名答。貴方が知らなくて当然だわ。私は元から吸血鬼だけど、活動の拠点はずっと日本に限られてたから」
「どちらにしても小物だな。だから貴様の仲間同様、漂々とこんな場所に居られるんだろう」
「それは否定しないわ。だからこうして貴方の大事な大事な彼氏さんを強奪出来たんですもの」
口元を緩め、女はセシルを鼻で笑ってみせる。しかし、セシルはそんな挑発に一切乗ろうとせず、女の方を見つめ続けていた。
「ん。正直な所、こんなくだらない話はどうでも良いのだ。私は無様にも貴様の仲間にしてやられ、今はこうして一刻も早く信介君の所に向かわなければならないのが現状だ。お前の事などどうでも良い。信介君が無事に帰ってくれば、な」
「だから私の命までは取らないから、さっさと彼氏の居場所を教えろと? ……ははは。貴方も顔に似合わず可笑しい事言うのね」
「だが事実だ。貴様じゃ私には敵わない。時間の無駄にだろう? お前も吸血鬼なら実力差くらいは分かるはずだ」
真面目な顔でそう言い放ったセシルを見詰めながら、女は軽く頭を掻く。確かに、セシルとこの女では実力に大きな開きがあり、それを女自身もよくよく理解しているだろう。だが、女はそんな事実を振り払うかのように大きな溜め息を吐くと、猛禽類のような鋭く、冷たい視線をセシルに向けた。
「舐められたもんね……。命は助けるから居場所を教えろ、か……」
女の顔から笑みが消える。代わりに浮かび上がるのは、憤怒と憎しみに塗れた女の鉄壁の素顔。後に下がれば地獄しかない、そんな気迫染みたものを心に宿し、女の存在感は飛躍的に膨れ上がった。
「…………こっちはね、この任務を引き受けた時点で、はなっから自分や仲間の命なんて算段に入れてないんだよ!」
言葉が言い終えるが先か否か、女が凄まじい速度でセシルへと跳躍する。雨の雫を研ぎ澄まされた身体で切り裂き、一歩踏み誤れば身体が粉微塵に吹き飛ぶ地雷原のような刹那の死線を女は横見もせずに闊歩していた。
「猪突猛進……お前もあのハーフと変わらないな」
正確に、そして素早く目標に狙いをつけたセシルの愛銃、“カント”がその火花と唸りを上げて空間を振動させる。相手が格下であれ、彼女には手加減などない。そもそも、弱い者が必然的に淘汰される世界で情けをかける者など始めから考えが矛盾しているだろう。彼女の放った弾丸は淡い光に包まれ、世界の何物にも干渉を受けず、ただ愚直なまでに真っ直ぐに空間に軌道を描いた。
「“対吸血鬼殲滅兵器【アインヘリャル】”……あんたがそれを使うなんてお見通し!」
最早、弾丸への衝突は間近という所で、彼女は軽く右手を上げる。それ自体は何の事でもない事だが、セシルはその一瞬、何か得体が知れない存在が現れて消えたような錯覚に陥る。しかし、重要なのは次の瞬間だった。直進し続けていた弾丸が、急に軌道を変え、女とはまるで見当違いの方に飛んでゆく。続けて女は、セシルの虚を突いてそのまま上に上げていた右の拳をセシルに振り降ろした。
「……く」
辛うじて空いていた左手で女の拳を防ぎ、セシルは爪先に力を入れて強引にスウェーバックする。空いた距離を一気に詰めてくるかとセシルは銃を構え直したが、女も体勢を整えるために姿勢を直し、打ち損じた右手を身体の前に戻した。
一瞬、何が起きたのか分からなかったセシルだったが、直ぐに気を取り直して引き金に指を添える。あの時、何かに弾かれたように弾丸がねじ曲がったのか、もしくは弾丸自体が意思を持って軌道を変えたのかは定かではなかったが、今は考えている時間がない。必殺にして必滅の彼女のアインヘリャルが当たらなかったのは純然たる事実であるし、既に貴重な弾を一発消費してしまったのも信じたくはないが事実だった。
「驚いた……って、顔はしてくれないみたいね。流石に“銀狼”だわ。だけど、こっちがアインヘリャルへの対策がないと思ったら大間違い。曲がりなりにも私も吸血鬼。この世界であんたみたいな上等な武器を扱えない以上、それ相応の対策はあるのよ」
女はそういうと今度は両方の拳を胸の前に構え、軽いステップを踏み始める。その途端、先程まで緩やかだった彼女の纏った存在感が、先鋭で確かな切れ味を持った刀身のようなものに変化する。それは純粋な闘いへの陶酔であり、彼女のセシルに明確な殺意を抱いている証であった。
「それが貴様の“血の力”か。どういう能力かは分からないがあの刹那の見切りが出来るなら、多少使い方は心得ているようだな」
「多少? ちゃんちゃらおかしいわね。自分の能力くらい、完璧に把握しているわよ」
軽いステップを踏み、再び女がセシルとの距離を詰める。続け様身体の重心を動かし、凄まじい速度のジャブをセシルに繰り出す。出し所が違えどこの程度と、セシルはそれを左手で払うように往なし、右手に持った銃の底を素早く女の首元目掛けて振り抜いた。
「!?」
しかし、先程の弾丸同様、セシルの振り払った右手が女に到達する事はなく、まるで何か固い物にでもぶつかったかのようにセシルの右手に衝撃が走る。無論、女がその一瞬の隙を見逃すはずがない。女はフリーになった右手をコンパクトに打ち出し、ノーガードになっているセシルの腹を抉った。
振り切った拳に確かな手応えを感じた女は、そのまま左足を引き、追撃の左ストレートをセシルの顔面目掛けて走らせる。だが、セシルはその攻撃を右足を引いてかわし、そのまま攻撃に転じる事無く残った左足で後退した。
「満足のいく一撃ではなかったけど……まぁ、先手は取れたはね」
女はセシルを殴った右手を軽く振り、再びファイティングポーズを取る。ゆっくりとセシルの方を捉えて見据えると、少しずつ距離を縮めていった。
「あんなパンチを一回分に数えるな小物。ただ私の衣服に、お前の右手が触れただけだろう?」
「あらあら負け惜しみ? 触っただけにしては結構手応えがあったんだけどねぇ?」
女の嘲笑に、セシルの眉が微かに動く。挑発には決して乗らず、信介救出のために余力を残すと決めていたセシルだったが、今彼女の中にはそれを覆し、この目の前の女を完膚なきまでに叩きのめしたいという気持ちが台頭し始めていた。
「ふふふ……“血の力”無しで闘うつもりなら、考えを改めた方が良いんじゃない? 確かに私は貴方よりも弱いけど、“血の力”を使わない貴方ならハーフと何ら変わらない。私でも難なく倒せるわ」
「貴様如きに“血の力”など使わない。それに、お前の“血の力”も何となく分かる。大方あの学園祭の時の吸血鬼のような、何かを空間に形成する能力だろう?」
セシルの問いに、女は軽く頬笑みを返した。
「私はこの能力を“マイフェアレディ”と呼んでいる。だけど、遠野君のような幻ではない、ちゃんとした実体を形成出来るのよ。ま、理解されてもこっちのデメリットがないのも遠野君とは違うわね」
身体を低くし、ステップ一つで女は再びセシルとの距離を縮める。そして一気に牽制のジャブを豪雨のように放ち、時より体重の乗ったストレートを雷のように放つ。女の拳に落ちる雨露が、更に細かい雨露となって消し飛ぶ。それがその一連の攻撃の凄まじさを物語り、一撃一撃がセシルに風穴を開けるべく唸りを上げる。しかし、
「すっとろい!」
時に身体を捩り、時に足を軸にして反転し、セシルはその攻撃の全てを回避する。女の攻撃の合間、雨露通うその一瞬に全ての算段をし尽したかのような華麗な動き。次の一瞬、セシルは身体を屈めて大きく腕を振ると、降り注ぐ雨を蹴り上げて灰色の空を舞った。
世界が一回転し、反転したセシルの頭上は物理の法則に従ってコンクリートの地面に迫る。だが、彼女は素早くそれを左手で押さえて大地を強く突き飛ばすと、拳を止めて間合いを詰めようとする目標が、降って来るように視界に入った。セシルは素早く構えてそれに引き金を引いた。
「アインヘリャルは……!」
迫る弾丸を、再び繰り出した別の実体で防いで女は前に進もうとする。だが、直後に彼女の眼前に見えたのは離れているセシルの姿ではなく、凄まじい速度で接近するセシルの右足の靴裏だった。
「!?」
能力を出していては間に合わないかもしれない。それ以上に防げる確率が低すぎる。それをほぼ直感で判断した女は、咄嗟に自らの両手を交差してセシルの上段蹴りを受け止める姿勢を取る。刹那、女の両腕に想像を絶する重みと痛みが鋭く圧し掛かった。
身体が仰け反り、彼女の両腕に大量の電気が流れる。だが、致命傷じゃない。そう思った女が反撃に転じようとしたその時、今度は腹部を思い切りバッドで殴られたような衝撃が拡がった。
――しまっ……。
後頭部の蹴りは、初めから視界を遮るための囮だったのか。女は自らの腹部を穿つ左足を見ながらそう思う。身体のバランスが崩れ、視界から女が一気に遠退く。そしてそのまま女は尻餅を突くと、痛みを堪えて身体を前に起こした。
「止めにして、信介の場所を吐くか? 女?」
再び銃を構えたセシルが言う。あの一瞬の好機に銃を撃たなかったのは、信介の場所を言わすためか、若しくは単に甚振ろうとしたのかのどちらかだろう。どちらにしても一筋縄ではいかないと、女は素早く立ち上がった。
「馬鹿言わないでちょうだい。あんな蹴り、ダメージに何か入んないわよ」
あらゆる結果には、それに見合った原因が存在する。
その原因が存在する限り、全てが必然性の結果として生じる。要するに因果応報という訳だ。こうすればこうなる、ああしておけばああなるっていう事は、考えてみればたくさんあるのだ。
両手を縛っていた縄を解き、俺はもう一つ、足を縛っている縄を解きにかかる。両手が空いている分、こっちを取るのは簡単だろう。こいつを取れば、後は全力で逃げるだけだ。
――道具は要れない。頭を使えれば、こんな事だって出来るんだぜ? 古賀茂。
縄抜けは、決してマジシャンや忍者の特権ではない。結び方が簡単なら、こうして俺みたいな凡人だって容易に突破出来るもんだ。勿論、関節を外すなんてそんな難しい事をしたんじゃない。腕の力加減一つ、そして手と手のスペースの作り方一つで、こうしてきつく縛られても縄ぐらいなら容易に抜け出す事が出来る。決して難しい事じゃない。正確な知識とそれを応用出来る基本的な能力を持っていれば、誰にだって出来る事だ。
両足の縄を解き、俺は直ぐに立ち上がる。先程確認したが、どうやら監視カメラなどは設置されていない。無論、盗撮されているかも知れないと思ったりもしたが、それなら両手の縄を解いた時点で古賀がやって来るだろう。後は、この密室からどうやって脱出するかだ。
――この階からじゃ飛び降りるのも勇気と覚悟が要る。……縄、か。これは何とか利用出来そうだ。
部屋の奥の窓を覗いてみると、其処にはそれなりのスペースを持つベランダがあった。幸いな事に手すりもある。この下は……どうやら、俺が入って来た正門の方みたいだ。だが、それにしても雰囲気が尋常ではない。先ず最初に思うのは、普通の廃墟の感じではない。何か得体の知れないものの残り香のような微かな匂いが、この建物全体、いや、この敷地と周辺付近からも絶え間なく流れてくるような感じがする。
この状況だからそう思うだけなのかも知れないが、今までだってそう思っていて当たってきた感覚だ。これは気にしても損はないだろう。
「やっぱ、古賀の言葉は本当みたいだな……」
そこで思い至ったのが、古賀の言っていた協力者の存在だ。そいつ等が吸血鬼か人間なのかは推測するにも材料がないが、少なくともこの感覚を信じるならば、奴らに準ずる存在である事は間違いない。そんな奴らが何人居るか分からないこの状況で、果たして縄を使ってノロノロと下に降りるのは得策なのだろうか?
――迷っている時間はない。
こうしている間にも、俺を連行するために他の吸血鬼が迫っているのだ。古賀は後二時間くらいと言っていたが、予定なんてそんなものは簡単に変わってしまう。もしかしたら後一時間かも知れないし、それより短いかも知れない。最悪のケースを常に考えなければ、せっかく得たチャンスもみすみす棒に振ってしまうだろう。
両手と両足を縛っていた縄を途中で解けないように固く結び、俺はなるべく身体を隠すようにようにしてベランダの手すりに括りつける。これで何とか形にはなった。後はこれを成功させるべく、他の手段を講じるだけだ。
ふと視線を泳がせた先に、先程古賀が吸っていた煙草とライターが目に入る。……どうやら、古賀は遅かれ早かれ直ぐに此処に戻って来るだろう。喫煙者と言うのは、普通の人間が息をするのと同様に、煙草がないと大分息が続かないものだ。
今は他に打ち合わせでもあるのか、もしくは応援の吸血鬼に連絡でもしているか。考えを巡らせ、俺は一つの結論に達する。そしてそのままもう一度、俺は周囲を見渡すと、直ぐに目標の物質を確認できた。
此処まで来たらやるしかないだろう。俺はライターを手に取ると、机の奥に置かれた棚からフォルダーを数冊適当に引っぱり出し、それをベランダへと運んだ。
三階の会議室の扉を開け、古賀が適当に転がっていた椅子を持ち上げて其処に座る。沢山の塵が溜まったカーペットに、周囲には折りたたみ式のテーブルなどが雑多に積み上げられている。此処がここ数日の古賀達のねぐらだとは、きっと関係者以外なら誰も信じないだろう。それほど部屋の中は薄気味悪く、息がし辛い環境だった。
古賀は大きく欠伸をすると、部屋の隅の方に視線を向ける。其処には、会議室には不釣り合いなほど大きなテーブルが置かれており、辺りには菓子パンやら飲み物などが散乱していた。そして、輪をかけて異質なのはそのテーブルの前に腰掛け、一人黙々と分厚い本を読む少女。古賀はため息交じりに少女に声をかけた。
「葛城信介は捕まえた。今は四階の奥の部屋に居る。こっからはお前の仕事だぜ? 英藤子」
英と呼ばれた少女は古賀の方を見ようともせず、コクリと頷いた。
「……分かってる。廊下で一回確認した」
聞き取れるか否かの小さな声で返事をし、英は静かに本のページをめくる。古賀はその様子を見ながら舌打ちをすると、視線を明後日の方に向けた。
“ノーブルブラッド”に入って、様々な吸血鬼と出会ったが、その中でもこの英は取り分け異質だと、古賀は感じていた。もう組織には居ない遠野もどちらかというと物静かな方だったが、決して人付き合いが悪いという感じはなく、アウトローな古賀もそれなりに悪い気はしなかった。
しかしこの女は、そう言った人付き合いや組織と言うモノにあまり関心がなく、何時も暗い表情を浮かべて難解な本を読み漁っている。そういう所を古賀は良く思っていなかったし、この女と一緒に同じ空間に居るのが堪らなく億劫に感じるのであった。
「確認したならさっさと動かせよ、お前の人形共。あれは時間がかかるんだろ? そんなに悠長に構えていて平気なのか?」
「目標がこの建物に入った時点で建物周辺の配置は終了してる。それに、たった今この建物の中の配置も完了した」
淡々とそう言い、英は本を閉じて立ち上がる。そして声もなく窓の方に近づくと、軽く古賀に手招きした。
それに応じて古賀が外を覗くと、既に正門に二人とその先の道路に何人かが立ち尽くしているのが確認できた。古賀は頭を掻くと、そのまま椅子に腰掛ける。
「本当に機能するんだろうな? あの様子だと全く生気とやる気が感じねぇが」
実際、古賀は英の能力を見た事がなく、彼女が他の人間を操作しているのも今が初めてだった。だから古賀は自動で人間を動かすというのが信じられなかったし、どうして女が此処に居ながら葛城信介の動きを捕捉出来るのか全く分からなかった。
「パソコンのウィルス対策ソフトと同じ。異物を確認して初めて機能する。……だから今動いていたら、逆に不自然だと思う」
「でもよ、そいつ等が動けても俺達が分からなきゃ、二度手間じゃないのか? あいつ等は所詮人間何だし、逃げられたらそれまでだろ?」
足元に置いてあったビニール袋から菓子パンを取り出し、古賀はそれを頬張りながら口を開く。古賀の質問に英は、一度だけ首を横に振った。
「彼等が動けば私もそれが分かる。だから大丈夫。貴方はあの部屋の中だけ警戒して」
「分かってんだよそんな事は。だから休憩ぐらいはゆっくりさせろよ。それに、あいつだって両手両足縛られて、部屋の鍵閉められちゃあ逃げる気も起きねぇと思うがな」
窓から逃げ出そうにも、否応無しに操り人形が居る正門の前に出る訳だし、葛城信介が逃げられる要素は全くない。古賀はそう言葉を続けると、煙草を取り出そうとズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「……ちっ。あっちの部屋に忘れたな」
ズボンのポケットの中に入れたと思っていた煙草はなく、しぶしぶ古賀はビニール袋から飲みかけのペットボトルを取り出す。それに口を付けると、そのまま残りの全てを腹の中に収めた。
「……」
英が、その古賀の姿をまじまじと見つめている。古賀はその視線に気づくと、口を拭って彼女の方を向いた。
「分かったよ、さっさと向こうの部屋に戻れば良いんだろ?」
英は古賀の言葉に再び首を横に振った。
「それ、私の」
「は? 別にこんなの他にもあるだろ? それにもうすぐ此処から離れるんだ、そん時にコンビニにでも行って買えば良いだろ」
「違う。それ、私の飲みかけのペットボトル」
英は古賀の持っているペットボトルを指差し、無表情にそう言う。古賀は一瞬、その言葉に眉を顰めたが直ぐに口を開いた。
「もう飲んじまったよ。……まぁ、気に障ったなら謝るが」
ジリリリリリリリリリリリリリリ……。
その時、工場の全体からけたたましいサイレン音がなる。暫く此処に居た二人も全く聞いた事がなかった音に、二人は驚いて辺りを見回す。だが、古賀は間を置く事なく、その驚きの感情を排して吸血鬼の顔をした。突然の事に驚いたが、頭の中であの男の顔を思い浮かべると、これが何なのかあっさりと結論が出てしまったのだ。
古賀は椅子から立ち上がり、直ぐにドアの方に向かう。どういう訳かは知らないが、考えられるのは葛城信介が何かしらのアクションをした、という事だった。
「英、ついて来い」
言われなくともと、英は立ち上がって古賀に追従する。彼女も彼女で、どうしてサイレンがなったのか分かったようだった。二人はドアを出て直ぐに階段を上がると、葛城信介を閉じ込めていた部屋の鍵を開けた。
「……」
「……あの野郎」
部屋に入った直後に目に入ったのは、ぐちゃぐちゃに荒らされた机と椅子だった。そして、其処に居たはずの葛城信介の姿は既になく、ベランダへと続く窓が開き、そこから灰色の煙が入っているのに古賀は気付いた。
ベランダに入ってみると、手すりに先程葛城信介を縛った縄が固く結びつけられているのが目に映った。縄は地上まで届いていなかったが、少なくとも縄の長さは二階付近までは到達しており、葛城信介が二階の方に逃げた事が容易に理解出来た。
そしてこのサイレンの原因だろう、縄を結びつけていた手すりの下からは、今ももくもくと灰色の煙が立ち上がり、それが上に昇る煙と別れて部屋の中に入っていていた。狼煙か若しくはサイレンを鳴らして注意を引くためか……。其処はどうにも見当がつかなかった。
「古賀君」
ベランダに出ていた古賀の袖を、英が軽く引っ張る。こんな所に居ても仕方ないと言いたいのか、彼女は古賀の顔を凝視している。古賀は英の方を向いて返事をした。
「……すまないとだけは言っておく。だから俺は直ぐに行動に移したい」
「もう警戒はしている。だけど……反応はない。若しかしたら、もう敷地の外に出ているかも知れない」
「それなら俺は外を探索する。英、お前は周辺の探索を続けてくれ」
「分かってる。反応があったら近くに居る誰かに連絡させる」
英の言葉に軽く返事をし、古賀は振り返らずに廊下に躍り出る。この短時間ならまだまだ追いつける。以前の追いかけっこでは逃げ切れられたが、今回も逃げられるなんて、そんな簡単に考えるなよ。そう思うと古賀の身体に、一気に力が漲っていった。